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第三章 魅せるもの、魅たいもの、魅せたいもの

3-5 終わりの玉座

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 つい先ほど殺した騎士殺しの黒騎士は、血塗れであることを除けば、生前と同じ笑顔をしていた。
「なぁ、ちょっとに連れて行ってくれよ。いつまでもここにいてもしょうがねぇし。せっかくだし探検しようぜ」
 突如喋り出した黒騎士の首は饒舌だった。黒騎士の首は、殺されたことさえ何でもなかったことのような顔をしていた。
「あ、俺のことは脇にでも抱えてくれりゃいいよ」
 言われるがまま、ミッコは黒騎士の首を小脇に抱えた。つい先ほどまで生きていたからか、それとも息があるからか、首はほんのりと温かかった。
「そうだ。そのサーベル使っていいぞ。丸腰じゃ不安だろ」
 ミッコはサーベルの血を拭うと、死体から剥いだ鞘に納め、帯刀した。

 このとき、ミッコはほぼ何も考えていなかった──考えたところで、状況があまりに常軌を逸していた──黒騎士の首に言われるがまま、ミッコは広間の奥の扉を開け、続く道へと歩き出した。

 しばらくの間、石畳の螺旋階段を上った。
 階段を上るたびに、かつての栄華を誇る装飾と建造物がこれまで以上に豪奢になっていく。光る虫が舞う石畳の左右には、誰が火を点けたのかもわからぬ篝火と、十字架を掲げた盲目の女ガーゴイルの銅像が連なる。壁から染み出る油のような黒い液体はこれまで以上に色濃く、崩落した壁際から見える空はほとんど真っ暗に塗り潰されている。

 道なりに進むと、塔と女王が描かれた大扉の前に辿り着いた。大扉は中途半端に開いていた。ミッコは光に引き寄せられる羽虫のように、隙間から中に入った。

 褪せた黄金が二人を包んだ──しかし、王の間は朽ち果てていた。崩れ落ちた巨大な〈神の依り代たる十字架〉の像の下、血のように真っ赤な玉座には褪せた黄金布が敷かれているだけで、誰も座ってはいなかった。王の間を彩る様々な装飾──塔の女王の絵画、神々の十字架、盲目の女ガーゴイルの銅像──も、今はただ終わりに沈みゆくだけだった。ただ、こんな廃墟で誰が焚いたのか、篝火だけはいつまでもぼんやりと灯っていた。

「なぁ、玉座に置いてくれないか?」
 黒騎士の首の言葉に従い、ミッコは黄金布を敷き直すと、玉座に置いた。黒騎士の首は朽ち果てた王の間を眺めながら、「こんなもんか」と満足そうに呟いた。
「グレタさんの言ってた塔の女王ってここにいるんじゃないんですか?」
「知らん。部外者の俺に訊くなよ」
「他に訊く人がいません」
 恐らく、塔の女王の使者を名乗るグレタならば何か知っているとも思ったが、きっとまた迷信深いことを一方的にまくし立てられる気がしたので、ミッコは現れないでくれと願った。
「こんなもんが……、こんなもんに俺たちは魅せられたのか……」
 言葉の片隅に憎悪を滲ませながら、黒騎士の首は言った。
「ミッコ。燃やしてくれないか?」
「何をです?」
「俺と、この塔、この国、この世界の全部をだ」
 そして全てが終わった玉座で、黒騎士の首は言った。

「いいんすか? それで?」
「首だけになって、俺はこれからどうやって生活すりゃいいんだよ?」
 至極当たり前の心配をする黒騎士の首を横目に、ミッコは篝火に目をやった。しかしそのとき、グレタの顔が思い浮かんだ。
「でも、グレタさんが……」
「あの婆さんに義理立てるのもいいだろう。お前が決めることだ」
 黒騎士の首はやはり他人事のように言った。
 ミッコ自身は、この場所を焼いて消し去ってしまいたかった。それほどまでに居心地は悪かった。しかしグレタは曲がりなりにもミッコの命を助け、ここまで導いてくれた。助けてくれた恩人の故郷を焼くという選択肢は、ミッコの動きを鈍らせた。
 ただ、グレタは二百年も昔の復讐に囚われている。彼女への義理を通せば、恐らく生きてエミリーに会うことはできない。

 ──だがそもそも、全てを燃やし消したところで、エミリーに再び会うことなどできるのだろうか?

 遥かなる地平線の果てを目指し、一緒に旅をしてきたエミリーはもういない。フーに奪われたあと、生きているのか死んでいるのかすらわからない。

「燃やしたあと、俺はどうすればいいんですか?」
「そんなもんお前の好きにしろ。ここは地平線のどん詰まりかもしれないが、遥かなる地平線の果てじゃない。東の果て、遥かなる地平線は遠くても、しかし同じ空の下にある。だから、お前はどこにだって駆けていける」
 ミッコはまだ幼かった頃を思い出した。すでに兵士となっていた兄たちが弱音を吐くたび、騎士殺しの黒騎士は決まって剣を抜き、剣を交えた。それがこの人なりの思いの伝え方なのだと、ミッコは幼心に感じていた。
「しかし……」
 自由の意味は理解していた。だからこそ今は、ただ独りで地平線に駆け出すなど到底考えられなかった。
「今さら、会いに行くなんて……」
 導きが欲しかった。導きなくば、どこに行けばいいかわからなかった。
「俺は、エミリーにとってはフーと同じです……。フーが俺から奪ったように、俺はあなたの息子のオジアスからエミリーを奪った……。エミリーから見れば、身勝手な男の一人に過ぎません……」
 ミッコは己の弱さに打ちひしがれていた。エミリーに会いたいという気持ちに嘘偽りはなかった。しかし口から出てくる言葉は、弱音、言い訳、現実逃避……、そんな身勝手なものばかりだった。
 罪悪感だろうか、エミリーを奪われて、初めてミッコは奪われる側の気持ちを理解した。それはやり場のない怒りであり、どうにもならないという諦観であり、選ばれなかった自らへの失望だった。
「はぁ? 世の中、そんなもんだろ?」
 ミッコは言い訳を探していた。そして同意してほしかった。
「少なくとも、オジアスと比べてお前は魅力的だったんだ。お前は男として女に選ばれたんだ。こんな東の果てまで一緒に旅するだけの度量と才覚はあったんだ。誇りに思え」
 しかし、励まされた。
 首だけとなった黒騎士の言葉は優しかった。一方で、血の繋がった息子であるはずのオジアス・ストロムブラードに対しては相変わらず厳しかった。突き放している、と言ってもよかった。部下ではあったが他人であるミッコと、育ててはいないが跡目を継がせようとしたオジアスへの思いの違い、その歪みが、ミッコにはどうしても理解できなかった。

「奪われたのなら奪い返せ。心まで死んでねぇのなら、相手がどれだけ強かろうが最期まで立ち向かえ。お前の女なら、死ぬときはそばで死ね」

 黒騎士の首はいつもにも増して強い口調で言った。しかしそれでもまだ、ミッコは言い訳をすることしかできなかった。
 ミッコは慰めてほしかった。先ほどのように、剣を交え、叱咤してほしかった。だが、怒りに任せ首を切ってしまった以上、それはもうあり得ない。
「お前は王になろうとしている男と戦った。戦い、殺し、奪い、犯す……。それはかつて〈東の覇王プレスター・ジョン〉が体現し、そして多くの男たちが目指した英雄の生き様だ。狼王の遺児は、正真正銘、男の中の男だ」
「褒めてるんですか……?」
「ふん、王が何だ。そんなもんクソ喰らえ」
 先ほどまで狼王の遺児のフーを讃えていた黒騎士の首は、今は玉座に唾吐いていた。
「『天も、地も、人も、全てに仇なし、悉くを焼き尽くす』……。俺は英雄にはなれなかったし、その力もなかったが、しかしその気概だけは最期まで失わずに生きた」
 率直に言えば、ミッコは騎士殺しの黒騎士が好きではなかった。北風の騎士は、兄たちは、戦友たちは、部族の同胞たちは、強くもなく、優れてもおらず、野心ばかりのこの男を上官と仰ぎ、付き従い、死んでいった。ミッコはその死に様を見続けてきたからこそ、この男を上官としながらも、この男が作り上げた黒騎兵オールブラックスに属しながらも、決して心までは従わずに戦ってきた。
「ミッコ。戦う理由はみな、それぞれ違う。だがこれだけは言える。俺たちはみな、自分のために戦ったんだ。敵も味方も、誰もが自らの信じるもののために、自らの命を懸け、自らの手で道を切り拓き、迷いながらも進もうとしたんだ。それは他がためであり、己のためだった。だから、お前も自分が信じた道を進めばいいんだよ」
 それなのに今、首だけとなった騎士殺しの黒騎士は、勝手極まりない理論を振りかざし、ミッコに道を説いていた。

 ミッコはやはりこの男を好きにはなれなかった。しかし、塔の闇に充満する暗いもやは、どこか薄まっているような気がした。

「俺は英雄になりたかった。だが、そんな力はなかった。俺は黒騎兵オールブラックスを最強の騎兵部隊にしたかった。でも、負けの方が多かった。俺は自分の願望のためにお前たちの力と献身を利用した。お前の兄貴も、家族や同胞たちも、部下たちも、そのために死なせてしまった。だがお前たちと一緒のとき、俺は夢を魅られた。お前たちと一緒に戦っているとき、俺は本当に楽しかった」
 自らを語る黒騎士の言葉の数々は、憐憫であり、懺悔であり、感謝だった。ミッコにとってそれらはあまりに身勝手な言葉だった。
「ミッコ。またお前と話せてよかったよ。俺は人に恵まれた」
 騎士殺しの黒騎士の思いはあまりに身勝手であり、しかし嘘偽りなく真摯であった。ミッコは騎士殺しの黒騎士をもう一度殺したかった。しかし、すでに首だけで何もできない者を再び斬りつける気にはなれなかった。

 ミッコは篝火の一つを足で転がすと、玉座の黄金布に火を点けた。
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