上 下
30 / 49
第二章 二人の果て

2-14 強ければ生き、弱ければ死ぬ

しおりを挟む
 濡れた草原を二騎は駆けた。

 まだ残る雨の匂いの片隅には、火薬と油の臭いがした。そして血と肉が燃える臭いがした。

 二人は来た道を戻った。デグチャレフ村は燃えていた。夏の陽射しに白く輝いていた礼拝所も、そこにそびえる〈神の依り代たる十字架〉の像も、今は炎に包まれていた。

 無数の騎馬が家屋に火を放ち、逃げ惑う民を追い回す。男は殺され、女子供は捕らえられていく。

 赤の親父を示す赤兎旗も燃えていた。ちょうど、グルホフスキーが兜ごと脳天を叩き割られていた。残る地域社会コミュニティの商人や兵士たちも一人また一人と殺されていった。それらを見下ろす狼のトーテムの先端には、ジェリコの首がぶら下がっていた。

 血の雨を降らせながら、戦狼たちストレートエッジ・コサックの戦士たちが笑う。
 戦狼たちストレートエッジの一騎が、縛り上げた少女を引きずって遊んでいた。白地に赤い刺繍の礼服を引き裂かれ、おもちゃにされているのはメイジだった。
 それを見た瞬間、ミッコとエミリーは同時に馬腹を蹴っていた。
 相手はこちらを見ると、メイジを背中に担ぎ、逃げ出した。
 二人は敵影を追った。しかし罠だったのか、気付けば無数の騎馬に周りを囲まれていた。そして行く手には、極彩色の兜を血で染め、偃月刀を構える大男がいた。

 目の前に、狼王の遺児フーが立ち塞がる。

 なぜここにフーがいるのか。あらゆる迷いが生じたが、しかし勢いが付き過ぎており、もはや方向転換は不可能だった──ならば、活路は前にしかない──ミッコは並走するエミリーを見た。深緑の瞳は迷わずフーに狙いを定めていた。
「エミリー、俺の背後に身を隠せ! 一発目は俺が受ける! 動きを止めたら、飛び出してそのまま突き殺せ!」
「わかった!」
 ミッコはそう言うと、拍車を入れ、エミリーの前に馬を出した。
 瞬きの間に、偃月刀の刃が迫る──勝てるのか、あの男に──一瞬の迷いが、脳裏を過ぎった。ミッコと同じく、ゲーフェンバウアーもまた恐れを抱いていた。しかし、その鼓動は覚悟を決めていた。だからミッコも迷いを振り払うことができた。

 偃月刀の間合いで打ち合っても勝機はない。しかし、二人なら、あるいは……。

 最初の一撃はただ防ぐのみ──ミッコは頭から相手の懐に突っ込んだ。

 重く鋭い一撃──ミッコは全身でそれを受け止めた。

 頭上から振り下ろされた刃を受け止める。鉄と鉄がぶつかり合い、ウォーピックが金切り声をあげる。
 まず、衝撃で右腕の骨が折れた。受け流し切れなかった衝撃で皿形兜ケトルハットがへこみ、頭からは血が流れた。しかし懐には潜り込めた。ゲーフェンバウアーも相手を喰いちぎらんばかりに体を入れ、フーの馬に体当たりをかました。勢いに身を任せ、ミッコはフーに組み付き、偃月刀と腕を押さえた。
「やれ!」
「覚悟!」
 背後から風が吹く。その一瞬を耐えるべく、ミッコは雄叫びをあげ、力を振り絞った。

 しかしそのとき、狂獣のごとき唸り声が響き、尋常でない強風が逆巻いた。

 唸るフーがミッコの首元に噛みついてくる。肉を喰いちぎられ、痛みとともに力が緩む。
 フーの馬が首をしならせ、ゲーフェンバウアーの体を吹き飛ばす。拘束を解くと同時に、強風をまとう偃月刀がミッコの体を薙ぐ。
 ミッコは咄嗟にウォーピックで防いだが、刃はあばら骨に食い込んでいた。狂猛なる一撃にウォーピックは弾き飛ばされ、ミッコ自身も地面に打ちつけられていた。

 痛みも、流血も、骨折も、感覚はあった。刃は胸肉を裂きあばら骨を砕いていたが、恐らく内臓は無事だった。ミッコはこの村で革鎧を売ってしまったことを後悔していた。革鎧を着ていれば、もう少し軽傷で済んだかもしれなかった。
 傷を負うことには慣れていたが、しかし今回は重かった。それでも、体だけは丈夫だという自負があった。態勢を整えるべくミッコは立ち上がろうとしたが、しかし今回はできなかった。
 地面から、見上げた。
 ゲーフェンバウアーはフーに手綱を握られていた。抵抗していたが、フーの手綱捌きはそれを見事なまでに御していた。
 エミリーも地面に転がっていた。幸い、剣はまだ握れていたし、呻き声も聞こえた。
 アルバレスも倒れていた。足の骨は折れており、誰が見ても再起は不可能だった。それでも主人を守ろうと、アルバレスはフーに向かって必死に首を振っていた。
 フーはゲーフェンバウアーを仲間に預けると、地に伏す白馬を一瞥し、一刀のもとにその首を両断した。
「おのれ! よくもアルバレスを!」
 エミリーは刺剣レイピアを手に立ち上がったが、フーはその首に縄をかけると、目にも止まらぬ縄捌きでエミリーを縛りあげた。

 ミッコの名を叫ぶ口元が塞がれ、猿轡さるぐつわから悲痛な呻き声が漏れる。

 名を呼ぶ声に向かい、ミッコは地面を這った。しかし頭を押さえられた。

 古き犬の紋章が目の前に現れた。どこから現れたのか、ミッコがぶん殴った旧主の番人オールドスクールの商人は、短剣を手に立っていた。
「クソガキ。覚えてるか」
 知るか──そう返したかったが、声は出なかった。
 短剣が首元に触れた。そのとき、フーが馬を降り、何か言った。旧主の番人オールドスクールの商人はそれに振り返ると、何か言い返した。
 一言二言、言葉が交わされたあと、口論になる前に、フーの偃月刀が古き犬の紋章を両断した。旧主の番人オールドスクールの商人は頭から胴体を真っ二つにされていた。他の旧主の番人オールドスクールたちは抗議の声をあげようとしたが、すぐに全員射殺されてしまった。

 血の雨が降った。ミッコは再び地面を這った。しかし、また頭を押さえられた。

 乱暴に胸ぐらを掴まれ、持ち上げられた。目の前にはフーがいた。もがいたが、今は殴り返すどころか、腕を上げることすらできなかった。
 切れ長の黒い瞳が、ミッコを覗き込む。
 生まれて初めての感覚だった──俺はここで死ぬ──フーを目の前にして、ミッコは初めて死を恐れた。
 そんなミッコを見るフーは、目尻を下げ、笑った。
「あの女は俺の物だ。わかったか?」
 衝撃と畏怖が身を貫いた。訛りはあったが、それは意味の分からぬ言語ではなく、大陸に広く普及した共通語だった。フーははっきりと、ミッコに聞こえるように言った。
「よかったよ。〈塔の国〉に入る手前で追いついて。仲間たちもさすがにあそこには入りたがらないからな」
 フーが血に染まった口元を歪め、言葉を続ける。
「強ければ生き、弱ければ死ぬ。しかし戦士は死を恐れない。お前は恐れた。お前は戦士ではない。お前の首など、捕る価値もない」
 そうして、ミッコは地面に投げ捨てられた。
 フーはエミリーを抱えると、颯爽と馬に跨った。そしてゲーフェンバウアーの手綱を取って従えると、戦狼たちストレートエッジの騎馬軍を率い去っていった。

 血と炎の中で、エミリーの声が遠ざかっていく。

 遠ざかる声を聞きながら、ミッコはエミリーの婚約者であり、また自身の上官であったオジアス・ストロムブラードから、同じようにエミリーを奪ったことを思い出した。
 あの日、ミッコはエミリーを奪い、旅に出た──この女は俺の物だ──あのとき、フーと同じような思いを抱いていたのは間違いなかった。
 あのとき、エミリーの周りの人間のことなど、何も考えていなかった。オジアスにはもちろん、エミリーの父親であるウィルバート・ソドー氏に対してすら、その気持ちを考えたことはなかった。

 北の彼方に居並ぶ無数の塔の影が、炎の向こうで燃える。

 また、雨が降り始めた。それは血の色をしていた。

 あの日、最後の戦いを駆け抜けたあとと同じように、今は何もかもが虚ろだった──しかし、今度は奪われた。戦いに敗れ、そして全てを失った。

 あらゆる感情を洗い流すかのように、血の雨は降り続けた。

 薄れていく意識がどれほど続いたのだろうか──どこからか、足音が近づいてきた。
 視界の隅に、二つの影が浮かんだ。炎に焼かれた騎士と、頭の潰れた騎士は、横たわるミッコを見下ろしていた。
 二人が何者なのか、ミッコは薄々わかっていた。しかし、もはやミッコに反応する余力は残っていなかった。そして意識は途切れた。
しおりを挟む

処理中です...