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第二章 二人の果て

2-13 思い

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 雨に濡れる夏空の下、二人は馬に跨ると、ゆっくりと歩き始めた。

 どこに行こうかとは話さなかった。馬首は自然と東を向いていた。
 普段、今までとは立ち位置が逆になっていた。エミリーが先を行き、ミッコはあとに続いた。

 無言のうちに、村を抜け、雑木林を抜けた。雨の向こうには、見飽きるほど見てきた広大な地平線が広がっていた。

 風の声の消えた地平線に、雨音だけが響く。

 北側にこそ〈塔の国〉の残影が居並び、北限の峰の白い稜線が見えるが、それ以外は基本的に何もなかった。しばらくして、草原の中に木造の廃屋を一軒見つけたが、それもほとんど風景の一部に溶け込んでいた。
 一瞬、廃墟に潜む影が頭を過ぎった──だが、雨宿りしようと言うエミリーは笑顔だった。
 軒先には木製の椅子が二つ残っていた。二人はそれに座り、何をするでもなく、夏の太陽を濡らす雨と地平線を眺めた。
 雨の向こうで陽は傾いていた。村に戻る気にはなれなかったが、かといって旅支度はしておらず、このまま進むこともできなかった。しかし、迷うミッコの横で、エミリーはゲーフェンバウアーとアルバレスをうまやに繋ぐと、廃屋に入り、暖炉で火を焚き始めていた。

 服を脱ぎ、濡れた体を乾かす。あるときを境にその流れを止めていた廃屋に再び火が灯り、火と雨の音の片隅に風が流れる。
「ねぇ、何であんなに奴隷商人たちに突っかかっていったの? アンナリーゼたちと一緒のときは、奴隷なんてどこにでもいるみたいな感じで素っ気なかったのに」
「ただ単に、旧主の番人オールドスクールの犬が気に入らなかっただけだよ」
 あの男をぶん殴ったことについて、悪いとは思っていなかった。売られた喧嘩を買った、それだけだった。
「逆に、エミリーは止めようとしてたよね。アンナリーゼ、というかアリアンナには凄い突っかかってたのに」
「あの村では、私たちが何を言っても変わらないと思ったから……。あの子は多分、全部納得したうえであの場にいたはずだし……」
「あの子ってメイジのこと? 何か話したの?」
 デグチャレフ村の地元民たちは独自の言語を使っており、大陸共通語はわからないとマルーン神父は言っていた。ミッコとも会話が成立したことはない。だからエミリーがどうやってそれを知ったのか、ミッコは訊ねた。
「うまく説明できないけど……。」
 エミリーは言葉を濁すと、黙ってしまった。そして次の言葉を探すように、揺れる火を見ていた。
「ねぇ、手を繋いでもいい?」
 なぜそんなことを訊くのかとミッコは怪訝に思ったが、断る理由もないので頷いた。

 骨と皮だけになった、しかしよく知る指先がミッコに触れる。
 腕の刺青いれずみを撫でるその感触にミッコは安堵した。しかしエミリーが目を閉じた瞬間、何かが流れ込んできた──あの夜、炎に焼かれた騎士と頭の潰れた騎士を見たときと同じ、何かもわからぬ光景が……。


*****


 見ず知らずの老夫婦が、前にいた。
 
 老夫婦が話しかけてくる。すぐ横では、幼い男の子が座って話を聞いている。

 村は〈塔の国〉のやや南西に位置する。〈塔の国〉の近くであれば騎馬民は近づかないし、北に近いのですぐ冬に閉ざされる。外界から孤立していた立地のおかげで、この村は平和的に文化と伝統を守り繁栄することができた。しかしその特殊性に目を付けた者たちは、この村を保護するという名目で管理下に置いた。そして奴隷と傭兵の二大産業の供給地の一つに組み込んだ。
 かつては大勢の村人が定期的に奪われていたが、神父が来てから状況は変わった。今、その数は一人、ないしは二人だけになり、その性質も変わった。

 女は聖女に、男は神の剣に……。

 奪われることに変わりはないのかもしれない。しかし今、それは我らの誇りだと老夫婦は言った──ハンターだろうか、すぐ横で話を聞く男の子は、目を輝かせていた。


*****


 夢か幻か、それはそこで途切れた。目の前に老夫婦はおらず、今はエミリーがいるだけだった。
「何だ今の……?」
「わからない……」
 お互いが困惑していた。だから、答えなど出てくるわけもなかった。

 火と雨の音だけが、流れ消える。

 ミッコは目を閉じた。これまで見てきたあらゆる光景が目蓋の裏に浮かんだ────戦場で見てきたもの、二人が見てきたもの、地平線が魅せるもの──酷い世界だと思った。酷い人間しかいないと思った。

 世界は、力によって作られる。力ある者は自らの望むように力を行使し、より弱い者へその代償を払わせる──エミリーは政略結婚の道具とされ、メイジやデグチャレフ村の人々は聖女は誇りだと誑かされその身を捧げようとしている。

 そしてそんな酷い世界で、ミッコは同様に、ずっと酷いことをして生きてきた。

 力にものを言わせ、殺し、奪い、犯してきた。エミリーを守るとうそぶきながら、その実、自分よりも弱い人間だとし、対等には見ていなかった。

「エミリー……、俺は……」
 ない混ぜになる思いが浮かんでは消える。言いたいことは溢れるほどあった。しかし、言葉にはならなかった。
「いいのよミッコ。言わなくても」
 エミリーは言葉を遮ると、静かにミッコの体を抱き寄せた。
「どうして……」
「だって、またこうして一緒にいられるんだから……」
 ミッコの手をエミリーが握り締める。
 また、何かが流れ込んでくる──お互いの様々な思いが絡み合い、結びつき、紡がれる。
 エミリーは受け入れてくれている気がした──ただし、これはミッコの一方的な思いに過ぎない──それだけで、ミッコは救われた気がした。

 今はただ、ずっとこのままでいられればよかった。

 エミリーの胸元に顔を埋め、ミッコは泣いた。火と雨の音、そしてエミリーの鼓動に耳を傾けているうちに、気付けば眠っていた。

 一夜が明けた。火と雨音の消えた薄闇の中、二人は服を着ると、肩を抱きながら外へ出た。

 朝、夜明けの空は燃えていた。

 一目見た瞬間、ミッコとエミリーはほとんど同時に馬に跨り、そしてデグチャレフ村に向かい駆け出していた。エミリーは刺剣レイピアを、ミッコはウォーピックを、それぞれ握っていた。

 それはいつか見た夜明けと同じだった。流れ吹く風の哭き声は虚ろなものだったが、しかしその色は確かな血に染まっていた。
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