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第二章 二人の果て

2-2 望んだ、しかし想像とは違う冒険②

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 遠く北限の峰の白い頂から、夏の風が吹き抜ける。

 虫の音が息づく風は暑かった。夜はともかく、日中はもうほとんど初夏の陽気だった。
 ミッコは軍人時代と同じように装具を着崩していた。服の袖はまくり、革鎧も胸当て以外は外している。肩にかけるマントも汗拭き代わりにしている。一方、エミリーの服装は旅立ちのときから変わっていない。襟元や袖口がきっちりとした貴人の旅装は今の気候では間違いなく暑いであろうが、しかしその汗は凍りついている。

 二騎の息遣いだけが風に流れる。

 相変わらず二人の間に会話はない。たまに思い出したように一言二言交わされるが、ミッコはもう会話を諦めていたし、エミリーも相づちを打つだけで何も言わない。

 会話のない旅路は長かった。

 連なる草原の先の地平線に、廃墟街ゴーストタウンが現れる。
 陽は傾きかけていた。原野と廃墟、どちらで野営するかの判断は難しかった。しかし風には雨の匂いがした。結果的にはしっかりとした屋根を求めた。
 二人は廃墟街ゴーストタウンに足を踏み入れると、いつかのように廃教会に入って宿営の準備を始めた。
 水堀と石壁に囲まれた廃教会はさながら城だったが、神聖なる〈神の依り代たる十字架〉の像さえもが持ち去られた敷地内は、荒れていた頃がいつなのかさえわからぬほどに朽ちていた。もちろん人気もなく、生き物の気配といえば、たまに転がっている骨の欠片ぐらいのものだった。

 ミッコが宿営の準備をする間、エミリーは〈神の依り代たる十字架〉があったであろう場所に跪き、ずっと祈っていた。それはやはり呪詛のようで、誰かと話しているようでもあった。
 しかし、信仰心を捨てたミッコは内心、面白くなかった──神頼みに何の意味があるのか──正直に言えば、さっさと終わらせて宿営の準備を手伝ってほしかった。
 苛立ちは行動となって現れていた。食事の間、ミッコは無言だった。そしてさっさと食事を終え、寝ようとした。
 そのときだった。エミリーがおぼろげな目でミッコを見た。
「どうかしたのか?」
 些細な沈黙に耐え切れず、ミッコは訊ねた。ただ、少し気は立っていた。
「ミッコは遥かなる地平線の果てってどんな所だと思ってる……?」
「あー……、ロマニア・シルヴェストルの小説に書いてあるような場所じゃねぇのかな?」
「もしそれが本当にあったとして、辿り着けると思う……?」
 エミリーは陰鬱な表情をしていたが、ミッコは目を逸らした。
「まぁ、今はまだ〈嵐の旅団コサック〉の勢力圏内だけど、そのうち誰もいなくなるんじゃねぇかなぁ? そしたら、適当に住みやすそうな場所を見つけて、家を建てて、暮らそうぜ。どこもこんなもんなんだろうし、きっと大丈夫だって」
「どこもこんなもんって……。何よそれ……?」
 回答に困り、ミッコは誤魔化そうとした。しかしエミリーは噛みついてきた。
「どこまで行ってもこんなのが続くなら、旅に出た意味なんてないと思わない? どこも一緒なら、そんな場所なんてないかもしれないのに……」
「何だよ? 言い方の問題かよ?」
 口を尖らせるエミリーに、ミッコも思わず語気を強める。
「じゃあオジアスと結婚して〈帝国〉で暮らしてた方がよかったか? 故郷を離れて、誰も知らない土地に独りで行く方がよかったのか?」
「でも、私たち二人で話し合って決めたじゃない。誰もいない場所に行こうって。二人とも泳げないから、西の海を越えるのは諦めて、馬で東に行こうって決めたじゃない。東は滅んでるけど、だからこそ自由だって言ったじゃない。それで誰もいない場所に家を建てて、二人だけで暮らそうって約束したじゃない。遥かなる地平線の果てで、二人だけの故郷を信じたじゃない……」
「そりゃ言ったけどさ……。でも、大変な旅になるのはわかってただろ? 今さら弱音吐いてもどうしようもねぇだろ」
 ない交ぜになった感情の発露──慰めてほしいのだろうか──しかし縋るようなその感情はミッコの心を逆撫でした。
「小説だと、地平線の果てには〈無限の草原〉とか〈王朝〉とか〈神聖なる湖〉とかがあるって夢みたいなことばっか書いてあるけど、大半は作者の創作だろうよ。実際に旅して書いたって言われてるけど、どこまで本当なんだか……」
 一方的に感情を押しつけるな──ミッコは我慢していたものを吐き出していた。ミッコはエミリーに対して初めて苛立ちをぶつけていた。
「そもそも細かい計画なんて最初からなかっただろ。なのに何で俺ばっか責められなきゃいけねぇんだよ……」
 取り返しがつかないと思いながらも、本音が漏れた。一瞬、エミリーの瞳に悲しみが過ぎり、ミッコはやはり失言だったことを悟った。しかし、一瞬見えたその感情もすぐに沈んだ表情のどこかに消えてしまった。

 結局、サコーの街の酒場の親父が言った通りだったのかもしれない──東に夢なんてない。
 いや、きっとこの大陸のどこにもそんなものはないのだろう。〈帝国〉と〈教会〉の戦争が終わり、確かに平和は訪れた。しかし世の中は何一つ変わっていない。行く先々で人々はいがみ合い、争い、殺し合っている。それはもはや生活の一部といっていい。そんな日常が繰り広げられる世界に、夢や希望などあるはずがない……。

 今、二人は紛れもなく冒険をしている──見知らぬ土地を、案内人も付けず、手探りで──あえて表現するならば、これは二人が望んだ冒険だった。しかしそれは二人が想像した冒険ではなかった。

 ミッコは苦虫を嚙み潰していた。会話がないことが辛かった。確かに愛し合っていたからこそ、会話がなくとも信頼は揺るぎないはずだった。しかし今は沈黙が耐えられなかった。
「なぁ。俺はどうすりゃいいんだよ?」
 埒が明かず、また本音が漏れた。
「わかったよ。俺が悪かったよ……」
「悪いと思ってないでしょ……」
 ミッコは口を噤んだ。エミリーに言われたことは事実だった。事実ゆえに、反論はできなかった。
「ねぇ……。戦争中、黒騎兵オールブラックスが〈教会〉で何て呼ばれてたか知ってる?」
「さぁ……?」
「皇帝の薄汚れた犬、誇りなき騎士殺し、〈黒い安息日ブラック・サバス〉の冒涜的殺戮者……。他にも色々あった。司祭様たちはもちろん、王侯貴族も民衆も、〈教会〉に暮らす誰もがあなたたちを嫌っていた。もちろん私も嫌っていた。実際には見たことすらなかったのに……」
 それらはどれもよく聞く異名だった。オジアス・ストロムブラードの前任の隊長、騎士殺しの黒騎士はいつもそれを誇っていた。ただ、ミッコは戦争後期から従軍し始めたので、それら悪名の大半には絡んでいない。
「でもね、お父様だけは違った。お父様は黒騎兵オールブラックスに騎士団が壊滅させられたあとも、帝国軍が首都を焼いたあとも、私のお兄様が二人とも戦死したあとも、ずっと〈帝国〉と戦い続けた。それでもあなたたちのことを悪く言ったことは一度もなかった」
 戦争初期、黒騎兵オールブラックスはエミリーの父が所属していた騎士団を壊滅に追い込んだ。最後こそ冬の嵐の如き一方的な殺戮となったが、しかし凄惨を極めたその戦いで、ミッコは長兄を失った。
「だからね、訊いたの。お父様は〈帝国〉のことが憎くないのかって。騎士団を壊滅させられて、首都も焼かれて、お兄様たちも殺されたっていうのに、何で文句の一つも言わないのかって」
 戦争中、ミッコは長兄を失った後、父親を、長姉を、次兄を相次いで失った。騎馬民の血を引く同胞たちも多くが死に、部族は事実上消滅した。黒騎兵オールブラックスで共に駆けた戦友たちも、やはり多くが死んだ。
「そしたら、何て言ったと思う?」
 訊ねられたが、ミッコは沈黙で返答した。
「お父様はね、彼らはただ務めを果たしているだけだって言ったの。自分と同じようにね……」
 いかな悪名を背負おうとも、それこそが我らの果たしてきた務めだ──騎士殺しの黒騎士はそう言って、常に先陣を駆け続けた。それがどれだけ薄汚れた誇りだとしても、しかし確かに歩んだ道であるとミッコに説いた。
「そのときは納得できなかった。でも理由を訊いても、お父様はそれだけしか言わなかった」
 当然、ミッコも納得はできなかった。誇りも、名誉も、栄光も、もっと華々しいものであると当時は信じていた。
「私はお父様を信じた。ミッコのことも信じてた」
 そして、何か形容できぬ意志がミッコを貫いた。しかしミッコはそれを直視することができなかった。

 沈黙の風に虫の音だけが響く。

 エミリーはミッコと物理的に距離を取ると、コートを被り横になった。ミッコは「おやすみ」と声をかけたが、返事はなかった。
 しばらくの間、ミッコは何をするでもなく焚き火を眺めていた。
 夜風に耳を澄ませ、待った。降り始めた雨と虫の音の隅で寝息が聞こえるようになるまでは、時間がかかった。エミリーが眠りに落ちたことを確認し、ミッコは横になった。ただ、横並びにはなったが、いつものように抱き合って眠ることはしなかった。

 この日、二人は出会ってから初めて別々に眠った。

 そして翌朝、エミリーはどこかへ消えた。
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