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第一章 東に吹く風
1-9 廃墟の住人
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繰り返す朝と夜の狭間で、春風が徐々に熱を帯びていく。
旅は続いている。東へ……。〈帝国〉の国境を越え、〈嵐の旅団〉の勢力圏へ……。赤の親父の根拠地、イズマッシュへ……。
夜。ミッコとエミリーは馬車の一角でいつものように肩を寄せ合い眠っていた。その日は珍しく隙間風の冷たい日だった。
夜明け前、馬車の外から声が聞こえた。ミッコは毛布に包まったまま聞き耳を立てた。アンナリーゼ、アデーラ、他に数名の男の声がした。定刻、廃墟、斥候、行方不明……。天幕の布切れ一枚を隔て、そんな言葉が隙間風から漏れ聞こえた。
ミッコは毛布から手を伸ばし得物を握った。エミリーを起こさぬよう、なるべく静かに体を起こそうとしたが、すぐに集合の角笛が鳴った。
騒めきとともに夜が明ける。起き上がるミッコを横目に、エミリーが毛布の中で体を縮める。
「おはよう」
「……何かあったの?」
「仕事だと」
ミッコは革鎧を着込み、矢筒を背負い、ウォーピックを腰に提げた。寝起きのエミリーはまだ事情が飲み込めていないようだったので、ミッコは代わりにマスケット銃や早合の準備をした。
準備を終え外に出る。隊商の戦闘員はほとんど出揃っていた。状況は赤の親父の次女アデーラが説明した。
夜明けの地平線に声が響く。アデーラの言葉は簡潔だった。すぐに行方不明となった斥候二名の捜索が始まった。
夜明けの太陽に赤兎旗がはためく。東の地平線の日の出を望みながら、四人組の人馬が廃墟の枯れ野へと繰り出す。
「おいイワレンコフ、客人二人をよく見張っとけ」
四人組の先頭を行くミラーが最後尾につくイワレンコフに声をかける。当然、その間にいるミッコとエミリーにもそれは聞こえている。
「へいへーい。お二人さん、何かあったときは頼みますよぉー」
命令口調のミラーに対し、弦楽器を手に馬を操るイワレンコフは鼻歌を歌っていた。
ミラーとイワレンコフは共にアンナリーゼ直属の部下だが、中々に対照的な二人だった。部隊長格のミラーは騎馬民の戦士というよりは軍人であり、言動は高圧的かつ一切の無駄がなかった。一方、ミッコと同年代のイワレンコフは酒と女と戦いを愛するいかにもな〈嵐の旅団〉の戦士であり、弾き語る歌も酒と女と戦いのことばかりだった。
ミラーが非常に絡みづらく、イワレンコフとは年齢も近いことから、エミリーは何かとイワレンコフと話すことが多かった。
「ねぇ。何で弦楽器を持ってきたの?」
「相棒だからな。死ぬときは一緒って決めてんだ」
エミリーが訊ねると、イワレンコフは自慢げに弦楽器の弦を弾き、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑顔を見せた。ただ、苦笑いするエミリーは素直に不安そうだった。
「大丈夫だってエミリーちゃん。今はまだ何も起こらねぇから」
鼻歌混じりのイワレンコフを見るエミリーはやはり困惑していた。エミリー同様、ミッコもこの常に酔っぱらっているかのような戦士に背中を預けるのは少々不安だった。
風が吹く。空の陽が揺らめき、地の影が虚ろう。斥候が行方不明になったという廃墟群が地平線にその姿を現す。
大いなる災厄により朽ちた亡国の遺産はすでにその色を失っているとはいえ、この地区はまだ石造りの城郭が多く残っていた。中には見上げるほどの城壁や高塔も残っており、だだっ広い地平線に異質な雰囲気を醸し出している。
アンナリーゼの隊商は野営をする際、このような建造物が密集する地域には決して陣を敷かなかった。戦狼たちのような騎馬民の襲撃者を警戒する場合、このような城郭は有効な防御陣地になるはずだが、基本的には近づこうとすらしなかった。
ミッコは当初、建造物が密集する地域では死角が増えるうえに騎馬が自由に動けず、得意の騎馬戦ができないからだと思っていた。しかしイワレンコフやその仲間いわく、理由はそれだけではなさそうだった。
廃墟には住人がいる。それは廃墟に居着いた流れ者や野盗、野生の獣とは違う。それは〈神々の児戯〉──〈教会〉が伝承に説く、〈神の奇跡〉と呼ばれる魔法の類──が魅せる人の影であり、死してなお生き続ける人の意志である……。そうイワレンコフは言った。
〈嵐の旅団〉の一般的な宗教観では、死した魂は〈神の依り代たる十字架〉に弔われたあと、〈東の覇王〉のいる遥かなる地平線へと駆けていく。しかし現世に未練を残してしまった不運な魂は、地平線を吹く風に流され、やがて廃墟に流れ着いてしまう。そして無限の孤独に苛まれるそれは意志を魅せたがる。その意志に魅入られたが最後、人はあちら側に取り込まれてしまう……。だから騎馬民は決して近づかない。そうイワレンコフは笑顔で語った。
初めて聞いたとき、ミッコは内心でくだらない迷信だと思った。信心深いエミリーもまた、〈教会〉の説く信仰と〈嵐の旅団〉の土着文化が融合した独自の伝承に過ぎないと思ったに違いない。
死んだら土に還る。そこで全ては終わる。確かに生きていた人の意志も、いずれは語られることもなくなり、どこかへと消えていく──兵士としての最後の戦いを期に、ミッコは信仰を捨てた。しかし今、その意志は揺らいでいた。眉唾物の住人はミッコの脳裏で奇妙なほどに存在感を増していた。廃墟に映る影は異様に濃く、無数の影が蠢いているようにさえ見えた。
風が吹き、静寂が廃墟の枯れ野を流れていく。誰も何も語らなかったが、しかし四人の神経はそれぞれに研ぎ澄まされていた。
今までにないほど体を強張らせたゲーフェンバウアーの手綱を取りながら、ミッコは不意に血の臭いを感じた。微かな、もはや残り香ともいえぬほどの臭いだったが、しかしそれは確かに風に漂っていた。
次に、ミラーが血の道標を見つけた。石畳の上、流血を引きずり、それを隠すようにして拭った痕跡は、とある城郭の中へと続いていた。
血痕を前に、ミッコとミラーは顔を見合わせた。
「戦狼たちの仕業だと思いますか?」
「いや、やり方が雑過ぎる。わざとでなければな」
「罠の可能性は?」
「奴らは優秀な狩人だが、室内に罠を張るようなやり方はあまり聞かん。そもそもこんな場所で待ち伏せる度胸もないだろう」
「どうするので?」
「中を調べる。近接戦闘の準備をしとけ」
ミラーが指笛を吹く。すぐにアデーラとその部下たちが駆けつけてくる。
ミラーは一言二言アデーラと打ち合わせると、他の組の者に馬を預け、燧石式拳銃を両手に持った。
「ちょっと待って下さい。エミリーは外に残してほしい」
「なぜだ?」
「なぜって……。エミリーは女だ。殴り合いになっても戦力にはなりません」
「お前らとは傭兵契約を結んだはずだ。俺は戦力だと思っている」
「そうですけど……。何かあったらどうするので?」
「一人に何かあったら他の三人が対処する。そのための四人組だ」
ミッコは何度も進言したが取り付く島もなかった。アデーラにも伝えたが、「四人で行動する方が安全だ」と断られた。
ミッコはエミリーに目をやった。本人は「大丈夫だ」と微笑んでいたが、拳銃や短剣を確認する仕草は神経質であり、足手まといにはなるまいとする焦りも見て取れた。
「人か、獣か、亡霊か……。いずれにせよ、住人もこちらには気付いているだろう」
ポツリと呟いたミラーの言葉は重かった。弦楽器を背中に担ぐイワレンコフの鼻歌もいつの間にか止まっており、その目は臨戦態勢に切り替わっている。
「エミリー、俺のベルトを掴め。背中に貼りついて絶対に離れるな」
ミッコは腰のベルトを握らせると、エミリーの肩を叩き励ました。つば広の帽子の奥で、深緑の瞳は気丈に頷いた。
人影には触れるな──廃墟に足を踏み入れる前、アデーラや〈嵐の旅団〉の戦士たちは口を揃えてそう言った。
ミラーを先頭に、四人は廃屋の中へと足を踏み入れた。視界がさらに狭まり、暗闇が重く圧しかかった。廃墟に滲む静寂は息苦しさを覚えるほどに冷たかった。
旅は続いている。東へ……。〈帝国〉の国境を越え、〈嵐の旅団〉の勢力圏へ……。赤の親父の根拠地、イズマッシュへ……。
夜。ミッコとエミリーは馬車の一角でいつものように肩を寄せ合い眠っていた。その日は珍しく隙間風の冷たい日だった。
夜明け前、馬車の外から声が聞こえた。ミッコは毛布に包まったまま聞き耳を立てた。アンナリーゼ、アデーラ、他に数名の男の声がした。定刻、廃墟、斥候、行方不明……。天幕の布切れ一枚を隔て、そんな言葉が隙間風から漏れ聞こえた。
ミッコは毛布から手を伸ばし得物を握った。エミリーを起こさぬよう、なるべく静かに体を起こそうとしたが、すぐに集合の角笛が鳴った。
騒めきとともに夜が明ける。起き上がるミッコを横目に、エミリーが毛布の中で体を縮める。
「おはよう」
「……何かあったの?」
「仕事だと」
ミッコは革鎧を着込み、矢筒を背負い、ウォーピックを腰に提げた。寝起きのエミリーはまだ事情が飲み込めていないようだったので、ミッコは代わりにマスケット銃や早合の準備をした。
準備を終え外に出る。隊商の戦闘員はほとんど出揃っていた。状況は赤の親父の次女アデーラが説明した。
夜明けの地平線に声が響く。アデーラの言葉は簡潔だった。すぐに行方不明となった斥候二名の捜索が始まった。
夜明けの太陽に赤兎旗がはためく。東の地平線の日の出を望みながら、四人組の人馬が廃墟の枯れ野へと繰り出す。
「おいイワレンコフ、客人二人をよく見張っとけ」
四人組の先頭を行くミラーが最後尾につくイワレンコフに声をかける。当然、その間にいるミッコとエミリーにもそれは聞こえている。
「へいへーい。お二人さん、何かあったときは頼みますよぉー」
命令口調のミラーに対し、弦楽器を手に馬を操るイワレンコフは鼻歌を歌っていた。
ミラーとイワレンコフは共にアンナリーゼ直属の部下だが、中々に対照的な二人だった。部隊長格のミラーは騎馬民の戦士というよりは軍人であり、言動は高圧的かつ一切の無駄がなかった。一方、ミッコと同年代のイワレンコフは酒と女と戦いを愛するいかにもな〈嵐の旅団〉の戦士であり、弾き語る歌も酒と女と戦いのことばかりだった。
ミラーが非常に絡みづらく、イワレンコフとは年齢も近いことから、エミリーは何かとイワレンコフと話すことが多かった。
「ねぇ。何で弦楽器を持ってきたの?」
「相棒だからな。死ぬときは一緒って決めてんだ」
エミリーが訊ねると、イワレンコフは自慢げに弦楽器の弦を弾き、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑顔を見せた。ただ、苦笑いするエミリーは素直に不安そうだった。
「大丈夫だってエミリーちゃん。今はまだ何も起こらねぇから」
鼻歌混じりのイワレンコフを見るエミリーはやはり困惑していた。エミリー同様、ミッコもこの常に酔っぱらっているかのような戦士に背中を預けるのは少々不安だった。
風が吹く。空の陽が揺らめき、地の影が虚ろう。斥候が行方不明になったという廃墟群が地平線にその姿を現す。
大いなる災厄により朽ちた亡国の遺産はすでにその色を失っているとはいえ、この地区はまだ石造りの城郭が多く残っていた。中には見上げるほどの城壁や高塔も残っており、だだっ広い地平線に異質な雰囲気を醸し出している。
アンナリーゼの隊商は野営をする際、このような建造物が密集する地域には決して陣を敷かなかった。戦狼たちのような騎馬民の襲撃者を警戒する場合、このような城郭は有効な防御陣地になるはずだが、基本的には近づこうとすらしなかった。
ミッコは当初、建造物が密集する地域では死角が増えるうえに騎馬が自由に動けず、得意の騎馬戦ができないからだと思っていた。しかしイワレンコフやその仲間いわく、理由はそれだけではなさそうだった。
廃墟には住人がいる。それは廃墟に居着いた流れ者や野盗、野生の獣とは違う。それは〈神々の児戯〉──〈教会〉が伝承に説く、〈神の奇跡〉と呼ばれる魔法の類──が魅せる人の影であり、死してなお生き続ける人の意志である……。そうイワレンコフは言った。
〈嵐の旅団〉の一般的な宗教観では、死した魂は〈神の依り代たる十字架〉に弔われたあと、〈東の覇王〉のいる遥かなる地平線へと駆けていく。しかし現世に未練を残してしまった不運な魂は、地平線を吹く風に流され、やがて廃墟に流れ着いてしまう。そして無限の孤独に苛まれるそれは意志を魅せたがる。その意志に魅入られたが最後、人はあちら側に取り込まれてしまう……。だから騎馬民は決して近づかない。そうイワレンコフは笑顔で語った。
初めて聞いたとき、ミッコは内心でくだらない迷信だと思った。信心深いエミリーもまた、〈教会〉の説く信仰と〈嵐の旅団〉の土着文化が融合した独自の伝承に過ぎないと思ったに違いない。
死んだら土に還る。そこで全ては終わる。確かに生きていた人の意志も、いずれは語られることもなくなり、どこかへと消えていく──兵士としての最後の戦いを期に、ミッコは信仰を捨てた。しかし今、その意志は揺らいでいた。眉唾物の住人はミッコの脳裏で奇妙なほどに存在感を増していた。廃墟に映る影は異様に濃く、無数の影が蠢いているようにさえ見えた。
風が吹き、静寂が廃墟の枯れ野を流れていく。誰も何も語らなかったが、しかし四人の神経はそれぞれに研ぎ澄まされていた。
今までにないほど体を強張らせたゲーフェンバウアーの手綱を取りながら、ミッコは不意に血の臭いを感じた。微かな、もはや残り香ともいえぬほどの臭いだったが、しかしそれは確かに風に漂っていた。
次に、ミラーが血の道標を見つけた。石畳の上、流血を引きずり、それを隠すようにして拭った痕跡は、とある城郭の中へと続いていた。
血痕を前に、ミッコとミラーは顔を見合わせた。
「戦狼たちの仕業だと思いますか?」
「いや、やり方が雑過ぎる。わざとでなければな」
「罠の可能性は?」
「奴らは優秀な狩人だが、室内に罠を張るようなやり方はあまり聞かん。そもそもこんな場所で待ち伏せる度胸もないだろう」
「どうするので?」
「中を調べる。近接戦闘の準備をしとけ」
ミラーが指笛を吹く。すぐにアデーラとその部下たちが駆けつけてくる。
ミラーは一言二言アデーラと打ち合わせると、他の組の者に馬を預け、燧石式拳銃を両手に持った。
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「なぜだ?」
「なぜって……。エミリーは女だ。殴り合いになっても戦力にはなりません」
「お前らとは傭兵契約を結んだはずだ。俺は戦力だと思っている」
「そうですけど……。何かあったらどうするので?」
「一人に何かあったら他の三人が対処する。そのための四人組だ」
ミッコは何度も進言したが取り付く島もなかった。アデーラにも伝えたが、「四人で行動する方が安全だ」と断られた。
ミッコはエミリーに目をやった。本人は「大丈夫だ」と微笑んでいたが、拳銃や短剣を確認する仕草は神経質であり、足手まといにはなるまいとする焦りも見て取れた。
「人か、獣か、亡霊か……。いずれにせよ、住人もこちらには気付いているだろう」
ポツリと呟いたミラーの言葉は重かった。弦楽器を背中に担ぐイワレンコフの鼻歌もいつの間にか止まっており、その目は臨戦態勢に切り替わっている。
「エミリー、俺のベルトを掴め。背中に貼りついて絶対に離れるな」
ミッコは腰のベルトを握らせると、エミリーの肩を叩き励ました。つば広の帽子の奥で、深緑の瞳は気丈に頷いた。
人影には触れるな──廃墟に足を踏み入れる前、アデーラや〈嵐の旅団〉の戦士たちは口を揃えてそう言った。
ミラーを先頭に、四人は廃屋の中へと足を踏み入れた。視界がさらに狭まり、暗闇が重く圧しかかった。廃墟に滲む静寂は息苦しさを覚えるほどに冷たかった。
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