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第四章 クリスタル・レイクの血戦

4-8 終わりの始まり

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 白煙の向こうから奇妙な訪問者が姿を現す。東方蛮族である極彩色の馬賊ハッカペルが皇帝旗──燃える心臓の黒竜旗──を掲げ、ミカエル・ロートリンゲンと月盾騎士団の前に現れた。
「なぜ馬賊ハッカペルが〈帝国〉の皇帝旗を……?」
 輿に乗る第六聖女セレンがその奇異な光景に困惑する。セレンだけでなく、教会遠征軍の誰もがその光景に違和感を感じている。
「わかりませんが、恐らく尊大なグスタフ三世の差し金でしょう。あからさまな挑発です」
 ミカエルは憤慨していた。騎士の旗を掲げる蛮族に対して、そして神経を逆撫ですることしかしない〈帝国〉に対して。
 帝国軍は徹頭徹尾、飢えた獣であった。誇り高い騎士のように正々堂々と戦う気はまるでないらしい。〈血の礼拝日〉に始まり、三ヵ月にも及ぶ国土の焦土化と遅滞作戦。エリクソン平原での強襲反抗。ボフォースでの捕虜虐殺。そしてこのクリスタル・レイクでは皇帝自らの奇襲である。
 王の回廊からではなく、行軍不可能と思われた沼地から燃える心臓の黒竜旗は現れた。皇帝旗の予想だにしなかった強襲攻撃に、月盾騎士団と第六聖女親衛隊は一旦陣地を放棄し態勢を立て直すしかなかった。それでも、まだ王の回廊上でヴァレンシュタインと挟撃できる態勢にあるのは変わらない。兵の総数でもこちらが上回っている。
 皇帝の奇襲攻撃は、裏を返せば教会遠征軍にとって絶好の機会だった──頭目たるグスタフ三世が自ら死地に飛び込んできた。それを討てば、この戦いの帰趨は決する。
 皇帝旗を掲げる馬賊ハッカペルが、月盾の軍旗を煽るように矢雨を散らし、目の前をちらつく。
 見え透いた誘因である。しかしミカエルは憤怒とともに古めかしい直剣を抜くと、騎士団に前進の合図を出した。
「セレン様! これより陣地を取り戻すべく逆襲に転じます! 親衛隊も月盾騎士団に続き攻撃に参加を!」
 セレンが戸惑いながらも頷く。合わせて親衛隊隊長代行のディーツが攻撃の号令をかける。
 月盾が軍旗が翻り、燃える心臓の黒竜旗に襲いかかる。攻勢に合わせて、弟のアンダースをヴァレンシュタインとの連絡に差し向ける。陣地を奪ったグスタフ三世の軍勢は、多く見積もっても一万には届かない。月盾騎士団と親衛隊の八千、ヴァレンシュタインの本隊一万で挟撃すれば、数で押し潰せる。
 五百騎にも満たない小勢の馬賊ハッカペルはすぐに逃げ散った。些細な誘因には構わず、重装の騎士たちが蛮族を踏み潰すべく疾駆する。
 追った先、白い靄の中に無数の黒竜旗が浮かび上がり、皇帝に奪われた野戦陣地が姿を現す。ミカエルは馬賊ハッカペルを追い散らした勢いのまま、陣地を奪い返すべく攻撃を開始した。
「燃える心臓の皇帝旗を撃滅せよ! 一兵たりともこの陣地から生きて帰すな!」
 帝国軍を防ぐための土塁や馬防柵が、今度は教会遠征軍の前に立ち塞がる。それらを引き倒そうとする教会軍の兵士たちを、帝国軍のマスケット銃兵が撃ち抜いていく。整然とした交代射撃が絶え間ない弾幕を形成し、月盾の騎士たちが死の壁を築いていく。
 それでもミカエルは攻撃を続けさせた。矢継ぎ早に伝令を呼び、ヴァレンシュタインの下へと走らせる。
「ヴァレンシュタインに攻勢を強めるよう要請しろ! 総攻撃に移れと言え!」
 ミカエルは前線に赴き自ら指揮を執った。この挟撃が完成すれば、皇帝に逃げ場はない。そうすればグスタフ三世の首は掌の上に乗ったも同然である。その一心で兵を叱咤する。
 だがそのとき、ミカエルは信じられない光景を目にした。

 敵前から後退する〈教会〉の十字架旗。王の回廊を外れて沼地を抜け、防衛線の遥か彼方へと落ちていく。その動きは後退ではなく、ほとんど退却にしか見えなかった。

 不意に、足元から悪寒が這い上がってくる。血と硝煙に覆われた戦場が不穏な空気を孕み始める。
 その中から小綺麗な軍装のアンダースが狼狽えた表情で戻ってきた。
「兄上、ヴァレンシュタイン元帥が退却を開始しました……!」
 一瞬、頭が真っ白になった──ミカエルは弟の言っていることが理解できず、しばらく茫然と立ち尽くしていた。そして我に返ったと同時に、馬の鞍に拳を叩きつけた。
「──恥知らずの傭兵め! 一体どういうつもりだ!? 皇帝の首を取る絶好の好機をみすみす逃す気か!?」
「我が軍の左翼が突破されました。すぐに後方連絡線が遮断されます。騎士団も包囲される前に急ぎ退却せよとのことです」
「そんな馬鹿げたことを伝えにお前は戻ってきたのか!? なぜヴァレンシュタインを止めなかった!?」
「そんなこと私に言われても知りませんよ!」
 目の前に父を殺した仇がいる。この戦争の引き金を引いた全ての元凶がいる。その男の首さえ取れれば、この戦争は終わる。〈第六聖女遠征〉は成功とはいかなくても一定の成果を得られるし、教会遠征軍の威信も保たれる。そしてそれは、この挟撃が完成すれば終わるはずだった。だがヴァレンシュタインの撤退により、全ては水泡に帰した。
 煮えたぎる憤怒で理性が焼き切れそうになる。その隅で僅かに繋ぎ留めた理性が、ミカエルの脳裏に告げる。
 ──第六聖女だけは生かして帰さねばならない。さもなくば、ロートリンゲン家は遠征を失敗させたうえ旗印を汚した汚名を一生被り続けることとなる。
「アンダース! セレン様と親衛隊を先に退却させろ! お前の部隊は退却を支援するのだ!」
「えぇ……何でまた親衛隊のお守などを……」
 ミカエルは呑気に愚痴をこぼすアンダースの胸ぐらを掴むと、思いきり怒鳴りつけた。アンダースは憮然としながらも渋々命令を承服し、部隊を率いて駆けていった。
「月盾の騎士たちよ! この軍旗の下に集え! 我らその身命を乙女の盾とし、後衛となって敵を防ぐのだ!」
 黒竜旗をはためかせ、帝国軍の騎兵隊が迫る──漆黒の胸甲騎兵と、極彩色の獣──野戦陣地からは皇帝旗に率いられた帝国騎士たちも歩み出てくる。
 背後では第六聖女親衛隊が騎士団から分離し、慌ただしく撤退していく。その旗に描かれた天使の紋章は、見るも無残なほど泥塗れだった。
 まるでエリクソン平原の戦いの再現である──だが今度は、セレンと言葉を交わす暇はなかった──そしてすぐに、薄氷の上を飛翔する黒竜旗がミカエルの眼前に飛び込んできた。


*****


 月盾騎士団の前に帝国軍の騎馬群が迫る。その先頭、極彩色に彩られた熊髭の大男が、恐ろしいほどの殺意に満ちた狂笑を戦場に響かせ駆ける。
 猛然と襲い来る馬賊ハッカペルとオッリ・ノーサー・ニーゴルドに月盾騎士団の誰もが戦慄する中、将校のウィッチャーズが意を決した表情でミカエルの前に馬を進める。
「殿軍は私に任せ、ミカエル様も弟君とともに退却して下さい。私は先の戦いの借りを返しに行きます」
 だがウィッチャーズの背後から、不気味な人面甲グロテスクマスクの騎士が大喝した。
「お前は団長を守って後退しろ、ウィッチャーズ! あの獣どもの相手は俺一人で十分だ!」
 月盾騎士団の将校、人面甲グロテスクマスクのリンドバーグは有無を言わさずミカエルとウィッチャーズを押し退けると、脇目も振らず熊髭の大男に向かって駆け出す。
「我こそは月盾騎士団のリンドバーグ! 蛮族め! 俺が相手だ!」
 人面甲グロテスクマスクのリンドバーグが馬上で唸り、大剣を振り下ろす。唸る風が狂笑をかき消し、大剣が地面を抉る。
 二人の巨漢が激突する。月盾騎士団が誇る武人と、馬賊ハッカペルの狂獣。尋常でない風圧をまとう大剣と、啜ってきた生血を撒き散らすウォーピックが馬上で打ち鳴らされる。
 大剣の強烈な一撃が獣を圧殺しようと唸る。だがオッリ・ノーサー・ニーゴルドはその大剣を軽々とかわしながら、楔を打ち込むようにして板金甲冑プレートアーマーを痛めつける。
 何度も鎧を叩きつけられ、リンドバーグの動きが次第に鈍くなる。それでも大剣は獣を捉えるべく風を斬る。
「くたばれ蛮族!」
「くたばんのはテメェだ!」
 一際大きな罵り合いのあと、振り抜かれたウォーピックのくちばしが、リンドバーグの人面甲グロテスクマスクを正面から貫いた。
 リンドバーグの体が硬直し、兜から血が噴き出る。そして大剣が地に落ち、その巨体も力なく落馬した。

 二人の巨漢の咆哮が止み、ほんの一瞬、戦場が声を失くす。
 静まり返る両軍の兵士たちを尻目に、極彩色の獣はリンドバーグの返り血を浴びながら、歯を剥き出しにして笑っていた。

 どれほど戦闘の空白が続いたのか。やがてゆっくりと、思い出したように剣戟が再開される。
 人馬が入り乱れ、死体の山が築かれる。
 乱戦の中、ウィッチャーズが生き残った騎士たちをかき集める。
「動ける者は全員集まれ! その剣と甲冑で壁を作り、我らが月盾の長を守れ! これより退路を切り開き脱出するぞ!」
 馬群がミカエルを囲む。血路を切り開くべく月盾騎士団が動き出すが、すぐに敵兵が殺到し、甲冑を着た肉壁同士が激しくぶつかり合う。
 敗北に打ちひしがれるミカエルは、血路の周囲で繰り広げられる無慈悲な殺戮を成す術なく見ているしかなかった。


*****


 〈帝国〉の黒竜旗が雪原に飛翔し、〈教会〉の十字架旗は血に塗れ燃え落ちていく。これはまさしくエリクソン平原の戦いの再現だった──紛うことなき敗北。教会遠征軍と月盾騎士団にもたらされる悪夢──沼地は底なしの地獄と化し、そしてクリスタル・レイクの湖面は〈教会〉の血で染まっていく。

 ミカエルの持つ古めかしい直剣から、血糊が虚しく垂れ落ちる。
 吹雪いてきた。冬の陽に照らされ、粉雪が狂ったように舞い踊る。やがて粉雪に混じって血飛沫が舞い、強き北風ノーサーは吹雪となって大地に吹き荒れる。
 勝敗は決した──今度こそ、抗い立ち上がる術は失われた──この泥塗れの戦場において、〈第六聖女遠征〉において、ミカエルはあまりにも無力な己に絶望にした。
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