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第四章 クリスタル・レイクの血戦

4-6 燃える心臓の黒竜旗

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 疾駆する極彩色の騎馬群が、死体を踏み越え、血と泥を跳ね上げる。
 白煙に覆われた王の回廊と、赤く染まったクリスタル・レイクの道なき沼地を、ヤンネ・ニーゴルドは馬賊ハッカペル四百騎を率いて駆けた。
 至る所で帝国軍の反撃が始まっている。だが劣勢を強いられている部隊も少なくない。どこもかしこも死体だらけである。多くの救援を乞う声に耳を塞ぎ、ヤンネはただひたすら燃える心臓の黒竜旗だけを目指した。
 道中、槍衾が行く手を阻み、鉄の弾幕が頬を掠め、敵騎兵の馬蹄が追い縋る。敵兵とは極力やり合わず、弓矢での牽制射でやり過ごした。仲間たちの騎射に合わせ、ヤンネも左手に構えた歯輪式拳銃ホイールロックピストルから銃弾を放つ。馬を駆けさせながら、銃を小脇に抱え弾を装填する。それが終われば、あとは石挟いしばさみを起こし、引き金を引く──。
 黒騎兵を含め、多くの帝国軍騎兵は弓矢ではなく拳銃を使う。銃は弓と比べると命中精度が悪く、暴発や不発も多いが、馬上での取り扱いは遥かに簡単である。何よりも弓と違って少しの訓練で使用できる。普段から弓馬に慣れ親しんだ騎馬民にとっては、銃はまさに玩具のような物である。
 そんな玩具でも、今のヤンネには何よりも頼もしい武器である──利き手が使えなくても戦える──ヤンネは血塗れの右手の痛みを堪え、手元の火で自らを鼓舞しながら、付き従う仲間たちを叱咤した。そして敵の群れと沼地の間隙を縫うようにして、無我夢中で戦場を駆け続けた。

 駆け続けた先に、やがてそれは現れた。
 沼地を覆う白煙の中から、夥しい死体で埋め尽くされた街道と、そこに築かれた野戦陣地が姿を現す。血濡れた長槍パイク、マスケット銃の火種、見慣れた帝国式の軍装が死体の上に居並ぶ。そして〈教会〉の十字架旗を血で染め、その返り血に彩られた燃える心臓の黒竜旗が、そこにはいた。
 「止まれ」と誰何すいかする帝国騎士たちに行く手を塞がれたヤンネは、皇帝旗に向かって声をあげた。
「第三軍団騎兵隊より救援に派遣されました! 馬賊ハッカペルの将校、ヤンネ・ニーゴルドであります!」
 帝国騎士の群れの中から一人の男が近づいてきた。重装の甲冑をまとう騎士たちの中で、その男だけは一切の鎧をまとわず、そして誰よりも戦場の血と泥に汚れていた。
「よく来た! 我が強き北風ノーサー、その息子よ!」
 現れた男はヤンネを知っているようなことを口にすると、そのまま馬上で抱擁してきた。
 突然のことに戸惑うヤンネの顔を、男は朗らかな笑みを浮かべ覗き込む。その燃えるような笑みを見てヤンネは凍りつき、慌てて敬礼した──本物だ──コッコは後ろで感嘆している。
 この誰よりも戦火に汚れた男こそが、〈帝国〉の皇帝グスタフ三世である。
「──これは陛下……! その、ご挨拶が……いや、到着が遅れてしまい申し訳ありません……!」
「互いに戦場にいるのだ。何を畏まることがある? それにお前は、我が軍随一の武人の子であろう。もっと堂々としておればよいのだ!」
 グスタフ三世は一笑すると、ヤンネの肩を叩いた。
「お前はまだ十五歳だったかな? まだ若いのに、よくぞこの激戦をくぐり抜け、多くの仲間を率いてここまで来たな」
「陛下のため……陛下にお会いするため、ただ燃える心臓の黒竜旗のみを目指して駆けました」
「その右手の傷も痛々しいな。噂に名高い騎射の術は、今度改めて見させてもらうか」
「恥ずかしながら、この傷は戦いで傷ついたわけではなく、俺……いや、私の不始末によるものでして……。陛下の御前で満足に武器も使えぬことをお許し下さい」
「謝ることなどない。偉大な父親を持つと、その子供は苦労するものだからな」
 グスタフ三世はわかっているという顔をして笑った。父の殺害未遂のことを仄めかされた気がしてヤンネは萎縮したが、皇帝はそれ以上は何も言わず、全てを一笑に笑い飛ばした。
 初めて話すはずなのに、皇帝は何でも知っている──ヤンネはグスタフ三世に奇妙な親近感を覚えていた。
 この泥塗れの皇帝は不思議な人だった。父オッリのような荒々しさを感じさせる一方で、逆立ちしても真似できないような気品も併せ持っている。
「ところで我が強き北風ノーサーの息子よ。お前に一つ頼みがある」
 ヤンネは畏まって兜を取ると、グスタフ三世の前に深々と頭を下げた。
「我々は今し方、この陣地から月盾と天使の錦旗を追い払った。だがまだ前後を敵に挟まれていることに変わりはない。そこでだ。月盾騎士団とヴァレンシュタインが足並み揃えて挟撃してくる前に、弱っているはずの月盾騎士団をここまで釣り出してきてほしいのだ。かつてお前たち〈最初の馬賊〉が、〈東からの災厄タタール〉で大陸中の騎士どもを殺戮したときと同じように」
 グスタフ三世は雄弁だった。その語り口は野心家であるストロムブラード隊長と似ているが、言葉の端々に孕む超然たる威厳は間違いなく本物である。
「俺は背後のヴァレンシュタインにも備えなくちゃならん。だがお前たち馬賊ハッカペルが危なくなれば、俺は直ちに前線に駆けつける」
「──そのようなことは! 陛下のお手を煩わせることは絶対にさせません! どうか後方より我らの戦いをご覧になっていて下さい!」
 満足そうに笑うグスタフ三世の前に、ヤンネは平伏した。
 皇帝が騎士たちの合間から旗手を呼びつける。そして燃える心臓の黒竜旗を手に取り、それをヤンネに差し出してきた。
「我が燃える心臓の軍旗をお前に託す! この紋章を掲げ、敵に挨拶してこい! お前が強き北風ノーサーとなり、その真なる恐ろしさを存分に敵に知らしめよ!」
 ヤンネは一礼して皇帝旗を受け取ると、配下の旗手に皇帝旗を手渡した。そしてグスタフ三世の激励に後押しされ、白煙の向こうを目指し駆け出した。



*****



「迷うな。君は君自身の役目を果たせ」
 幾たびか剣を交えたあと、捕虜である女騎士はヤンネにそう言った。
 開戦の前夜、野営地に響く「「皇帝万歳!!」」の歓呼を聞きながら、ヤンネとシーリスは剣を置き再び向かい合った。
 夜闇と篝火の狭間、遠く欠月を見つめるシーリスの瞳は揺れていた。
 迷っているのはシーリスの方であるとヤンネは思った。今は捕虜に身をやつしているが、彼女は〈教会〉の騎士であり、〈帝国〉の敵である。いつだかヤンネに命を救われたと言ったが、それでも自らの主たる第六聖女と敵対する者に助言を送るなど、不本意の極みであろう。
 逆にヤンネはシーリスに感謝してはいなかった。何度も「この女を放っておけば、どれほど気が楽になったか」と思った。だが放っておけなかった。その理由をヤンネ自身はわかりたくもなかった──その理由は、あまりにも凡人染みているから──。

 この〈大祖国戦争〉で、ヤンネは馬賊ハッカペルを変えたいと願った。手柄を立て、自らの手で栄光を勝ち取り、馬賊ハッカペルを真に畏怖される存在にすると。そのためには蛮族同然の父を排除し、騎士たちが唱える戦争のルールに則って戦うことが重要だと考えた。
 だが戦場に秩序などなかった。あったのは剥き出しの暴力と殺意。敵も味方も、誰も戦争のルールなど気にしていなかった。
 教会遠征軍は帝国軍を侵略者と蔑み、公然と侵攻を正当化する。それに対し、帝国軍の兵士らは自らの土地を侵す〈教会〉への憎悪を募らせる。騎士たちは食料が不足すれば平然と略奪を実行し、それが終われば町を焼く。軍司令部は食料不足にかこつけて捕虜を虐殺し、見せしめに晒して嘲笑を浴びせる。
 何もかもを醜いと思った。笑いながら殺し犯す父のオッリはもちろん、父親同然に思っていたストロムブラード隊長もまた、力と栄光に酔って戦火を望む人間だった。だが自分自身もまた暴力──父への憎悪──に取り憑かれた矮小な人間でしかなかった。
 それでも戦う理由はある──〈帝国〉のため。馬賊ハッカペルのため。部族のため。故郷で待つ弟や妹のため。志を同じくするコッコや戦友たちのため。第三軍団のため。ストロムブラード隊長のため。皇帝陛下のため──だが、全ては曖昧に揺蕩たゆたう。
「俺はただ、俺自身が信じるもののために戦う。それだけだ」
 言ったが、ヤンネは迷っていた。
「剣を交えることができてよかった。ありがとう」
 ヤンネは女騎士に頭を下げた。シーリスは何も答えなかった。

 〈帝国〉と〈教会〉の対立が臨界点を迎えたとき、大地は死で満たされた。容赦なき殺戮の果てに勝者は敗者を蹂躙し、世界はまた一歩滅びの沼地へと沈んでいく。
 そんなときに出会うべきではなかった。それでも、出会ってしまった。

 当初、捕虜となった女騎士へ抱いていた憐憫は、いつの間にか消えていた。今は微かだが妙な繋がりが芽生えていた。立場は違うが、ともに傷つき、ともにもがいてきた。
 だから、この冬の雪原で死んでほしくないと思った。死にゆく大地の果てでも、生きていてほしいと願った。
 だがそれを言葉にするのは憚られた。それを伝えるのは、彼女の心に土足で踏み入るような気がした。だから何も言えなかった。

 それから二人は何も語らず、闇の底に目を落としていた。欠月に照らされたクリスタル・レイクの湖面は、ただただ美しかった。



*****



 王の回廊に残る呻き声を踏み越え、馬賊ハッカペルは駆けた。
 白煙の向こう側に、月盾の軍旗が見えた。隊列を組み居並ぶ重騎士の群れ、五千人以上は確実にいる。奥には第六聖女の天使の錦旗も見える。
「陛下の御前だ! やってやろうぜヤンネ!」
 コッコは抑えきれない興奮に目を血走らせている。他の仲間たちも皇帝から手渡された皇帝旗に目を輝かせている。それを見てヤンネも大きく頷く──しかし、まだ心は揺れている──ここまでともに戦ってくれた仲間たちのため、ヤンネは声を張り上げた。
「俺たちは馬賊ハッカペルだ! 俺たちこそが、かつて騎士たちを殺戮し、大陸東部を滅ぼした部族の末裔だ! 今日ここで皇帝陛下のご期待に応えよう! 数が多いだけの負け犬どもを誘い出すだけだ! 俺たちならできる!」
 雄叫びとともに旗手が燃える心臓の黒竜旗を高々と掲げる。
「この燃える心臓の黒竜旗を見ろ! 俺たちの力を全軍に知らしめるぞ!」
 ヤンネは歯輪式拳銃ホイールロックピストルを左手に持った。雄叫びとともに四百騎の馬賊ハッカペルが駆け出し、敵に矢雨を降らせる。その中で一発だけ銃声が響き、そして弾丸が月の盾を撃ち抜いた。
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