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第一章 騎士たちの邂逅

1-7 夜の向こう

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 枯れた森を夜の闇が包む。
 黒く塗り潰された空と白く濁った雪道の狭間で、傷ついた〈教会〉の兵士や騎士たちが息を殺して歩みを進める。
 時折、無数の松明と明滅するマスケット銃の火縄が漆黒に浮かび上がる。そして静寂の片隅で馬蹄と馬の嘶き、人の声、銃声が響き渡る──その間、〈教会〉の十字架旗は地面に伏し、息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つ。
 やがて命乞いの声を銃声がかき消し、喧騒は夜闇へと駆け消え、北風が静けさを運んでくる。

 日没とともに帝国領エリクソン平原での戦いは終わった。〈第六聖女遠征〉における初の大規模会戦の結果は、教会軍の大敗である。
 帝国軍の反攻により北の〈帝国〉の地は〈教会〉の血で染まった。
 降り始めた雪は敗れ去った教会軍の屍を白く染め、死体で埋まった雪原を帝国軍の軍靴が悠然と進み始める。
 敗残兵の多くは枯れた森の中へと落ちている。月盾騎士団を率いるミカエル・ロートリンゲンの持つ月盾の軍旗も、北風に哭きながら、暗闇の深みへと消えていく。

 「名誉ある戦い。高潔なる道。そして我らは勝利者となる」とは、ロートリンゲン家の格言である。ロートリンゲン家は伝統ある修道騎士の家系として、常にその格言を重んじ戦い、そして常に勝ってきた。負ければ〈教会〉五大家筆頭の地位にはいない。
 十六歳でロートリンゲン家が所有する私兵、月盾騎士団を与えられたミカエルも、同様に常に勝利者であった。月盾騎士団を率いて四年が経っていたが、いくつか戦いも経験し、いずれも勝利してきた。
 だがエリクソン平原の戦いには、名誉も高潔さもなかった。あったのは剥き出しの殺意と醜悪な殺戮のみ。そして月盾騎士団と教会遠征軍は負け犬の群れに落ちてしまった。
 ミカエルにとっても、エリクソン平原での戦いは生まれて初めての敗北だった。
 不思議と敗北の屈辱は小さかった。今はそれよりも、今後の展望に対する不安の方が大きかった。切迫する戦況は、敗北に浸る暇さえ与えなかった。
 今日は生き延びた。だが果たして、ここから次へ繋がる道はあるのだろうか──。
 月盾騎士団の騎士団長といえば聞こえはいいが、実態はただ父ヨハンから引き継いだだけだった。もちろんしっかりと神を信奉し、教皇を敬い、異教徒を倒すことに精進はしていたし、〈東からの災厄タタール〉による災禍から信仰を守り、大陸の安寧に貢献するという志もある。だが士官らのように実力で選ばれたわけではない。
 家督は長兄が継ぐ。ゆえにロートリンゲン家の一人の男として認めてもらうには、騎士団を継ぎ戦うほかはなかった。一族を率いる者が兄ならば、自分は一族の敵を討ち払う剣に、そして災厄から一族を守る盾となると──だから十六歳のとき、父に代わり月盾騎士団の団長を継いだ。そうすることで父も、兄も、周囲の者たちもミカエルを認め褒め称えた。
 ミカエルにとって〈月の盾〉の紋章とは、一種の皮肉めいた拠り所だった。そして今は、敗北を受け意気消沈する中でも、自らが先頭に立ち騎士たちを導いていかねばならない。できなくとも、やれることをやるしかない──。
 意味のない思案が夜闇に浮かんでは消える。
 また遠くで銃声が鳴り響いた。〈帝国〉と〈教会〉、どちらが発したものかはわからない。



*****



 色を失った夕陽の残滓を背に、天使の錦旗の周りを血飛沫が舞っていた。
 その血の奔流に向かい、ミカエルはただ一騎で駆けていた。
 勝ち馬に乗った帝国軍から第六聖女セレンを守り抜けたのは、運がよかったとしか思えなかった。それは完全に僥倖であり、神の天祐がたまたま味方した結果だった。
 熊髭の馬賊ハッカペル隊長、オッリ・ノーサー・ニーゴルドの背中に傷を負わせ退けられたのもまた、運がよかっただけだった。
 砲撃と騎兵突撃により親衛隊の方陣が破られたとき、月盾騎士団は完全に歩兵から引き剥がされ路頭に迷っていた。そして極彩色の蛮族たちが天使の錦旗を脅かす様を見たとき、ミカエルはただ一騎で駆けていた。部隊の指揮を放棄し、ただ第六聖女を守るためだけに駆けた。指揮官としては失格である。それでもうまく敵中をすり抜け、馬賊ハッカペルの頭目と思しき大男を捉えた。
 第六聖女セレンの乗る輿は崩れ、少女は地に落ちていた。
 向かい合う泥塗れの聖女と、それを悠々と馬上から見下ろす男。その男の背中に向け剣を構え、駆けた。
 剣先は完全に大男の心臓を捉えていた。
 だが完全に背後をとって急襲したにも関わらず、熊髭の大男はすんでのところで剣先を躱し、致命傷を避け──そして吼えた。その咆哮は馬賊ハッカペルと黒騎兵の姿が消えても、夕陽が没するまで続いた。
 あとで確認したところ、その男こそが馬賊ハッカペルの隊長、オッリ・ノーサー・ニーゴルドであるとわかった。屈強な戦士、人馬一体の略奪者、恐るべき弓馬の使い手。それらを率いる狂猛な獣。単純な戦闘能力だけならば、黒騎兵以上に恐るべき存在だった。
 強き北風ノーサーが吹き荒れたあと、第六聖女親衛隊と月盾騎士団は無事に枯れた森の中へと逃げ込み夜を迎えた。
 殺戮の狂騒はいつの間にかどこかへ消え、夜は恐ろしく静かになった。それでもまだ、北風は〈帝国〉の地に吹き続けている。



*****



 森を吹き抜ける風が、どこからか音を拾っては運んでくる。
 銃声の響く先に後ろ髪を引かれながらも、ミカエルは振り返らなかった。小声で交わされる指示とともに、月盾騎士団が押し黙ったまま退路を進む。辛うじて隊列を維持して撤退するだけの士気は残っているが、戦意はとうに失われていた。

 夜戦こそ仕掛けてこなかったが、帝国軍は抜け目なく追撃部隊を出してきた。
 斥候以外は固まって動いている。敗軍とはいえ、夜間の森の中であれば待ち伏せによる反撃も可能だったが、土地勘のない場所で兵を分散させるのは得策ではないとの判断に至った。森の中であれば敵の騎兵もまとまっては行動し辛いはずで、固まっていれば同士討ちの可能性も少なくなる。
 戦うには何もかもが不足していた。今はどういう方法であれ、とにかく敵をやり過ごすしかない。
 第六聖女親衛隊は先に行かせ、月盾騎士団は後衛として進んでいる。親衛隊指揮官のビスコフは指揮を執るには老齢過ぎるため、月盾騎士団から副官のディーツを派遣している。ディーツの技量があれば、夜の森の中でも迷うことなくボフォースの城まで辿り着けるだろう。
 親衛隊は一万から五千に、月盾騎士団は五千から四千まで兵を減らしていた。あれだけの激戦を戦って騎士団の損失が千騎で済んだのはまだ少ないと言えたが、上級将校のウィッチャーズとその麾下を丸々失ったのは痛手だった。
 兵士たちから見れば二十歳と若過ぎる騎士団長のミカエルにとって、今は実戦経験豊富な上級将校たち、副官のディーツ、アナスタシアディス、リンドバーグが頼りだった。弟のアンダースも位としては同格だが、まだ十八歳であり、三人と比べると敗戦の中で大事を任せるにはあまりに心許ない。
 敗残兵はできる限り接収して退却しているが、その数は予想以上に少なかった。およそ千名もいない。多くは夜の森を彷徨っているのだろう。火も焚けず冬の寒風に晒されれば凍死者が続出し、朝になれば敵の追撃が本格化し、その数はさらに減ってしまう。あとはとにかくボフォースまで生きて辿り着くことを願うしかない。
 父ヨハンも依然行方不明である。敗残兵からの情報は曖昧で、生きて本陣を脱出したと言う者もいれば、戦中すでに死んでいたと言う者もいる。真偽の確かめ様もなく、捜索隊を出すには危険が大きすぎた。
 そして今や、元帥たる父ヨハンの生死以上に、第六聖女セレンの存在は重要だった。彼女が死ねば、この教会遠征軍は完全に瓦解する。守るべき者、掲げるべき旗印の喪失。それはつまり、天使の錦旗に忠誠を誓う月盾騎士団にとっても死を意味している。

 騎士たちが夜闇に包まれた森の中を手探りで進んでいく。
 どのくらい進んだのか──積もる疲労と焦燥により、誰もがぼんやりと揺蕩たゆたい始めている。
 月の盾が、暗闇に包まれた夜の向こうへと落ちていく。
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