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第二章 嵐に揺れる十字架旗

2-4 高貴なる道、高貴なる勝利者  ……トマス

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 血と硝煙を帯びた風が十字架旗の足下を吹き抜ける。

 元帥から命令が下された──反撃──トマス率いるロートリンゲン軍の一万は、その反攻作戦の先鋒を任された。

 戦乙女たちの会戦から二日後の夜に行われた軍議は殺伐としていた。集まった諸将に連帯感はなかった。主力を構成するアンダース・ロートリンゲン元帥、ケリー王、カール・ヴァイヒェルトの三人は目すら合わせようとしなかった。一応、指揮系統上は元帥を擁するロートリンゲン軍が頂点となるが、諸軍はてんでバラバラに行動していた。

 死の天使──〈教会五大家〉の一角であるエピタフ家から派遣されたケリー王は、反撃の先鋒を任されたトマスに対し「身内贔屓の寝ぼけた配置だ」と言って憚らなかった。旧王族であるエピタフ家の楽園旗を勝手に地獄旗に描き変えるような不信心な無神論者は、しかし王族でありながら自らの武勇で前線を維持し続けている猛将でもあるがゆえに、とにかく声も態度も大きかった。

 黄金像ベヒモス──同じく〈教会五大家〉の一角、ヴァイヒェルト家の当主カールは、反撃の先鋒を任されたトマスを冷たい目で激励した。〈教会〉随一の財力を誇り、国家財政を一手に担う財閥の黄金像ベヒモスは、極めて紳士的であったが、極めて不遜でもあった。

 こんな状態で勝てるわけがない──諸将を横目にトマスは呆れた。国家の中枢を担う〈教会五大家〉とそれを取り巻く諸侯の顔触れを見るたび、〈教会〉という国家が寄せ集めでしかないことを痛感させられた。これまでも、戦乙女たちの会戦のときも、そのあとも、〈教会〉に巣食う有象無象はずっと足の引っ張り合いを続けている。このままでは〈帝国〉に勝てないどころか、〈教会〉の首都である教皇府が戦火に晒されるかもしれないのに、そんなことは誰も気にしていない。
 だからこそ、トマスは自らとロートリンゲン家がこの国難を支えなければいけないと気持ちを新たにした。ロートリンゲン家は〈教会〉の建国以来、〈教会五大家〉の筆頭として、神と国家、そして人々に忠節と献身を尽くしてきた一門である。今は没落しているが、代々受け継がれてきた気概だけは失ってはいけない。

 軍議が終わると、トマスは部下たちと作戦の詳細を練った。
 地図を開き、あらゆる情報に頭に詰め込んだ──教皇府へと続く街道、大小無数の都市と集落、周辺の地形──戦乙女たちの会戦とは違い、戦闘自体はロートリンゲン軍の単独となる。ケリー王ら諸家の軍勢は、また別の地域で作戦を展開する。何かあっても頼れるのは自軍のみである。
 トマスは自ら前線に立つと告げた。先の会戦ではほとんど何もできなかったがゆえに、期する思いはあった。部下たちには後方陣地での待機を勧められたが、意見は譲らなかった。

 四日目の朝、出陣を前にトマスは身支度を整えた。
 暁闇はまだ深かったが、目は覚めていた。トマスは甲冑をまとい、剣を佩いた。姿鏡に映る姿は相変わらず子供でしかなかったが、月盾の徽章は薄闇の中でも輝いていた。
「失礼します。お早いご準備ですね」
 従者が退出すると、側近の騎士であるエドワード・ソドーが幕舎に入ってくる。後ろには弟のヘンリー・ソドーもいる。
「どうだろう?」
 トマスはエドワードとヘンリーの前で姿勢を正した。エドワードは笑顔で、ヘンリーは「ばっちりだ」と言って答えてくれた。
「兵が集まるまではまだ時間がありますがどうしますか? 騎士団長閣下」
 ヘンリーがトマスの前で敬礼する。ヘンリーはトマスのことを騎士団長と呼ぶ癖があった。
 騎士たちの中では比較的若い彼らとは話しやすかった。エドワードは文武に秀でた優等生、ヘンリーは陽気で快活な戦士だった。トマスにとってソドー兄弟は身近な目標であった。
 出陣前の閲兵まではまだ時間があった。甲冑は着終わっていたが、トマスはまだ心の準備ができていなかった。二人はそれを察してくれた。
「あとから行くより、先に行って待ってた方が気楽ですよ」
 ヘンリーの言葉に対して、エドワードは「家長たる者は最後に姿を見せるべきだ」と言った。トマスは迷ったが、より明朗なヘンリーの言葉を聞き入れた。

 幕舎の外に出ると、風が頬を撫でた。吹き抜ける冬の風は冷たかった。暁闇の空にはぼんやりとした輪郭の月が浮かんでいた。

 兵の集合を待つ間、三人で話した。話題は戦争のことばかりだった。
「〈帝国〉は、クリスティーナは、〈教会〉を滅ぼす気でいます。ならばなおさら誰かが戦わなければなりません。たとえ負けるとしても、今、俺たちが戦う意志を見せなければ、弱気者たちは暴君にずっと虐げられることになります」
 ヘンリーは帝国軍によって喰い荒らされる国土と、戦火に追われる民に心を痛めていた。誰かを守るために戦う、その意志を行動で示すことが、より多くの、ひいては国家の大義と神への信仰を守ることに繋がるとヘンリーは信じていた。
「長期化すればするほど戦争を終わらせるのは難しくなります。しかし、単に戦闘を止めればいいというものでもありません。お互いが戦後秩序まで考えて話し合わなければ、戦争を終わらせても意味がないと思います」
 エドワードはヘンリーよりももう少し先を見ていた。一方による完全征服か、覇権による主従化か、天下二分か……。どのような形であれ、互いが納得した決着に落ち着かねば大陸に真の平和は訪れないとエドワードは言った。

 二人はトマスよりも多くのことを知っていたし、考えていた。トマスはもっとたくさんのことを話したかったが、時間はすぐに過ぎてしまった。

 暁闇の月が消え、陽が昇る。
 幕舎から出てきた兵たちが徐々に集まり始める。総勢一万のロートリンゲン軍のうち、先発隊、次いで主軍は集合次第、閲兵を省き出発していく。
 最後に、指揮系統を司る三千の本隊が集合する。出陣前の閲兵には、車椅子に座る叔父も立ち会った。
「整列!」
 エドワードとヘンリーの父で、トマスの副官を務めるウィルバート・ソドーが声を上げる。
 三千の軍勢が整列する。装具が擦れ合う音が、地面を踏みしめる足音が、鳴り、やがて止まる。
 綺麗な隊列ではなかった。本隊とはいえ、士官階級の騎士たちを除けば、傭兵である兵士たちの士気は低く、練度も高くない。

 これがロートリンゲン家の現状だった。今のロートリンゲン家は、叔父のアンダースと同じように名誉と栄光を失い、生きているのが不思議なほどの死に体と化していた。

「元帥閣下。出陣の用意が整いました」
 しかしそれでも、トマスは意識して背筋を伸ばし、叔父の前で敬礼した。
「トマス。我が家の家訓モットーを言え」
「『高貴なる道、高貴なる勝利者』。我らは神の恩寵たる太陽の背、力の根源たる月を守る盾。ロートリンゲンは〈神の依り代たる十字架〉の名の許に道を修めし月盾の騎士。栄光と伝統に彩られた我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん」
「そうだ。それが正しき月盾の騎士の有り様だ。お前はまだ十二歳だが、それでもこの月盾の紋章の長だ。ロートリンゲン家の家長であり、一軍を率いる将だ。これからもそれに相応しくあるように努めろ」
 叔父の言葉には相変わらず圧があった。叔父は「行け」と言うように手を振った。トマスは再度敬礼すると、別れの挨拶をした。
「トマス。戦果を期待している」
 別れ際、叔父はぽつりと呟き去っていった。

 何かが、胸の内で燃えた──早く大きくなりたかった。早く大人になりたかった──そんなトマスを、ただ独り叔父だけは大人扱いしてくれた。

 叔父が去ると、副官のウィルバートがトマスに頭を下げた。
「ご命令を」
 実質的にロートリンゲン軍を指揮するのはウィルバートであるが、彼はトマスに指示を仰いだ。あとは出発するのみであるが、幕僚たちも姿勢を正し、言葉を待った。
 トマスは部下たちを見た。負け、逃げ、拭いきれぬ汚泥に塗れてなお、月盾の紋章を抱く騎士たちはみな堂々としていた。
 ロートリンゲン家は確かに没落していた。しかしそれでも、騎士たちはまだ残っていた。かつてロートリンゲン家の武威の象徴であった月盾騎士団ムーンシールズは滅びて久しく、最盛期は五千名いた構成員も今や三百名ほどを残すだけに減ってしまったが、それでも騎士たちは子供でしかない家長にまだ従ってくれていた。
 ロートリンゲン家が〈教会五大家〉筆頭として権勢を誇っていた頃をトマスは知らない。父や母の顔すら肖像画でしか見たことがない。しかし彼ら忠臣たちの確かな支えによってトマスはまだ戦えていた。今もまだ立つことができていた。
「行こう」
 ウィルバートらに向かい、トマスは進軍の号令を発した。

 行軍の鼓笛が鳴り響く。ロートリンゲン家の月盾の軍旗を先頭に、〈教会〉の十字架旗が翻る。軍靴が地を鳴らし、人馬の群れが北進を開始する。

 戦いの始まりに、再び気持ちは高ぶっていた──『高貴なる道、高貴なる勝利者』──反芻する言葉は、胸の内を熱くした。

 トマスも馬に跨り、北へと進み始めた。
 冬の終わり、風は乱れていた。南風は暖かになりつつあったが、北風はまだまだ冷たかった。
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