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第十一章 命燃えるとき

11-7 最後の戦い  ……ミカエル

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 ポツリと、何か冷たいものが触れた気がした──。

 白い闇が途切れ、うっすらと色が灯っていく。
 ミカエルが目を覚ますと、そばには血塗れの少女がいた。白銀の甲冑と純白の僧衣を赤く染めた第六聖女は、ミカエルの手を握ったまま長椅子に突っ伏し、すやすやと眠っていた。

 穏やかな少女の寝息の周囲で、苦悶に満ちた悲鳴と呻き声が響く。
 仄暗い輪郭が徐々にはっきりとしていく。冷たい石壁が、連なる長椅子が、〈神の依り代たる十字架〉が描かれたステンドグラスが、ロウソクの灯に照らし出される。至るところに血塗れの騎士たちが横たわり、どこもかしこも血塗れになっていること以外は、よくある造りの教会である。

 血生臭い室内をぼんやりと辺りを見渡していると、大柄な女騎士と目が合う。
「そのままで。すぐ人を呼びます」
 第六聖女親衛隊のレア隊長が兵を走らせる。すぐにウィッチャーズがやってくる。
 ウィッチャーズが兜を外し敬礼する。本人は無事のようだが、兜やコートには血と泥がこびりつき、小さな傷は数えきれない。
「状況を説明してくれ……」
「ここは騎士団の野営地があった場所からほど近い集落です。第六聖女親衛隊の誘導に従い退避しました」
「敵は……?」
「敵は極彩色の馬賊ハッカペルを主力とした帝国軍第三軍団騎兵隊です。現在は敵が昼食に入ったため、戦闘は一時中断しています」
 ウィッチャーズが淡々と状況を説明する。その隅では、止まぬ悲鳴と呻き声が響いている。
「第六聖女様の援軍がなければ、あの場で皆殺しにされ、ヨハン元帥の棺も奪われていたでしょう。それほど激しい攻勢でした。騎士団の残存兵力は五百騎。半数は負傷者で、馬はさらにその半分です」
 かつて騎士団には五千人もの屈強な男たちがいた。それが今や十分の一にまで減ってしまった。全ては月盾の長である己の不覚が招いた結末であるが、しかし身を裂くような感傷にも涙は出なかった。積み重ねた歴史も、終わるときは一瞬なのだなと思った。
「アンダースはどうした……?」
「騎士団旗を奪い、麾下の部隊とともに逃げました。私の部下も何人かはそちらに……。ただ、敵の主力がそちらを追撃してくれたおかげで、我らへの圧力はかなり減りましたが……」
 少しだけ、ウィッチャーズの声に怒りが滲む。
「どうなったかは不明ですが、弟君の方も被害は甚大でしょう。あちらは数こそいましたが、最初から潰走状態でしたので」
 それでもアンダースは死なないだろうと思った。善悪は別として、自分勝手ゆえにその意志は強い。そしてすでに一線を越えている。恐らく、周りにどれだけの犠牲を強いても、願望に似たその意志だけは貫き通すであろう。
 そして、もし仮にアンダースが生きて国に帰ったら……。考えたが、どうにもならないのでやめた。子供はまだ幼い。あとは国に残る親族たちに頼るしかない。
「それと……、僭越ながら、戦闘継続は不可能と判断し、敵との交渉を試みました……」
「指揮官として君の判断は正しい。何も気にすることはない」
 ウィッチャーズは独断で交渉を行ったことについて後ろめたさを感じているようだったが、状況を鑑みれば何も間違ってはいない。もはや戦える状態でないのは一目瞭然である。
「こちらは全面降伏も受け入れると伝えましたが、今日一日、一切の交渉は拒否されました。つまり、日没までにもう一戦、戦わねばなりません」
 状況は絶望的だったが、ウィッチャーズはやはり淡々としていた。恐らく、単純に場慣れしているからだろうと思った。
「そうか……。では部隊を編制しよう……。妻子ある者、両親が健在の者、少年兵、負傷者を除いて兵を選抜してくれ」
「お言葉を返すようですが……、該当する者はほとんどおりません」
 あまりに正直なウィッチャーズの回答に、ミカエルは思わず笑っていた。
「ジョー・ウィッチャーズ、君を月盾騎士団ムーンシールズの後任騎士団長に命じる。このような形になってすまないが、あとのことを頼みたい。幸い、君は敵将との縁もある。どうか、みなの命を守ってくれ。それから父上の亡骸も……」
「ミカエル様はどうなさるおつもりか……?」
「最期くらいは自分で決めさせてくれ」
 言って、ミカエルは体を起こした。瞬間、腹から血が溢れた。痛みこそなかったが、傷口を手で押さえても、溢れ出る血は止まらなかった。
 そばで眠るセレンを起こさぬよう動く。多少はふらついたが、地に足は着いた。感覚もあり、踏ん張りも効いた。ただ、血は流れ続けている。
「死に急ぐことはありません。戦闘指揮は私が執ります。軍医もまだいます。安静にしていればまだ可能性はあります」
「自分の体のことは自分が一番よくわかっている。だから何も言わないでくれ」
 ミカエルはウィッチャーズの目を見て、それ以上の言葉を遮った。ウィッチャーズは深々と頭を下げると、幕僚たちのもとへ走っていった。
 立ち上がる。血塗れの聖女はまだ眠っている。
「ここに残って下さい。親衛隊も合わせれば敵と兵力は互角。敵は騎兵単独ですし、村に籠れば半日は耐えしのげます。ヴァレンシュタイン元帥にも支援要請を出しました。どうか命を粗末にしないで下さい」
 レアにも止められたが、ミカエルはもう覚悟を決めていた。
「ご助力には感謝します。ですが、これは私の戦いだ。あなた方に犠牲を強いるわけにはいきません」
 ウィッチャーズと違い、レアは最後まで止めようとしたが、ミカエルは聞き流した。
 部下が鎧を持ってくる。服の上に鎖帷子くさりかたびらを着、穴の開いた胴鎧を装着する。兜、手甲、足甲、拳銃など、重荷になる物は着けなかった。剣はある物を借りた。
 横たわる月盾の騎士たちを避けながら、教会の外に出る。何名かが無言で続く。〈教会〉の十字架旗も掲げられる。自然と人の流れができ、百人ほどがミカエルのもとに集まる。
 ミカエルは集まってくれた者たち一人一人と顔を合わせると、礼を言い、そして歩き出した。

 天使の錦旗が風に揺れる。家屋や土塀の影で防衛態勢を取る第六聖女親衛隊の横を通りすぎるたび、親衛隊の兵たちが敬礼する。
 そのとき、背後から追い縋る声がした。振り向くと、石造りの教会から血塗れの聖女が駆けて出してきた。
「行かないで……」
「ありがとうございます。ですが、もういいのです」
「私の血を……、血を飲んで下さい。私の血は特別に調整されています。この血があれば、あなたは死なない……」
 セレンが短剣を握り、手首を切ろうとする。それをレアや侍従長のリーシュが必死に止める。
 女たちが揉み合う中、ミカエルはセレンの手を握り、跪いた。
「止めて下さい。これ以上、あなたに傷ついてほしくはない」
 手袋越しに、凍てついた刃が触れる。しかし、思ったよりも冷たさは感じない。
「私はもう死にます。だから行かせて下さい」
 涙が一筋、セレンの頬を伝った。その涙は赤かった。
 ミカエルは立ち上がり、再び歩き出した。背後で泣き崩れる声は聞こえたが、振り返りはしなかった。

 静かな行軍だった。
 雪を踏む軍靴が、体から流れ出る血が、時を刻む。全員が徒歩で、ミカエルを含めほとんどが負傷者である。今はまだ動けているが、残された時間は限られている。
 斥候を出さずとも、敵の居場所の見当はついた。点々と連なる死体の列、降り積もる雪にさえ消せぬ血の道標を辿れば、迷うことはなかった。
 しばらくして、雪原を焼く炎が見えてくる。雪帳ゆきとばりの向こう側に、〈帝国〉の黒竜気が翻る。漆黒の胸甲騎兵と血濡れた極彩色の獣たちが、燃える雪原にその姿を現す。
 互いが姿を捉えた瞬間、また強き北風ノーサーが咽び哭く。
 即座に極彩色の馬賊ハッカペルが動き出す。迫り来る地鳴りを前に、一瞬だが群れの足が止まる。

 極彩色の馬賊ハッカペルの突撃を前に、戦いの記憶が甦る。
 大義を掲げ、理想を唱え、誇りを抱き、意志を貫き、誓いに殉じる──騎士として、男として、そうやって生きたかった。しかし、血に酔った。そして今も酔っている。名誉の戦死という己の身勝手な判断で、また部下たちを死に導こうとしている。
 結局、何も成せなかった。成したとすれば、破滅だけだった。
 大地は死で満たされている。冬の虚空は何も語らず、雪はただ静かに時を刻む。やがて全ては焼き尽くされ、冬の色に消えるだろう。それでも、束の間でもいい。この死と引き換えに、生きてくれる者がいれば……。

 前へ──声はなかった。ミカエルは剣を抜き、一歩前に出た。

 ミカエルに続き、群れが再び前進する。〈教会〉の十字架旗が向かい風に翻る。剣を、槍を、マスケット銃を構え、月盾の騎士たちが敵の馬群に向かっていく。
 味方のマスケット銃が火を吹く。弾幕にもならない散発的な射撃だったが、それでも激発する火は群れの背中を押す。
 誰かが雄叫びを上げた。誰かが神の名を叫んだ。誰かがロートリンゲン家の家訓モットーを唱えた。しかし、騎士たちの言葉も、父の遺言も、弟の笑い声も、何もかもが今は遠くに感じた。

 前へ、ただひたすら前へ──もはや、できることはそれだけだった。

 途切れ途切れになる思いを胸に、ミカエルは咽び哭く強き北風ノーサーに剣を向け、そして燃える雪原へと向かっていった。
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