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第十一章 命燃えるとき

11-1 朝焼け  ……ミカエル

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 唐突に、目が覚めた。
 ぼんやりとした薄闇が、目の前に開ける。冬の冷たさが、即座に意識を覚醒させる。
 夜明け前、テントの外から聞こえる物音で、ミカエルは目を覚ました。

 歩哨の気配ではない──念のため短剣を持ち、テントの影から様子を窺う。
 白い闇が視界に広がる。雪と薄闇の間で、小さな熾火が揺らめいている。そのそばには、従士のヴィルヘルムがいる。
「あ、おはようございます。ミカエル様」
 気づいたヴィルヘルムが敬礼し、笑顔を見せる。歩哨以外では誰よりも早く起きていたようで、すでに出発のための荷造りを始めている。
 ミカエルはすぐに着替えを済ませると、荷造りを手伝った。ヴィルヘルムは任せてくれと言ったが、ある程度は自分で済ませた。
 ミカエルが動き出すと、他の部下たちも連鎖的に目を覚ました。数十人の男たちが動き始めると、すぐに野営地は片づき、出発の準備も整った。

 夜明け前だが、出発した。
 白い闇の中を、人馬が進む。重苦しい雪雲の下、外交使節を示す白旗が翻る。月盾騎士団ムーンシールズの野営地は近い。敵地での交渉を終え、ミカエルはもちろん、全員が早く合流したがっている。

 〈帝国〉との交渉は、何事もなく終わった。
 みな、事態がとりあえず進展したことに安堵している。ただ、外交特使と情報将校らは、次の交渉に向けて絶えず意見を交わしている。
「とりあえず、負傷者の保護を確約してもらえたのはよかった」
「適当な外交官を派遣してお茶を濁すのかと思っていましたので、オクセンシェルナ元帥が出てきたときは驚きました」
「オクセンシェルナ殿はただの名士ではなく、グスタフにも意見できる無二の親友だ。今は敵同士とはいえ、今後についてあの人と話し合えたのは、我々にとっては非常に大きい」
 ヴィルヘルムは、敵将オクセンシェルナの対応に感銘を受けたらしく、帰路についてからもずっと賞賛していた。
 オクセンシェルナは若くして帝国軍の元帥を務める北部でも有数の名士であり、確かに表面上は非常に気前よく対応してくれた。ただし、交渉は互いに腹の探り合いである。そしてその真意まで、ミカエルは読み取ることができなかった。
「ですが結局、撤退交渉はまとまりませんでした。講和派で、さらにグスタフ帝の側近ならば、もう少し聞く耳を持ってほしかったとも思います」
「いくらオクセンシェルナ殿でも、いきなり撤退交渉まで受け入れるほど甘くはない。そこは我慢強く交渉を続けねばならない」
「アンダース様の攻撃が悪い印象を与えたのではないでしょうか? いくらこちらが戦えることを示すためとはいっても、奇襲攻撃に始まり、敗走する敵を追い打ち、さらに見せしめで捕虜を吊るし首にするなど、とても騎士のやることじゃないです。オクセンシェルナ殿も言っていましたが、私もどうかと思いました」
「それについては、任せた私の責任だ。帰ったら言っておく」
 交渉前に行われたアンダース隊による攻撃は、一定の成果を上げた。敵は騎士団が打って出てくるとは考えていなかったようで、大した抵抗もなく敗走した。ただ、ヴィルヘルムやオクセンシェルナが非難したように、アンダースは一撃どころかさらに追撃を仕掛け、結果として一部で蛮行に発展してしまった。
「ミカエル様はアンダース様を甘やかしすぎだと思います。兄弟とはいえ、騎士団では部下になるのですから、いけないことをしたらきちんと処罰すべきです」
「その通りだな。忠告ありがとう、ヴィルヘルム」
 ミカエルは笑って誤魔化したが、少し心苦しかった。自分では厳しく接していたつもりでも、周りから見ればやはり甘かったらしい。

 会話の最中、唐突に、白い闇の中に青羽根の騎兵帽が浮かぶ──ロートリンゲンの血脈を示す、金色の髪と青い瞳──似ているが、しかし一目で別人とわかる背格好の月盾の騎士。

 幻覚のように揺れるそれを追いながら、ミカエルは南へと馬を進めた。


*****


 アンダースは、一言で言ってしまえば不良である。ロートリンゲン家の中では一人だけ鼻つまみ者であったし、父ヨハンは嫌っていただけでなく、完全に見限っていた。しかし最初からそうでなかったことは、共に騎士として道を歩んだミカエルが一番よく知っている。

 弟はただ、嘘がつけないのだ。周りに合わせて、自分を偽ることが許せないのだ。他者から求められる姿を、自分の姿に置き換えることができないのだ。

 人々が求める、正しき月盾の騎士の姿────幼き日、父の示した道に従い、ミカエルは人々の望む姿をまとった。そのときは、何一つ疑問を持たなかった。疑問を抱いたときには、引き返せなくなっていた。だから目を瞑って道を進んだ。

 弟も、あるときに疑問を抱いたのだろう。そして、〈教会〉に蔓延るその虚栄を受け入れることができなかった。だから、自ら道を切り拓こうとした。

 ミカエルが十五歳で月盾騎士団ムーンシールズを賜ったのと同じ頃、アンダースは無頼の輩と付き合うようになっていた。多くは傭兵や流れ者であり、現在もアンダースの部下として働いているが、およそ王侯貴族の付き合うような出自の連中ではない。
 そんな弟を、父は「下賤だ」と口尖らせ罵倒した。弟は当然それに反発し、ついに悪事にまで手を染めるようになっていた。
 このままでは本当に道を踏み外すと思い、ミカエルは月盾騎士団ムーンシールズに仕官するようアンダースを誘った。ただ、月盾の騎士となってからも、アンダースの本質はあまり変わらなかった。

 実際の戦場では、騎士道などは綺麗事に過ぎない──戦い、殺し、奪い、犯す──しかし上に立つ騎士たちは、理想をあげつらい、それらから目を背ける。一方その下では、誰かしらが役目を負い、手を汚す。そして事が終わると、騎士たちは理想を説き、手を汚す者を暗に蔑む。
 ミカエルも、それはずっと見てきた。しかし、見て見ぬふりをした。弟は、やはりそれが許せなかったのだろう。だから、騎士となっても己の生き方を変えようとはしなかった。


*****


 一人の月盾の騎士の姿が、白い闇に浮かんでは消える。

 正しくないと非難されながらも、騎士の在り方を問い続けた騎士──弟が抱いたであろうその考えは、この〈第六聖女遠征〉を経て、ミカエルにもおぼろげに見えてきた。
 銃火が支配する戦場は、もはや騎士を必要としていない。三兵戦術を遂行しうる軍隊を完成させたグスタフ三世が戦場を蹂躙したように、騎士団という組織そのものが時代遅れと化しつつある。だからこそアンダースは、誰から理解もされず認められなくても、月盾騎士団ムーンシールズを時代に合ったものへと変えたかったのだろうと思った。

 しばらくすると、いつものように、また雪が降り始めた。
 空を見上げる。脳裏に浮かぶ有象無象に何か意味を見出したかったが、雪雲は重く垂れこめるだけで、何も答えることなどなかった。
 すぐ横を駆けるヴィルヘルムは、弟とは違いずっと従順だった。まだ十五歳の、しかし大人たちに混ざって堂々と馬を駆る少年の姿は、今のミカエルには眩しく見えた。
 そのヴィルヘルムが、南の地平線を指差す。
「見て下さい。朝焼けです」
 白い闇に、色が灯る。雪帳ゆきとばりの向こう側に、炎のように真っ赤な朝陽が浮かび上がる。
 
 誰もが、小さく感嘆の息を漏らした。その朝焼けは、文字通り燃えていた。
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