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第十章 遥かなる地平線
10-3 白き地平線の先 ……アンダース
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どこまでも続く白き地平線に、月盾の軍旗が浮かび上がる。
北部への〈第六聖女遠征〉が始まったときから、飽きるほど見た景色である。色のない冬の陽、薄くたなびく雪雲、ぼんやりとした風、人気のない痩せた荒れ野……。しかし、どんな状況下でも、月盾の軍旗だけは美しく見えた。
ずっと眺めていたかったが、ずっと見惚れているわけにもいかなかった。
月盾騎士団の野営地から、音が聞こえてくる。雪の雑踏、歩哨の交わす声、響くラッパ……。力なき様々な音色が、風に乗って流れてくる。
頬に触れる雪の冷たさが、意識を現実に引き戻す。アンダースは騎兵帽の青羽根を整え、被り直し、士官らしく野営地へと戻った。
騎士団長である兄ミカエルが、部隊帰還の声を上げる。小さな歓声とともに、兵たちがアンダースらを迎い入れる。
確保した捕虜を担当者に引き渡すと、兄の従士であり、騎士団の旗手を務めるヴィルヘルムが駆けてくる。
見た目こそやつれているが、ヴィルヘルムの声ははつらつとしていたし、剣や荷物を受け取る動作もきびきびとしていた。兄と話す様子は、心底嬉しそうだった。
ヴィルヘルムはロートリンゲン家に代々仕える貴族の子で、兄も目をかけている。ただ、雪塗れで歩き続けくたびれているアンダースは、この元気なガキは内心目障りだった。
兄は騎士団長らしく、帰還後も休むことなく、野営地の見回りを始めた。アンダースも部下を何人かを連れ、それに続いた。
みな、表情は暗かった。ただ、騎士団長である兄が声をかけると、表情は和らいだ。
兵たちと焚火を囲う。言葉少なに、死者の思い出を語らい、故郷に思いを馳せる。アナスタシアディスの配下から別部隊に編入された者は、上官が必ず援軍を連れてくると気丈に振る舞う。それを聞くリンドバーグ隊の数少ない生き残りの目には、うっすらと涙が滲んでいる。
兄が雑談に興じる傍ら、アンダースは自身の武具の点検をした。
凍りついた刺剣を温め、鞘から抜く。刃を磨き、錆がないことを確認する。歯輪式拳銃の部品を外しながら、こびりついた汚れを落とし、組み直す。
部下にも常日頃から装具を整えるように言っているが、あまり守られてはいなかった。一部の装甲を捨てる者も出ており、ルクレールに至っては、安物の革鎧すら着なくなっている。
ただ、それも仕方なかった。クリスタルレイクでの敗北で、士気は完全に地に落ちている。みな目に見えて疲れ切っているし、気落ちしている。誰もが薄汚れ、ボロ雑巾のようになっている。騎士団長の兄ですら、鎧は傷だらけで、兜に至っては被ってすらいない。
敗北の傷はあまりにも大きい。だからこそ、アンダースはせめて自分の見た目だけはしっかりしておきたかった。剣も、銃も、甲冑も、全て自らがデザインした物ゆえに、装具の不備は許せなかった。
兵が使えなくなった武具を解体し、破片を溶かし、弾丸を作る。が、今にも消えそうな火の熱量では、満足に溶けない。火をもっと焚こうにも、薪がない。そもそも、弾を作っても火薬が限られているので、撃てない。
今の騎士団には、何もかもがなかった。人、馬、荷車……。食料、馬の飼料、酒……。薪、毛皮、干し草……。武具、弾丸、火薬……。切りがないので、細かく考えることは止めた。
雑談を終え、次に物資の集積所へと向かう。兄は、装具の点検が終わるのを待ってくれていたようだった。
集積所の指揮を執るウィッチャーズに声をかける。本来、このような後方事務の統括は副官のディーツの役割だが、負傷のためウィッチャーズが代行している。
「お二人とも、ご無事の帰還、何よりです」
敬礼するウィッチャーズはヴィルヘルム以上に痩せこけていたが、しかしその目にはまだ峻厳さが残っていた。表情も落ち着いており、声にも将兵の誰より力がある。
しばらく、現状と今後について話し合った。ただ、状況に大きな変化はなかった。狩りに出る狩猟隊からも、報告は芳しくない。
「動ける者は動いています。ですが、焼け石に水です。その者たちもどこかで休ませなければなりません。これ以上の傷病者の増加は、行軍にも影響します」
「荷物を整理し、行軍に不必要な物は置いていこう。ただ、兵の私物にまでは口を出すな。そこは個人の意思を尊重する」
ウィッチャーズの言葉に、兄は言葉を濁した。
兄は、明らかに迷っていた。
「ミカエル様。わかっているとは思いますが、行軍速度が目に見えて落ちています。軍医殿は手を尽くしていますが、体調を崩す者は増える一方で、回復する者は僅かです。設備がないので重症者はどうにもならず、死を待つばかりです。この状態では、戦うどころか抵抗さえ満足にできません」
険しい表情を見せるウィッチャーズが、ゆっくりと言葉を選びながら、語気を強める。アンダースにも、うっすらと目配せをしてくる。
「みな、これまで月盾騎士団の一員として支えてきてくれた者たちだ。たとえ進む道が絶望的であろうとも、見捨てることはしたくない」
兄の口から出た言葉は、感情論に過ぎなかった。
「ヴァレンシュタイン元帥が話し合いに応じず、傷病者も連れ歩くことができないとなれば、敵と交渉するほかはありません。せめて、負傷者の保護を交渉するべきです。このままではディーツ殿も死にます。軍医殿の話では、もはや気力だけで息をしている状態です」
「ディーツも死ぬのか?」
何気なく訊くアンダースに、ウィッチャーズが深刻な顔で頷く。ただ、ディーツの容態に関して、アンダースは正直どうでもよかった。
「そうか。じゃあ神頼みでもするか」
進退窮まる閉塞感に、アンダースは思わず笑った。
「偉大なる神よ。〈神の依り代たる十字架〉よ。どうか我らの祈りに応えたまえ……ってな。そしたら第六聖女様が〈神の奇跡〉だが何だかの魔法で、明日の夕飯ぐらいは用意してくれるだろ。肝心なときにいねぇけど」
「……笑えない冗談は止めて頂きたい」
「フン。悪かったよ」
アンダースは鼻で笑ったが、ウィッチャーズは眉一つ動かさなかった。兄の方も、相変わらず反応が薄い。
「信じてるんだから、ちょっとぐらいは救ってくれてもいいのにな」
気まずい空気を誤魔化すように、アンダースは騎兵帽を被りを直した。ただ、周りの者はやはり何も応えなかった。
一瞬だが、沈黙がその重さを増す。
「……ヴァレンシュタインとはボルボ平原の戦いのあと、一度やり取りしています。俺がまた連絡を取りましょうか?」
沈黙に耐え切れず、アンダースは提案した。
兄は黙ったままだったが、小さく頷いた。それを確認し、アンダースは部下のルクレールに声をかけた。
「ルクレール。お前、ヴァレンシュタインの野営地に忍び込んで何とかしろ」
「えぇー? 何で俺なんです? 俺ばっかこき使わないで下さいよ」
面倒事に巻き込まれたとでもいうように、ルクレールが露骨に嫌そうな顔をする。
「頼りにしてるから頼んでるだよ。お前、ハベルハイムとは昔馴染みだろ? 奴さえどうにかすれば俺たちもヴァレンシュタイン軍と合流できるはずだし、何とか話をつけてくれって」
「すでに門前払いされてんすよ? 死人こそ出なかったですけど、めっちゃ撃たれましたし……。鎧がなかったら殺されてましたよ、ハハハ」
周りの深刻な空気など意に介さず、ルクレールが能天気に笑う。アンダースも、板金甲冑ならともかく、革鎧じゃ弾は防げないだろうと突っ込む。
「そこをうまく潜り込めって。もし失敗しても、とりあえず何か掻っ攫って戻ってくりゃいいからさ」
「えぇー。そんな泥棒じゃあるまいし。俺も一応、月盾の騎士様なんですけど」
見た目はほとんど泥棒だと言いたかったが、アンダースはルクレールの肩を叩いて、すぐに行くように命じた。人員の手配はルクレールに一任した。
物資の集積所を出ると、兄は部下たちを解散させた。アンダースも自身の部下たちに休息を取るように命じ、兄に頭を下げる。
「アンダース。ちょっといいか」
去ろうとしたところを呼び止められ、幕舎に来るよう言われる。あまり気乗りはしなかったが、アンダースは了承し、兄に続き幕舎へと足を向けた。
降り続く雪に、兄の外套が白む。前を進むその足取りはいつものようにしっかりしていたが、その背はどこか小さくも見えた。
北部への〈第六聖女遠征〉が始まったときから、飽きるほど見た景色である。色のない冬の陽、薄くたなびく雪雲、ぼんやりとした風、人気のない痩せた荒れ野……。しかし、どんな状況下でも、月盾の軍旗だけは美しく見えた。
ずっと眺めていたかったが、ずっと見惚れているわけにもいかなかった。
月盾騎士団の野営地から、音が聞こえてくる。雪の雑踏、歩哨の交わす声、響くラッパ……。力なき様々な音色が、風に乗って流れてくる。
頬に触れる雪の冷たさが、意識を現実に引き戻す。アンダースは騎兵帽の青羽根を整え、被り直し、士官らしく野営地へと戻った。
騎士団長である兄ミカエルが、部隊帰還の声を上げる。小さな歓声とともに、兵たちがアンダースらを迎い入れる。
確保した捕虜を担当者に引き渡すと、兄の従士であり、騎士団の旗手を務めるヴィルヘルムが駆けてくる。
見た目こそやつれているが、ヴィルヘルムの声ははつらつとしていたし、剣や荷物を受け取る動作もきびきびとしていた。兄と話す様子は、心底嬉しそうだった。
ヴィルヘルムはロートリンゲン家に代々仕える貴族の子で、兄も目をかけている。ただ、雪塗れで歩き続けくたびれているアンダースは、この元気なガキは内心目障りだった。
兄は騎士団長らしく、帰還後も休むことなく、野営地の見回りを始めた。アンダースも部下を何人かを連れ、それに続いた。
みな、表情は暗かった。ただ、騎士団長である兄が声をかけると、表情は和らいだ。
兵たちと焚火を囲う。言葉少なに、死者の思い出を語らい、故郷に思いを馳せる。アナスタシアディスの配下から別部隊に編入された者は、上官が必ず援軍を連れてくると気丈に振る舞う。それを聞くリンドバーグ隊の数少ない生き残りの目には、うっすらと涙が滲んでいる。
兄が雑談に興じる傍ら、アンダースは自身の武具の点検をした。
凍りついた刺剣を温め、鞘から抜く。刃を磨き、錆がないことを確認する。歯輪式拳銃の部品を外しながら、こびりついた汚れを落とし、組み直す。
部下にも常日頃から装具を整えるように言っているが、あまり守られてはいなかった。一部の装甲を捨てる者も出ており、ルクレールに至っては、安物の革鎧すら着なくなっている。
ただ、それも仕方なかった。クリスタルレイクでの敗北で、士気は完全に地に落ちている。みな目に見えて疲れ切っているし、気落ちしている。誰もが薄汚れ、ボロ雑巾のようになっている。騎士団長の兄ですら、鎧は傷だらけで、兜に至っては被ってすらいない。
敗北の傷はあまりにも大きい。だからこそ、アンダースはせめて自分の見た目だけはしっかりしておきたかった。剣も、銃も、甲冑も、全て自らがデザインした物ゆえに、装具の不備は許せなかった。
兵が使えなくなった武具を解体し、破片を溶かし、弾丸を作る。が、今にも消えそうな火の熱量では、満足に溶けない。火をもっと焚こうにも、薪がない。そもそも、弾を作っても火薬が限られているので、撃てない。
今の騎士団には、何もかもがなかった。人、馬、荷車……。食料、馬の飼料、酒……。薪、毛皮、干し草……。武具、弾丸、火薬……。切りがないので、細かく考えることは止めた。
雑談を終え、次に物資の集積所へと向かう。兄は、装具の点検が終わるのを待ってくれていたようだった。
集積所の指揮を執るウィッチャーズに声をかける。本来、このような後方事務の統括は副官のディーツの役割だが、負傷のためウィッチャーズが代行している。
「お二人とも、ご無事の帰還、何よりです」
敬礼するウィッチャーズはヴィルヘルム以上に痩せこけていたが、しかしその目にはまだ峻厳さが残っていた。表情も落ち着いており、声にも将兵の誰より力がある。
しばらく、現状と今後について話し合った。ただ、状況に大きな変化はなかった。狩りに出る狩猟隊からも、報告は芳しくない。
「動ける者は動いています。ですが、焼け石に水です。その者たちもどこかで休ませなければなりません。これ以上の傷病者の増加は、行軍にも影響します」
「荷物を整理し、行軍に不必要な物は置いていこう。ただ、兵の私物にまでは口を出すな。そこは個人の意思を尊重する」
ウィッチャーズの言葉に、兄は言葉を濁した。
兄は、明らかに迷っていた。
「ミカエル様。わかっているとは思いますが、行軍速度が目に見えて落ちています。軍医殿は手を尽くしていますが、体調を崩す者は増える一方で、回復する者は僅かです。設備がないので重症者はどうにもならず、死を待つばかりです。この状態では、戦うどころか抵抗さえ満足にできません」
険しい表情を見せるウィッチャーズが、ゆっくりと言葉を選びながら、語気を強める。アンダースにも、うっすらと目配せをしてくる。
「みな、これまで月盾騎士団の一員として支えてきてくれた者たちだ。たとえ進む道が絶望的であろうとも、見捨てることはしたくない」
兄の口から出た言葉は、感情論に過ぎなかった。
「ヴァレンシュタイン元帥が話し合いに応じず、傷病者も連れ歩くことができないとなれば、敵と交渉するほかはありません。せめて、負傷者の保護を交渉するべきです。このままではディーツ殿も死にます。軍医殿の話では、もはや気力だけで息をしている状態です」
「ディーツも死ぬのか?」
何気なく訊くアンダースに、ウィッチャーズが深刻な顔で頷く。ただ、ディーツの容態に関して、アンダースは正直どうでもよかった。
「そうか。じゃあ神頼みでもするか」
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「……笑えない冗談は止めて頂きたい」
「フン。悪かったよ」
アンダースは鼻で笑ったが、ウィッチャーズは眉一つ動かさなかった。兄の方も、相変わらず反応が薄い。
「信じてるんだから、ちょっとぐらいは救ってくれてもいいのにな」
気まずい空気を誤魔化すように、アンダースは騎兵帽を被りを直した。ただ、周りの者はやはり何も応えなかった。
一瞬だが、沈黙がその重さを増す。
「……ヴァレンシュタインとはボルボ平原の戦いのあと、一度やり取りしています。俺がまた連絡を取りましょうか?」
沈黙に耐え切れず、アンダースは提案した。
兄は黙ったままだったが、小さく頷いた。それを確認し、アンダースは部下のルクレールに声をかけた。
「ルクレール。お前、ヴァレンシュタインの野営地に忍び込んで何とかしろ」
「えぇー? 何で俺なんです? 俺ばっかこき使わないで下さいよ」
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「頼りにしてるから頼んでるだよ。お前、ハベルハイムとは昔馴染みだろ? 奴さえどうにかすれば俺たちもヴァレンシュタイン軍と合流できるはずだし、何とか話をつけてくれって」
「すでに門前払いされてんすよ? 死人こそ出なかったですけど、めっちゃ撃たれましたし……。鎧がなかったら殺されてましたよ、ハハハ」
周りの深刻な空気など意に介さず、ルクレールが能天気に笑う。アンダースも、板金甲冑ならともかく、革鎧じゃ弾は防げないだろうと突っ込む。
「そこをうまく潜り込めって。もし失敗しても、とりあえず何か掻っ攫って戻ってくりゃいいからさ」
「えぇー。そんな泥棒じゃあるまいし。俺も一応、月盾の騎士様なんですけど」
見た目はほとんど泥棒だと言いたかったが、アンダースはルクレールの肩を叩いて、すぐに行くように命じた。人員の手配はルクレールに一任した。
物資の集積所を出ると、兄は部下たちを解散させた。アンダースも自身の部下たちに休息を取るように命じ、兄に頭を下げる。
「アンダース。ちょっといいか」
去ろうとしたところを呼び止められ、幕舎に来るよう言われる。あまり気乗りはしなかったが、アンダースは了承し、兄に続き幕舎へと足を向けた。
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