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第八章 クリスタルレイクの戦い

8-14 燃える心臓の黒竜旗  ……ヤンネ

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 風を切るたび、死の臭いがその濃さを増していく。

 鳴り止まぬ遠雷がクリスタルレイクに響く。湖氷のあらゆる方向から、夥しい死の臭いが漂ってくる。
 その中でも最も新鮮な臭いを辿り、ヤンネは駆けた。最初は半信半疑でもあった。だがそれは、やがてはっきりと、確信へと変わっていった。

 鼻を衝く死の臭いが、無数の弾痕となって湖氷に姿を表す。ただ、明らかな戦闘の痕跡はあったが、しかし死体はおろか、血の痕さえもが全くない。

 その痕跡を辿る。すぐに、白煙の中にその影が浮かび上がる──燃える心臓の黒竜旗、そして、皇帝近衛兵の青骸布せいがいふ

 皇帝の軍隊がその姿を現す。
 血と泥に塗れた野営地に、燃える心臓の黒竜旗がはためく。打ち捨てられた〈教会〉の十字架旗を踏みつける近衛歩兵が、長槍パイク火縄式マッチロックマスケット銃を手に、陣営を守備する。
 近づくヤンネらに対し、青骸布せいがいふの近衛兵が「止まれ」と誰何すいかし、行く手を塞ぐ。
 ヤンネは行軍を止めると、一騎前に進み出、物々しい視線に向かって声を上げた。
「第三軍団騎兵隊所属、極彩色の馬賊ハッカペルより、指揮官ヤンネ以下二百騎、軍令により援軍に参りました!」
 青骸布せいがいふの騎士が数騎、駆けてくる。
 互いに敬礼する。次いで、サミが軍令書を相手指揮官に手渡す。青骸布せいがいふの騎士が、横目でこちらを見つつ、軍令書を確認する。
「確認した。貴殿らの増援に感謝する」
 複数の近衛士官で軍令書を確認したのち、ようやく相手指揮官は納得したようだった。
「陛下にお伝えする。それまで、こちらで待機願う」
「わかりましたけど、陸に上がらせて下さい。いつまでも氷の上にいたくありません」
「悪いが戦線の再構築中にて、場所がない」
 取りつく島もなかった。青骸布せいがいふの騎士は早々に話を切ると、足早に去ってしまった。
 仕方なく、ヤンネはその場で待機を命じた。一部の兵は明らかに不満そうな顔をしていたが、サミが宥めた。

 待機する間、後方を守備する近衛兵と向かい合う形になる。
 まず、惜しみなく金をかけたことが一目でわかる軍装に、圧倒される。最新の甲冑に、色鮮やかな青骸布せいがいふを羽織るその出で立ちは、華美でありつつも質実剛健。少なくとも〈帝国〉において、同様の壮麗さを誇る部隊は存在しない。一方で、毛皮の服と革の鎧を略奪品で装飾する、一般的な極彩色の馬賊ハッカペルの軍装や、地味なバフコートに一昔前の皿型兜ケトルハットのヤンネなどは、どんなに見栄を張っても足下にも及ばない。
 その見た目の差ゆえか、近衛兵の目には、明らかに侮蔑の色があった。

 そして、その声が漏れ聞こえてくる。

「たったの二百騎だと? キャモランもストロムブラードも、相変わらず舐め腐った対応しやがって……」
「こっちは蛮族の子守り役じゃないんだぞ、全く……」
「言葉は、大陸共通語はわかるのか? 好き勝手に動かれて足並みを乱されては堪らん」
「指揮官も副官もガキってどういう編制なんだよ? まともに戦えるのか?」

 青骸布せいがいふの近衛兵たちは、卑下する言葉を潜めようともしなかった。
「何だあいつら、さっきから偉そうに……!」
 あからさまな侮蔑に、コッコが顔を真っ赤にし、馬を前に進める。だがヤンネはその胸倉を掴み、押し止めた。
「耐えろ」
「黙ってたら増々馬鹿にされるぞ。俺が唾でも吐いてわからせてやる……!」
「コッコ、頼む。実際、向こうが偉いんだ。今は耐えろ」
 コッコはもちろん、みな同じ気持ちなのは痛いほど理解している──何も思わないわけがない。俺たちは、ずっと馬鹿にされながら生きてきた。ただ、帝国人でないというだけで。ただ、極彩色の馬賊ハッカペルに属するというだけで。ただ、〈東の王プレスター・ジョン〉の血を引くというだけで。
 こちらが揉めているのを見てか、残った近衛士官がせせら笑う。
「おい、いつまで突っ立ってる気だ? さっさと下馬しろ。皇帝旗の前で無礼であろう」
 その言葉に、またコッコが食ってかかる。部下の何人かも、コッコに続こうとしする。
 ヤンネはあらん限りの力でコッコの首根っこを押さえ、後ろに下がらせた。
 見下されることには慣れている。だが、感情までは失ってない。怒りは、常に渦巻いている。今このときも、怒りで臓腑は煮えくり返っている。
 それでも、耐え忍ぶべきも、知っている。
 それは、騎士殺しの黒騎士が教えてくれた──大戦おおいくさの前に、ストロムブラード隊長の顔に泥を塗るわけにはいかない──いつ暴発するとも知れない怒りを打ち消すべく、ヤンネは怒鳴った。
「総員、下馬し整列! ここで待機!」
 今は耐えるときである──断続的に響く砲声に思いを馳せ、ヤンネは待った。

 ただ、色のない冬の陽だけが、時を刻む。

 近くて遠い間に、黒竜旗が、燃える心臓の黒竜旗が、はためく。何もかもが、白に霞む。凍りついたクリスタルレイクは冷たく、立ち込める白煙はぶ厚く、降り続く雪はその深さを増していく。
 そのときだった。雷鳴の如き男の一喝が、突如として戦場に轟いた。
「この愚か者ども! 騎兵を馬から降ろして何とする!?」
 声に反応した近衛兵たちが瞬時に姿勢を正し、一斉に頭を下げる。
 近衛兵の隊列から、一人の男が近づいてくる。父と同じ三十代ほどに見えるその男は、最新の鎧兜で身を固めた青骸布せいがいふの騎士たちの中にあって唯一、一切の装甲を着用していなかった。ただ、身にまとうバフコートは、貴人の軍帽は、この場にいる誰よりも戦塵に汚れていた。

「よく来た! 我が強き北風ノーサー、その息子よ!」

 現れた男は下馬すると、声高に歓喜し、そして力強くヤンネを抱擁してきた。
 突然のことにヤンネは戸惑い、その場で固まってしまった。
 燃えるように熱い視線が、ヤンネの視線と交錯する──燃える心臓の男、北限の征服者、〈帝国〉の真なる黒竜……。昨夜、光の奔流の中に見た、様々な異名を欲しいままにする英雄……──その笑みを見て、ヤンネはそれが何者か理解し、凍りつき、慌てて敬礼した。

 ぎこちなく敬礼するヤンネを、グスタフ帝が一笑に付す。
「配下の者たちの非礼を許してくれ。立場や肩書きは、ときにその目を曇らせてしまうのだ」
 その眼差しの熱量からは想像できぬほど優しげな言葉に、ヤンネは面食らい、また戸惑ってしまった。

 何もかもが、初めて知る感覚だった。
 明らかに住む世界が違う人だった。もちろん、相手は〈帝国〉のあらゆる王侯貴族を束ねる一国の長であり、〈教会〉との〈大祖国戦争〉を主導する武断の王である。ただ、わかってはいるつもりだったが、実際に対面するまで、その本質は微塵も理解はできてはいなかった。
 王侯貴族は基本的に、権威に依存し、囚われている。しかし、皇帝から放たれる威光は、決して権威主義的なものではなかった。その威光は正真正銘、本人から溢れ出るものにしか思えなかった。

 何もかもが、規格外の男。しかしその男は、初対面であるはずのヤンネに、極めて親しげに接してくれている。

 何を話したかは覚えていない。恐らく、礼儀はまるでなっていなかっただろう。しかしグスタフ帝は、ただ熱き眼差しで、それらを笑い飛ばしてくれた。
 ストロムブラード隊長から渡された、帝国騎士を示す竜の徽章ドラゴンフォースのことも、特に咎められることはなかった。「似合っている」と言われたときは、素直に嬉しかった。

 体を巡る熱はどこまでも心地よかった。いつまでもこうして話していたかった。
 しかしそんな穏やかな空気を、唐突な砲声がかき消す。一際大きな砲声を皮切りに、皇帝の下に続々と注進が入る。
「ヴァレンシュタインの奴、ようやく重い腰を上げたか。ちょうどよい。第六聖女の弱兵もろとも、地獄へ送ってやる」
 戦場がまた胎動を始める。迫り来る戦火が、クリスタルレイクの氷を激しく揺さぶる。
 しかし、燃える心臓の男の目は輝いていた。
「我が軍旗をここへ持て!」
 グスタフ帝が旗手を呼びつける。
強き北風ノーサーの子よ! 極彩色の馬賊ハッカペルの若者たちよ! かつて大陸の東半分を滅ぼした、偉大なる〈東の王プレスター・ジョン〉の血を引く者たちよ! 我が燃える心臓の黒竜旗をお前たちに託す! 最強と名高きその武勇、この軍旗の前で存分に示すがよい!」
 高らかな号令に、闘志が燃え上がった。ヤンネは差し出された皇帝旗の前に跪き、負けじと声を張り上げ、感謝を述べた。

 ヤンネは近衛兵の旗手から皇帝旗を受け取ると、戦友のアンティを呼び、それを託した。
 帝国人ではなく、正式には黒騎兵オールブラックスの支隊扱いである極彩色の馬賊ハッカペルには、一目で識別できる見た目のせいもあってずっと軍旗がなかった。だからか、アンティはずっと旗手に憧れていた。
 二百騎の先頭で、燃える心臓の黒竜旗が高々と翻る。皇帝旗を掲げるアンティの笑顔は、見ているこちらも嬉しくなるほどだった。
 グスタフ帝は翻る黒竜旗を満足そうに眺めると、馬に跨り、剣を抜いた。
「さぁ始めるぞ! ついて来い!」
 ヤンネも馬に跨ると、グスタフ帝の背を追い、湖岸へと駆け上がった。

 燃える心臓の男が、青骸布せいがいふの風をまとい、白煙の中を駆ける。そして道が拓かれる。

 これが、栄光へ続く道なのかはわからない。しかし、何かが始まる気がした。

 いや、すでに始まっている──その確信は、燃え盛る炎となって、ヤンネの体を突き動かした。
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