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第八章 クリスタルレイクの戦い

8-6 二人の騎士  ……マクシミリアン

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 止まることを知らぬ流血が、粉雪を染めていく。

 ゆっくりと、虚な意識が覚醒していく。そして、痛みが襲ってくる。

 幸い、手足は動いた。指先まで、欠損はなさそうだった。出血している感覚もなかった。
 体中に浴びた血は、馬の血だった。乗っていた馬は、腹から臓物を撒き散らし死んでいた。
 胸甲の横腹は、へこんでいた。肋骨は確実に折れているが、それでも呼吸はできた。しかし、馬を叩き殺し、胸甲をへこませるほどの衝撃を受け、なぜ生きているのかは不思議だった。
 人面甲グロテスクマスクの騎士の大剣には、焼かれた騎士の紋章が巻きついていた。どうやら、自身のマントが都合よく絡みつき、大剣の衝撃を緩和したようだった。

 マクシミリアンは顔を拭い、体を起こした。しかし、兜を被り直した瞬間、人面甲グロテスクマスクの騎士と目が合ってしまった。

 大剣が唸り、焼かれた騎士のマントが霧散する。獲物を捉えた人面甲グロテスクマスクの奥の瞳が、狩人の如くぎらつく。
 そのときだった。黒い影が、宙を舞った。
 護衛である無口な影スーサイド・サイレンスが、人面甲グロテスクマスクの騎士に跳びかかる。そして、短剣を甲冑の関節に突き刺し、その動きを拘束する。
「そのまま押さえとけ!」
 活路があるとすれば、前だけだ──マクシミリアンは鎧通しメイル・ダガーを抜くと、再び人面甲グロテスクマスクの騎士に突っ込んだ。

 しかし、均衡はあっという間に崩れた。人面甲グロテスクマスクの騎士は、雄叫びとともに無口な影スーサイド・サイレンスの拘束を解くと、背後に腕を回し、紙でも引きちぎるかのように、黒いローブを真っ二つにした。

 血の雨が降る。異国の黒いローブが、血と臓物を撒き散らす。人間だった塊が投げつけられ、再び地面に膝をつく。
 覆面の奥から、物言わぬ瞳がこちらを見る。
 どう見ても死んでいた。いくらこの女が暗殺者であり、数多の暗技に精通しているとはいえ、生きている姿は想像できなかった。

 己の弱さを、愚かさを、矮小さを、マクシミリアンは嘆いた。

 この者たちに、勝利を、不滅の栄光を与えたいと願ったにも関わらず、結局は己の下らぬ意地に囚われ、大局を見失った。血に酔い、泥に塗れ、地に落ちた。命を懸けて戦ってくれた者たちに、何一つ与えてやれなかった。
 指揮官としては失格だった。それでも、その責を負い、潔く死を選ぶという選択肢はなかった。

 命果てるまで、俺は戦う。これまでも、そしてこれからも──その一念のみで、マクシミリアンは顔を上げた。

 無数の馬蹄が近づいてくる。剣戟の音は遠く、もはや周囲に味方はいない。
 人面甲グロテスクマスクの騎士の背後から、月盾の騎士たちがやってくる。路傍の石でも見るような視線が、馬上から注がれる。
「名もなき雑兵よ。憐れなる戦いの犠牲者よ。己の運命を嘆くな。全ては神の思し召しだ」
 無数の視線の中心で、若き月盾の騎士がマクシミリアンを見下ろす。将校用兜バーガネットしころから金色の長髪を靡かせ、前時代的な古めかしい直剣を手にした、いかにも高貴な騎士を体現する青年が、悠然と馬を進めてくる。

 一目で見て、その男が月盾の長だとわかった。

 しかし、当のミカエル・ロートリンゲンは、こちらが誰なのかわかっていないようだった。恐らく、目の前の相手が黒騎兵オールブラックスの隊長だとは、ヨハン・ロートリンゲン元帥の敗北を決定づけた男だとは、高貴なる者たちに蛇蝎の如く忌み嫌われる騎士殺しの黒騎士などとは、毛ほども思っていないのだろう。
 そもそも、燃え盛るその青い瞳には、何も映っていなかった。確かにマクシミリアンを見下ろす月盾の長は、しかし何も見てはいなかった。

 マクシミリアンは体を起こすと、唾を吐き捨てた。
 端的に言えば、何もかもが癇に障った。特に、ミカエル・ロートリンゲンのことは、ことさら気に入らなかった。雑兵扱いされたことよりも、あからさまに上流階級の血族といった見た目の方が、遥かに気に喰わなかった。

 感情の赴くまま、マクシミリアンは地面の泥を手に取ると、若き月盾の騎士に投げつけた。泥は古めかしい直剣に弾かれ、その貴人の横顔を汚すことはなかった。
 しかし、泥を受けた瞬間、その高貴なる青い瞳はおぞましいほどに歪んだ。そこには騎士らしい品格は微塵もなく、ただただ醜かった。
「恥知らずな……。所詮は冒涜者の手下か……。汚らわしい……」
 その反応を見て、マクシミリアンは嗤った。いくら気高く誇り高い騎士であろうとしても、所詮は俺と同じ人間なのだと思えた。

「卑しき者よ。お前のような羽虫には理解できないだろうが、正義は必ず果たされねばならん。死してその罪をあがない、義を果たせ」

 燃えるような青い瞳が、こちらを睨む。言葉の端々に憎悪が滲み、品位ある顔立ちが殺意に歪む。

「神の依り代たる十字架よ。今ここに、悪逆なる〈帝国〉に正義を下します。〈黒い安息日ブラック・サバス〉に、我が父の死に、どうか報いを……。そして、騎士の誇り汚したる冒涜的存在に、死のお慈悲を……」

 義だの神だの、戦場のど真ん中で何をベラベラ喋ってるんだこのガキは……。それが率直な思いだった。
「こっちは自分の仕事をしただけだ……。それなのに、どいつもこいつも冒涜者呼ばわりしやがって……。ふざけんなクソ野郎……」
 この手の信心深い馬鹿を殺すのは生きがいだったし、現に殺してやりたかった。だが、もはや立ち上がるだけで精一杯だった。
 それでも、マクシミリアンはサーベルを拾い、構えた。

 若き月盾の長が、古めかしい直剣を振り上げる。

「羽虫が足掻くな」

 若造が。簡単に殺せると思うなよ──。

 そのときだった。どこからか、風が吹いた。

 刹那、そばにいた人面甲グロテスクマスクの騎士が、若き月盾の長の体を弾き飛ばす。
 そして次の瞬間、唸る矢が、人面甲グロテスクマスクの騎士の馬を貫いた。

 馬鎧ごと馬の首を貫かれ、もんどり打って転倒する巨漢の人馬をよそに、誰もが同じ方向を見た。

 血が、視界に滲んだ。
 風が唸り、吹き荒ぶ。血を帯びた極彩色の風が、戦場を飛翔する──俺が憧れ、追い求めたもの──強き北風ノーサーは、今まさに血路を開き、現れた。
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