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第六章 蠢く静寂
6-1 身を焦がす意志 ……ミカエル
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濁った北の空のどこかで、雷鳴が哭いている。
白く染まった丘の上に、月盾の軍旗がはためく。月盾の騎士団旗の下、ミカエルを先頭に、月盾騎士団の人馬が整列する。
「必ずや義父を説得し、援軍を連れて参ります。それまで、どうかお元気で」
外套の下、胴鎧に刻まれた月牙の紋章が、雪に白む。騎士団の上級将校、アンドレアス・アナスタシアディスが、ミカエルの手を取り微笑む。
固く握手を交わし、互いの武運を祈る。
別れの挨拶を終えると、アナスタシアディス率いる先遣隊四百騎が、南へと駆け出していく。
雪中行軍の装備に身を包み、食料や馬の飼料を満載した馬車を連れた馬群が、王の回廊を南下する。
街道、森、湖沼……何もかもが、どこまでも白い。有史以前の伝説の時代、古の覇王が凱旋したとされる王の回廊は、ミカエルらが北上した北陵街道と同じように、深い冬に染まっている。
ミカエルは古めかしい直剣を抜き、それを頭上に掲げた。
「我らの軍旗に! 仲間たちに!」
旗手のヴィルヘルムが、騎士団旗を高く掲げる。整列する騎士たちが剣を抜き、それを軍旗に向ける。
「銃士! 礼砲射撃!」
ミカエルの続く号令に、アンダースと銃兵数名が、空に向かって空砲のマスケット銃を発射する。
見送るミカエルらに振り返り、最後尾の一騎が剣を掲げる。
別れを告げる月牙の騎士の姿が、雪の白に溶けていく。アナスタシアディス率いる四百騎の姿は、すぐに雪帳の向こうへ消え、見えなくなった。
「ヴァレンシュタインの奴、ある意味で一番発言力のある者を、体よく遠ざけましたね」
ミカエルの横に馬を寄せるアンダースが、薄ら笑いを浮かべ耳打ちしてくる。
「ウィッチャーズを失ったうえ、アンドレアスまでいなくなっては、騎士団の運営にも支障が出るかもですね。五千人いた兵員も、今や半分になってしまいましたし。もっとも、ヴァレンシュタインはこちらの戦力など当てにしてないと思いますけど」
「確かにその通りだが、この任務はアンドレアス殿しかできない。ヴァレンシュタイン元帥の思惑はともかく、残された我らで、騎士団の孤塁をしっかりと守らねばならん。お前も気を引き締めろ」
この期に及んで、アンダースの軽口は相変わらずだった。ミカエルは窘めたが、弟は生返事をするばかりだった。
ミカエルら教会遠征軍本隊の残存部隊と、ヴァレンシュタインの第二軍が合流したのち、まず議題に上がったのが、国境沿いに留まるティリー卿への援軍要請についてだった。
ボルボ平原での敗北前までなら、援軍がなくともどうにかはなっていた。だが全体としての形勢不利が濃厚となった今、ティリー卿からの援軍は死活問題となりつつあった。
ヨハン・ロートリンゲン、ヴァレンシュタイン両元帥からの再三の援軍要請を無視するティリー卿に対し、誰がこの窮状を伝え、説得するかが問題だった。ただ使者を派遣するだけではこれまで通りの対応だろうし、家柄のある将軍や将校に頼むにしても、〈教会五大家〉の一角であるティリーが容易に取り合わないのは、目に見えている。
結果、月盾騎士団より、アンドレアス・アナスタシアディスが適任者として選ばれた。
ロートリンゲン家の外戚家系でもあるアナスタシアディス家は、〈教会五大家〉に次ぐ家柄であり、さらにアンドレアスの妻はティリー卿の娘である。義理の息子相手なら、さすがのティリーも無下にはしないはずだし、雪中行軍の指揮能力を加味しても、アナスタシアディスなら問題なくやり遂げるとの判断だった。
アンダースの言う通り、ヴァレンシュタインにも、もちろん何かしらの思惑はあるだろう。現にアナスタシアディスは、ヴァレンシュタインに対しても、あまり忖度せずに意見を言っていた。
しかし今は、家同士、派閥同士の争いに興じている暇はない。将兵の一つ一つの行動が、この〈第六聖女遠征〉の、教会遠征軍の命運に直結してくる。その積み重ねは、やがて国家の趨勢にさえ影響を及ぼすだろう。
人にできることは限りがある。月盾の長であり、〈教会五大家〉筆頭のロートリンゲン家の後継者でもあるミカエルにさえ、限界はある。
だが、一人の男として、力を尽くす覚悟はできている。その意志が、人を動かし、やがて大きなうねりを生む。
ふと、ミカエルは思った──弟に、その自覚は、覚悟はあるのだろうか?
誰よりも派手な軍装は、戦塵に塗れてなお、派手だった──青羽根の飾られた長つばの騎兵帽、髑髏の紋章が刻まれた一点物の胴鎧、きめ細かな意匠が施された歯輪式拳銃、そして艶めく赤銅を湛えた刺剣──弟の青い瞳は、騎兵帽の長つばに隠れ、よく見えなかった。
「ちょっと訊いていいです?」
ミカエルが問おうとしたとき、逆にアンダースが質問をしてきた。
「兄上は、これからどうするつもりですか?」
「どういう意味だ?」
「その、つまり……、これからどうするかってことです。この遠征は、恐らく失敗に終わります。父上も死に、ロートリンゲン家としても岐路に立たされています。兄上としては望まぬ形で跡を継ぐことになったとは思いますが、新たな家長として、これからについてどう考えてるのかを知りたいんです」
アンダースの青い瞳が、騎兵帽の奥から様子を窺ってくる。普段は人のことなど意に介さない弟にしては、珍しいことである。
「これから……?」
やるべきことは山積している。果たすべき使命、守るべき誇り、貫くべき道……。あらゆる責務が、脳裏を過る。
「皇帝を誅殺し、大義を成す」
弟の青い瞳を見ながら、ミカエルは答えた。
しばらくの間、アンダースは唖然としていた。
「本気で言ってるので? そもそも、我らは退却してるんですよ? 何をどうしたらそんな発想に至るんですか? 家の家訓を重んじる、模範的な騎士たる兄上らしくもない」
騎兵帽の被り直しながら、呆れたように、アンダースが苦笑する。
苦笑いするアンダースに、ミカエルはもう一度、目を向けた。視線が合うと、アンダースはばつの悪そうな顔をして、視線を逸らした。
どこからか燃え上がる炎が、身を焦がす。怒りが、憎悪が、殺意が、静かな意志に薪をくべる。
自らが口にした言葉、その言葉に秘めた意志を胸に、ミカエルは雪原の先を見た。
ミカエルは本気だった。
我々には、信仰がある──〈神の依り代たる十字架〉の信仰の許、団結するのだ。神の代理人たる教皇の手、〈教会七聖女〉の天使の軍旗を旗印に、立ち向かうのだ。
敵には、信仰がない──〈帝国〉は悪だ。〈黒い安息日〉を引き起こした皇帝グスタフ三世は、天に仇なす男であり、誅殺すべき巨悪だ。
正当性は、こちらにある──全ての将兵がそれを胸に刻み、躊躇いなく戦えば、敗勢から逆襲に転じ、必ず勝利することができる。
グスタフ三世の首を取り、教会遠征軍に勝利をもたらし、この〈北部再教化戦争〉を終わらせる。失った誇りを取り戻す。それは遠征軍の指揮を執った父ヨハンに託された、そして五大家筆頭ロートリンゲン家に課された使命である。
だがそのために、一人の少女が犠牲になる。
第六聖女セレン──〈教会七聖女〉の第六席、まだ齢十五にしかならぬ、一人の娘。
早ければ、一ヵ月後には援軍が来る。そう第六聖女セレンには伝えた。それを伝えたとき、セレンは少し安堵していた。
冬に凍え、日に日にやつれていく聖女の姿は、痛ましかった。だが、辛うじて意志を保つ少女の姿は、苦境にも慈愛を忘れぬ少女の微笑みは、ミカエルに勇気を与えてくれた。
犠牲にはさせない──その存在が、たとえ国家の生贄だとしても、決してこの戦いの犠牲にはさせない。
「生きて帰還せよ」と父は言った。その遺言、亡き父に託された少女を守るため、自らが先頭に立って戦わねばならない。〈教会〉の騎士として、月盾の長として、一人の男として、折れるわけにはいかない。
また、北の空のどこかで、雷鳴が哭く。
後衛で遅滞作戦を展開するヴァレンシュタイン軍が、帝国軍と小勢り合いをしているのであろう。時折、思い出したように砲声が鳴り響く。
『我ら、〈神の依り代たる十字架〉を守りし月の盾。我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん』──ミカエルはロートリンゲン家の家訓を胸に刻み、前を見た。
濁る冬空の隅で、おぼろげな冬の陽が揺れる。
丘の上から望む地平線はどこまでも白く、冬はどこまでも深かった。
白く染まった丘の上に、月盾の軍旗がはためく。月盾の騎士団旗の下、ミカエルを先頭に、月盾騎士団の人馬が整列する。
「必ずや義父を説得し、援軍を連れて参ります。それまで、どうかお元気で」
外套の下、胴鎧に刻まれた月牙の紋章が、雪に白む。騎士団の上級将校、アンドレアス・アナスタシアディスが、ミカエルの手を取り微笑む。
固く握手を交わし、互いの武運を祈る。
別れの挨拶を終えると、アナスタシアディス率いる先遣隊四百騎が、南へと駆け出していく。
雪中行軍の装備に身を包み、食料や馬の飼料を満載した馬車を連れた馬群が、王の回廊を南下する。
街道、森、湖沼……何もかもが、どこまでも白い。有史以前の伝説の時代、古の覇王が凱旋したとされる王の回廊は、ミカエルらが北上した北陵街道と同じように、深い冬に染まっている。
ミカエルは古めかしい直剣を抜き、それを頭上に掲げた。
「我らの軍旗に! 仲間たちに!」
旗手のヴィルヘルムが、騎士団旗を高く掲げる。整列する騎士たちが剣を抜き、それを軍旗に向ける。
「銃士! 礼砲射撃!」
ミカエルの続く号令に、アンダースと銃兵数名が、空に向かって空砲のマスケット銃を発射する。
見送るミカエルらに振り返り、最後尾の一騎が剣を掲げる。
別れを告げる月牙の騎士の姿が、雪の白に溶けていく。アナスタシアディス率いる四百騎の姿は、すぐに雪帳の向こうへ消え、見えなくなった。
「ヴァレンシュタインの奴、ある意味で一番発言力のある者を、体よく遠ざけましたね」
ミカエルの横に馬を寄せるアンダースが、薄ら笑いを浮かべ耳打ちしてくる。
「ウィッチャーズを失ったうえ、アンドレアスまでいなくなっては、騎士団の運営にも支障が出るかもですね。五千人いた兵員も、今や半分になってしまいましたし。もっとも、ヴァレンシュタインはこちらの戦力など当てにしてないと思いますけど」
「確かにその通りだが、この任務はアンドレアス殿しかできない。ヴァレンシュタイン元帥の思惑はともかく、残された我らで、騎士団の孤塁をしっかりと守らねばならん。お前も気を引き締めろ」
この期に及んで、アンダースの軽口は相変わらずだった。ミカエルは窘めたが、弟は生返事をするばかりだった。
ミカエルら教会遠征軍本隊の残存部隊と、ヴァレンシュタインの第二軍が合流したのち、まず議題に上がったのが、国境沿いに留まるティリー卿への援軍要請についてだった。
ボルボ平原での敗北前までなら、援軍がなくともどうにかはなっていた。だが全体としての形勢不利が濃厚となった今、ティリー卿からの援軍は死活問題となりつつあった。
ヨハン・ロートリンゲン、ヴァレンシュタイン両元帥からの再三の援軍要請を無視するティリー卿に対し、誰がこの窮状を伝え、説得するかが問題だった。ただ使者を派遣するだけではこれまで通りの対応だろうし、家柄のある将軍や将校に頼むにしても、〈教会五大家〉の一角であるティリーが容易に取り合わないのは、目に見えている。
結果、月盾騎士団より、アンドレアス・アナスタシアディスが適任者として選ばれた。
ロートリンゲン家の外戚家系でもあるアナスタシアディス家は、〈教会五大家〉に次ぐ家柄であり、さらにアンドレアスの妻はティリー卿の娘である。義理の息子相手なら、さすがのティリーも無下にはしないはずだし、雪中行軍の指揮能力を加味しても、アナスタシアディスなら問題なくやり遂げるとの判断だった。
アンダースの言う通り、ヴァレンシュタインにも、もちろん何かしらの思惑はあるだろう。現にアナスタシアディスは、ヴァレンシュタインに対しても、あまり忖度せずに意見を言っていた。
しかし今は、家同士、派閥同士の争いに興じている暇はない。将兵の一つ一つの行動が、この〈第六聖女遠征〉の、教会遠征軍の命運に直結してくる。その積み重ねは、やがて国家の趨勢にさえ影響を及ぼすだろう。
人にできることは限りがある。月盾の長であり、〈教会五大家〉筆頭のロートリンゲン家の後継者でもあるミカエルにさえ、限界はある。
だが、一人の男として、力を尽くす覚悟はできている。その意志が、人を動かし、やがて大きなうねりを生む。
ふと、ミカエルは思った──弟に、その自覚は、覚悟はあるのだろうか?
誰よりも派手な軍装は、戦塵に塗れてなお、派手だった──青羽根の飾られた長つばの騎兵帽、髑髏の紋章が刻まれた一点物の胴鎧、きめ細かな意匠が施された歯輪式拳銃、そして艶めく赤銅を湛えた刺剣──弟の青い瞳は、騎兵帽の長つばに隠れ、よく見えなかった。
「ちょっと訊いていいです?」
ミカエルが問おうとしたとき、逆にアンダースが質問をしてきた。
「兄上は、これからどうするつもりですか?」
「どういう意味だ?」
「その、つまり……、これからどうするかってことです。この遠征は、恐らく失敗に終わります。父上も死に、ロートリンゲン家としても岐路に立たされています。兄上としては望まぬ形で跡を継ぐことになったとは思いますが、新たな家長として、これからについてどう考えてるのかを知りたいんです」
アンダースの青い瞳が、騎兵帽の奥から様子を窺ってくる。普段は人のことなど意に介さない弟にしては、珍しいことである。
「これから……?」
やるべきことは山積している。果たすべき使命、守るべき誇り、貫くべき道……。あらゆる責務が、脳裏を過る。
「皇帝を誅殺し、大義を成す」
弟の青い瞳を見ながら、ミカエルは答えた。
しばらくの間、アンダースは唖然としていた。
「本気で言ってるので? そもそも、我らは退却してるんですよ? 何をどうしたらそんな発想に至るんですか? 家の家訓を重んじる、模範的な騎士たる兄上らしくもない」
騎兵帽の被り直しながら、呆れたように、アンダースが苦笑する。
苦笑いするアンダースに、ミカエルはもう一度、目を向けた。視線が合うと、アンダースはばつの悪そうな顔をして、視線を逸らした。
どこからか燃え上がる炎が、身を焦がす。怒りが、憎悪が、殺意が、静かな意志に薪をくべる。
自らが口にした言葉、その言葉に秘めた意志を胸に、ミカエルは雪原の先を見た。
ミカエルは本気だった。
我々には、信仰がある──〈神の依り代たる十字架〉の信仰の許、団結するのだ。神の代理人たる教皇の手、〈教会七聖女〉の天使の軍旗を旗印に、立ち向かうのだ。
敵には、信仰がない──〈帝国〉は悪だ。〈黒い安息日〉を引き起こした皇帝グスタフ三世は、天に仇なす男であり、誅殺すべき巨悪だ。
正当性は、こちらにある──全ての将兵がそれを胸に刻み、躊躇いなく戦えば、敗勢から逆襲に転じ、必ず勝利することができる。
グスタフ三世の首を取り、教会遠征軍に勝利をもたらし、この〈北部再教化戦争〉を終わらせる。失った誇りを取り戻す。それは遠征軍の指揮を執った父ヨハンに託された、そして五大家筆頭ロートリンゲン家に課された使命である。
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早ければ、一ヵ月後には援軍が来る。そう第六聖女セレンには伝えた。それを伝えたとき、セレンは少し安堵していた。
冬に凍え、日に日にやつれていく聖女の姿は、痛ましかった。だが、辛うじて意志を保つ少女の姿は、苦境にも慈愛を忘れぬ少女の微笑みは、ミカエルに勇気を与えてくれた。
犠牲にはさせない──その存在が、たとえ国家の生贄だとしても、決してこの戦いの犠牲にはさせない。
「生きて帰還せよ」と父は言った。その遺言、亡き父に託された少女を守るため、自らが先頭に立って戦わねばならない。〈教会〉の騎士として、月盾の長として、一人の男として、折れるわけにはいかない。
また、北の空のどこかで、雷鳴が哭く。
後衛で遅滞作戦を展開するヴァレンシュタイン軍が、帝国軍と小勢り合いをしているのであろう。時折、思い出したように砲声が鳴り響く。
『我ら、〈神の依り代たる十字架〉を守りし月の盾。我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん』──ミカエルはロートリンゲン家の家訓を胸に刻み、前を見た。
濁る冬空の隅で、おぼろげな冬の陽が揺れる。
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