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第四章 ぶつかり合う風

4-9 雪に呑まれた古城  ……セレン

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 雪に呑まれたその古い城は、暗く、冷たく、重苦しかった。

 雪に白む城門には、かんぬきさえかかっていなかった。この戦争が始まる以前からすでに放棄されていたであろうボフォースの城は、人の営みの気配さえ残っておらず、塔も、主郭も、城壁も、何もかもが死に絶え、朽ちていた。
 この石造りの古い城は、〈教会〉の首都である〈教皇庁〉や、その周辺の宮廷都市群とも、道中で見てきた新式の要塞とも、まるで違っていた。それは〈東からの災厄タタール〉の時代以前の、もはや絵画で描かれるだけの、旧時代の遺物だった。

 寂れた城内は、どこにいても寒かった。

 ブーツに防寒布を巻いても、足は冷たかった。聖女の儀礼用甲冑パレード・アーマーの上に外套を二枚羽織っても、体は冷たかった。手袋をし、侍従長のリーシュと手を繋いでいても、指先は冷たかった。
 何をしても悪寒は止まらず、全身が痛かった。凍傷なのではと思ったが、リーシュや軍医には、まだ凍傷ではないと言われた。

 城壁に兵が配され、主郭に指令部が設営される傍ら、従軍司祭らが城内を練り歩き、兵士たちに祝福を施す。一方、負傷兵が集められた礼拝場からは、悲痛な呻き声が漏れ聞こえてくる。

 寒さを堪えながら、セレンは城壁へ続く階段を上がった。
 重苦しい薄闇を抜けると、目の前が開け、白い風が視界を覆う。古城の城塔に掲げられた〈教会〉の十字架旗と、第六聖女の天使の錦旗が、風に揺れる。
 セレンはヨハン・ロートリンゲン元帥麾下の将軍らに挨拶を済ませると、親衛隊隊長のレア、侍従長のリーシュとともに、雪の戦場に目をやった。

 冬の風に、軍旗が揺れる。
 その風の遥か先、白い地平線上で、月盾の軍旗と黒竜旗が干戈を交える。雪煙が、硝煙が、血の赤が、雪原に舞い上がる。

 戦のことはよくわからないが、月盾騎士団ムーンシールズが不利だという声は一致していた。それでも彼らは危険を冒し、野戦に打って出た。
 勇気ある決断だった。そのときのミカエルの決然とした青い瞳は、鉄の修道騎士と称された、生前のヨハン・ロートリンゲン元帥を思い出させた。
 ただのお飾りである自分には、とても真似できない。セレンは尊敬の念をもってミカエルらに別れを告げると、その無事を祈った。
 相変わらず、自分は祈ることしかできない──それでも、セレンは祈り続けた。
 戦場において、神への祈りは、微々たる力しか持たないのかもしれない。しかしその信仰心が、ほんの少しでもミカエルらの意志の支えになればと思い、祈った。そして、最も真摯なる者と呼ばれる、自らの心を支えるために──。

 この数ヵ月で、この数週間で、この一日で、様々な事が起こった。目まぐるしく吹き荒れるその風は、冬の嵐そのものだった。

 全ての事の発端となった〈黒い安息日ブラック・サバス〉が起きたときは、まだ他人事でしかなった。
 すぐに国中で声高に報復が叫ばれ、〈第六聖女遠征〉が始まる。第六聖女のセレンは旗印に選ばれ、総帥として遠征軍を率いることになる。
 しばらくの行軍ののち、秋が終わり、冬が訪れる。
 ボルボ平原の戦いが起こり、教会遠征軍本隊の敗走が始まる。
 見知った者も、そうでない者も、多くが消えていった。同年で仲の良かった侍女のイリーナは、火矢に貫かれ絶命。同じ侍女でさらに幼いシャナロッテは、行方不明。実質的な総指揮官であったヨハン・ロートリンゲン元帥も、後日死ぬ。

 そして今日、冬の嵐が吹き荒び、セレンが成す術なく流される中、月盾騎士団ムーンシールズは乾坤一擲の攻勢に打って出た。激しい戦闘の末、ヴァレンシュタイン元帥の援兵もあって、月盾騎士団ムーンシールズら教会遠征軍本隊は勝利した。
 ボフォースの古城に待機する味方からも、大きな歓声が湧いた。初めて、それも間近で聞く勝利の雄叫びに、セレンも寒さを忘れ歓喜した。

 しかし、突如として現れた極彩色の獣が、それら全てをかき消した。

 再び、悪寒で体が凍りつく。
 雪原に浮かび上がる、一点の派手な染み。古城からでは米粒ほどにしか見えぬそれは、しかしセレンの全てを瞬く間に犯し、塗り潰し、そして支配する。
 ボルボ平原で目にして以来、眠れぬ夜の白い闇を徘徊し続ける、悪夢の元凶たる極彩色の獣。強き北風ノーサーと称される大男は、再び目の前に現れた。

 その存在を前に、セレンは膝から崩れ落ちていた。レアや親衛隊員に支えられ、何とか立ち上がったが、体は震え、雪原に視線を戻すことはできなかった。

 どれほど間、感覚が麻痺していたのだろうか──気づいたときには、戦いは終わっていた。

 〈帝国〉の黒竜旗も、極彩色の獣も、雪原から消えていた。近づいてくるのは、月盾騎士団ムーンシールズの月盾の軍旗と、ヴァレンシュタインの深海の玉座の軍旗だけだった。

 戻ってきてくれた──その感覚が、悪寒に震えるセレンの体に、少しだけ火を灯した。

 セレンはレアに抱えてもらいながら、城門へと向かった。
 ボフォースの古城へと帰還した月盾の軍旗を、兵士たちの歓声が迎え入れる。
 血と泥に塗れ、そして雪に白む月盾の騎士たち──月牙の騎士アナスタシアディス、人面甲《グロテスクマスク》の恐ろしき猛将リンドバーグ、そして古き鎖帷子くさりかたびらとサーコートの騎士ディーツらが、堂々と馬を進める。隊列の隅には、ヴァレンシュタインの元に連絡役として赴いていたアンダースもいる。
 その先頭、騎士たちを率いる月盾の長は、他の誰よりも戦塵に汚れていた。しかし馬上の姿は、誰よりも雄々しく、力強く、逞しかった。

 歓待するセレンらの前で、月盾の騎士たちが一斉に下馬し、兜を外して跪く。長つばの騎兵帽で表情は窺えないが、アンダースも隅で跪いている。
 セレンはミカエルの手を取り、立ち上がるよう促した。
 ゆっくりと立ち上がったミカエルは、微笑んでくれた。戦火を経てもなお、風に靡く金色の髪は美しく、青い瞳は澄んでいた。

 降り続く雪は、依然として深い。その色も、日に日に濃さを増している。

 戦いはまだまだ続くだろう。でも、この人と一緒なら、きっと大丈夫だ──抱いた思い、ミカエルから伝わる意志は、セレンの胸中を満たし、温もりを与えてくれた。
 それは、雪荒ぶ冬に浮かぶ、一筋の希望の道だった。
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