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第二章 燃える冬の夕景
2-4 戦塵の第六聖女② ……セレン
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開かれた馬車の扉から見えた冬の夕景は、ただただ白かった。
屋形馬車の扉が開かれ、大柄な女騎士が顔を覗かせる。
「セレン様、降りて下さい! 馬車に火が点きました!」
〈教会七聖女〉直属の護衛であり、親衛隊を率いるレア隊長が、肩で息をしながら馬車に入ってくる。その白い鎧は、うっすらと血に塗れている。
「レア……。外はどうなっているのですか……?」
「お気になさいますな! これよりは、一時的に私の馬に同乗して頂きます! 従軍司祭たちの馬車が追いつき次第、そちらに移動します! 侍従長たちも親衛隊の馬に同乗になりますので、遅れず移動を!」
レアに手を引かれるがまま、セレンは外に出た。
けたたましい戦場の狂騒が、耳を劈く。揺れる地面が、足元を震わす。火の粉をまとった粉雪が、北風に煽られ、痛いほどに顔を打つ。
馬車の天蓋からは黒煙が立ち昇っている。御者が外套を手に必死に消そうとはしているが、火の勢いは衰えない。
「イリーナ! シャナロッテ! セレン様に遅れず、ついていきなさい!」
セレンの背後で、侍従長のリーシュが若い二人を急き立てる。
セレンはシャナロッテと手を繋ぎながら、レアの鎧にしがみつき、必死に歩みを進めた。その間に周囲を見渡したが、白騎士の親衛隊の人馬が高い壁となり、セレンの目線からは何も見えなかった。
まるで、靄の中に取り残されたかのようだった。
白い靄の中は、何もかもがわからなかったが、それでも何とか状況を把握しようと、セレンは空を見上げた。
空には火が舞っていた。
燃える夕景を背に、火が粉雪が切り裂く。そして次の瞬間、それらはセレン目がけて飛んできた。
風を切り、火が哭く。刹那、レアが巨躯を翻し、セレンに覆い被さる。セレンも崩れるように身を屈める。
風が哭き止み、僅かな悲鳴と呻き声が聞こえたあと、セレンは目を開いた。セレンのすぐ後ろにいた侍女のイリーナは、仰向けに倒れていた。
イリーナの胸には、燃える矢が刺さっていた。見開いた目からは血涙が流れ、悶え苦しむたびに、口や鼻から血が噴き出た。
セレンはイリーナに駆け寄った。体に触れると、噴き出る血が顔や手に飛び散った。何か声をかけようとしたが、その前にレアに体を担ぎ上げられ、そのまま馬に乗せられた。倒れたイリーナの姿は、もう見えなくなっていた。繋いでいたシャナロッテの小さな手も離され、リーシュの姿もすぐに人混みの中に消えた。
されるがまま馬に乗ると、不意に視界が広がった。
セレンは親衛隊の人壁の向こう、〈教会〉の十字架旗を燃やす炎に目をやった。
そのとき始めて、セレンは戦場を見た。
その光景は、吟遊詩人や劇作家に語られる勇ましい物語や、絵画に描かれる雄々しき戦場とは、何もかもが違っていた。
完全な敗軍と化した教会遠征軍を、勝鬨の勢いに乗った帝国軍が追撃する。戦闘は一方的な殺戮へと変わり、至る所で無秩序な略奪と殺人が始まっている。それは紛うことなき人間同士の殺し合いであり、野獣どもによる人間狩りであった。
騎士道に則れば、勝敗が決したあとは寛容の精神を敵に示すことが慣習だった。士官階級の貴族らはもちろん、戦闘意志のない者、投降した捕虜には、相応の敬意をもって接するのが騎士の礼節である。
だが帝国軍はその殺意を緩めることなく、牙を剥き出しにして殺戮を続けている。逃げる兵士の背中を、嬉々として襲撃している。それは、捕虜を一切取らない異教徒相手の絶滅戦争、もしくは、〈黒い安息日〉で帝国軍が行ったとされる冒涜的殺戮。そして古くは、〈東からの災厄〉で〈東の王〉ら東方異民族が行ったとされる、虐殺騎行そのものだった。
遠征前、〈教会〉の首都の教皇庁で行われたパレードで、〈教会〉の最高指導者である教皇や大司教、指導部の政治家、名家の王侯貴族たちは、この〈帝国〉との戦いを〈北部再教化戦争〉と呼んだ。そしてこの〈第六聖女遠征〉で、邪悪なるグスタフ三世と〈帝国〉に正義の鉄槌を下すのだと謳って、遠征軍を送り出した。
単なる旗印とはいえ、軍の総帥として不安がなかったわけではない。しかし十五万もの大軍と、鉄の修道騎士と称されるヨハン・ロートリンゲン元帥と、叩き上げの軍人であるヴァレンシュタイン元帥の存在が、その不安を今まではかき消してくれていた。
誰もが、大軍をもって〈帝国〉を踏破するだけで勝てると言った。まともに戦えば、〈教会〉の勝利は約束されたも同然だった。自分は旗印として座っていればいいはずだった。
しかし、戦火はすぐ目の前に迫っていた。命を狩り取ろうとする炎に、一切の容赦はなかった。
これは〈教会〉という国家の威信を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉の皇帝グスタフ三世による前代未聞の蛮行、〈黒い安息日《ブラック・サバス》〉の報いを受けさせるための戦いである。それは正義の戦いであると、セレンも信じて疑わなかった。
しかしここには、大義も正義もなかった。あるのは血と炎に煽られた、殺戮の狂騒しかなかった。
レアに抱えられて馬に乗り、同伴していた侍従たちと離れると、急に不安と孤独が圧しかかってきた。
それに押し潰されまいと、セレンは人を探した。
第六聖女親衛隊は、みな必死の形相で戦っている。侍従や従軍司祭らは人波に揉まれ、右往左往している。セレンを抱えながら指揮を執るレアには、とても声をかけれる雰囲気ではない。
五千人になる第六聖女親衛隊は、明らかにその数を減らしていた。見知った顔の何人かは、地面に倒れていたり、負傷したりしていた。
矢継ぎ早に、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。そしてそれが何か理解する前に、一際けたたましい奇声が戦場に鳴り響いた。
親衛隊の人垣の向こうに、極彩色の騎馬群が浮かび上がる。炎を背に、けばけばしい極彩色は縦横無尽に歌い踊り、そして無数の矢を放つ。矢は雨となり、また空を裂く。
その極彩色の獣たちは、この戦場にいるどんな騎兵とも違っていた。無数の首を鐙にくくりつけ、古き弓馬の術を駆使するその姿は、まさに蛮族であり、多くの絵画に描かれる諸悪の根源、二百年前に〈東からの災厄〉で大陸を蹂躙した、〈東の王〉が率いた騎馬民族の出で立ちそのものであった。
「矢だ! 親衛騎士はその身を盾とし、セレン様をお守りせよ!」
レアが叫び、ハルバードを振るい、矢を叩き落とす。しかし、雨のように降り注ぐ火矢に、親衛隊の白騎士が、何人もの女騎士たちが貫かれ、地に落ちていく。
夥しい血が飛び散り、死の臭いが充満していく。
〈教会〉の十字架旗は燃え落ち、第六聖女の天使の軍旗は戦場の狂騒に汚されていく。飢えた怪物の如き奇声を上げる極彩色の獣たちは、親衛隊の前で飛ぶように馬を駆り、その色を露わにする。
それらを目にして、セレンは戦場が何たるかをようやく理解した。
目に映る全てが恐ろしかった。
セレンは震える手で馬の首にしがみつき、〈神の依代たる十字架〉に祈った──死にたくないと。
屋形馬車の扉が開かれ、大柄な女騎士が顔を覗かせる。
「セレン様、降りて下さい! 馬車に火が点きました!」
〈教会七聖女〉直属の護衛であり、親衛隊を率いるレア隊長が、肩で息をしながら馬車に入ってくる。その白い鎧は、うっすらと血に塗れている。
「レア……。外はどうなっているのですか……?」
「お気になさいますな! これよりは、一時的に私の馬に同乗して頂きます! 従軍司祭たちの馬車が追いつき次第、そちらに移動します! 侍従長たちも親衛隊の馬に同乗になりますので、遅れず移動を!」
レアに手を引かれるがまま、セレンは外に出た。
けたたましい戦場の狂騒が、耳を劈く。揺れる地面が、足元を震わす。火の粉をまとった粉雪が、北風に煽られ、痛いほどに顔を打つ。
馬車の天蓋からは黒煙が立ち昇っている。御者が外套を手に必死に消そうとはしているが、火の勢いは衰えない。
「イリーナ! シャナロッテ! セレン様に遅れず、ついていきなさい!」
セレンの背後で、侍従長のリーシュが若い二人を急き立てる。
セレンはシャナロッテと手を繋ぎながら、レアの鎧にしがみつき、必死に歩みを進めた。その間に周囲を見渡したが、白騎士の親衛隊の人馬が高い壁となり、セレンの目線からは何も見えなかった。
まるで、靄の中に取り残されたかのようだった。
白い靄の中は、何もかもがわからなかったが、それでも何とか状況を把握しようと、セレンは空を見上げた。
空には火が舞っていた。
燃える夕景を背に、火が粉雪が切り裂く。そして次の瞬間、それらはセレン目がけて飛んできた。
風を切り、火が哭く。刹那、レアが巨躯を翻し、セレンに覆い被さる。セレンも崩れるように身を屈める。
風が哭き止み、僅かな悲鳴と呻き声が聞こえたあと、セレンは目を開いた。セレンのすぐ後ろにいた侍女のイリーナは、仰向けに倒れていた。
イリーナの胸には、燃える矢が刺さっていた。見開いた目からは血涙が流れ、悶え苦しむたびに、口や鼻から血が噴き出た。
セレンはイリーナに駆け寄った。体に触れると、噴き出る血が顔や手に飛び散った。何か声をかけようとしたが、その前にレアに体を担ぎ上げられ、そのまま馬に乗せられた。倒れたイリーナの姿は、もう見えなくなっていた。繋いでいたシャナロッテの小さな手も離され、リーシュの姿もすぐに人混みの中に消えた。
されるがまま馬に乗ると、不意に視界が広がった。
セレンは親衛隊の人壁の向こう、〈教会〉の十字架旗を燃やす炎に目をやった。
そのとき始めて、セレンは戦場を見た。
その光景は、吟遊詩人や劇作家に語られる勇ましい物語や、絵画に描かれる雄々しき戦場とは、何もかもが違っていた。
完全な敗軍と化した教会遠征軍を、勝鬨の勢いに乗った帝国軍が追撃する。戦闘は一方的な殺戮へと変わり、至る所で無秩序な略奪と殺人が始まっている。それは紛うことなき人間同士の殺し合いであり、野獣どもによる人間狩りであった。
騎士道に則れば、勝敗が決したあとは寛容の精神を敵に示すことが慣習だった。士官階級の貴族らはもちろん、戦闘意志のない者、投降した捕虜には、相応の敬意をもって接するのが騎士の礼節である。
だが帝国軍はその殺意を緩めることなく、牙を剥き出しにして殺戮を続けている。逃げる兵士の背中を、嬉々として襲撃している。それは、捕虜を一切取らない異教徒相手の絶滅戦争、もしくは、〈黒い安息日〉で帝国軍が行ったとされる冒涜的殺戮。そして古くは、〈東からの災厄〉で〈東の王〉ら東方異民族が行ったとされる、虐殺騎行そのものだった。
遠征前、〈教会〉の首都の教皇庁で行われたパレードで、〈教会〉の最高指導者である教皇や大司教、指導部の政治家、名家の王侯貴族たちは、この〈帝国〉との戦いを〈北部再教化戦争〉と呼んだ。そしてこの〈第六聖女遠征〉で、邪悪なるグスタフ三世と〈帝国〉に正義の鉄槌を下すのだと謳って、遠征軍を送り出した。
単なる旗印とはいえ、軍の総帥として不安がなかったわけではない。しかし十五万もの大軍と、鉄の修道騎士と称されるヨハン・ロートリンゲン元帥と、叩き上げの軍人であるヴァレンシュタイン元帥の存在が、その不安を今まではかき消してくれていた。
誰もが、大軍をもって〈帝国〉を踏破するだけで勝てると言った。まともに戦えば、〈教会〉の勝利は約束されたも同然だった。自分は旗印として座っていればいいはずだった。
しかし、戦火はすぐ目の前に迫っていた。命を狩り取ろうとする炎に、一切の容赦はなかった。
これは〈教会〉という国家の威信を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉の皇帝グスタフ三世による前代未聞の蛮行、〈黒い安息日《ブラック・サバス》〉の報いを受けさせるための戦いである。それは正義の戦いであると、セレンも信じて疑わなかった。
しかしここには、大義も正義もなかった。あるのは血と炎に煽られた、殺戮の狂騒しかなかった。
レアに抱えられて馬に乗り、同伴していた侍従たちと離れると、急に不安と孤独が圧しかかってきた。
それに押し潰されまいと、セレンは人を探した。
第六聖女親衛隊は、みな必死の形相で戦っている。侍従や従軍司祭らは人波に揉まれ、右往左往している。セレンを抱えながら指揮を執るレアには、とても声をかけれる雰囲気ではない。
五千人になる第六聖女親衛隊は、明らかにその数を減らしていた。見知った顔の何人かは、地面に倒れていたり、負傷したりしていた。
矢継ぎ早に、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。そしてそれが何か理解する前に、一際けたたましい奇声が戦場に鳴り響いた。
親衛隊の人垣の向こうに、極彩色の騎馬群が浮かび上がる。炎を背に、けばけばしい極彩色は縦横無尽に歌い踊り、そして無数の矢を放つ。矢は雨となり、また空を裂く。
その極彩色の獣たちは、この戦場にいるどんな騎兵とも違っていた。無数の首を鐙にくくりつけ、古き弓馬の術を駆使するその姿は、まさに蛮族であり、多くの絵画に描かれる諸悪の根源、二百年前に〈東からの災厄〉で大陸を蹂躙した、〈東の王〉が率いた騎馬民族の出で立ちそのものであった。
「矢だ! 親衛騎士はその身を盾とし、セレン様をお守りせよ!」
レアが叫び、ハルバードを振るい、矢を叩き落とす。しかし、雨のように降り注ぐ火矢に、親衛隊の白騎士が、何人もの女騎士たちが貫かれ、地に落ちていく。
夥しい血が飛び散り、死の臭いが充満していく。
〈教会〉の十字架旗は燃え落ち、第六聖女の天使の軍旗は戦場の狂騒に汚されていく。飢えた怪物の如き奇声を上げる極彩色の獣たちは、親衛隊の前で飛ぶように馬を駆り、その色を露わにする。
それらを目にして、セレンは戦場が何たるかをようやく理解した。
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