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第一章 冬の訪れ
1-3 冬の遠雷 ……ミカエル
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冬の空に雷鳴が響く。
枯れた森が哭く。どこからか滲み出る燻りに、北の大地が静かに揺らぐ。色のない冬の陽は傾き始め、濁った雪雲が夕暮れの赤へと変わっていく。
夕暮れの森の中を、重々しい白い風が駆ける。
〈教会〉の十字架旗、そして月盾の軍旗が、粉雪をまとい、白む。磨き抜かれた鋼鉄の甲冑の群れ、月盾騎士団の人馬が、痩せた針葉樹の隙間を縫い、砲声轟く東へと走る。
騎士団の先頭を、ミカエルは駆けた。
冬の風は冷たく、痛かった。
馬腹を蹴るたび、将校用兜が、兜の錣から靡く髪が凍てついていく。厳めしい音を立てる板金甲冑の動きは固く、腰に佩く古めかしい直剣も酷く重い。それでも足歩は緩めなかった。
事態は予断を許さない──遠雷の先、枯れた森の向こうには、荒涼たるボルボ平原が広がり、そこを北陵街道が南北に縦断している。鳴り止まぬ砲声は、まさに教会遠征軍本隊が駐屯するボルボ平原の方角から聞こえてくる。
ミカエルはまず伝令を本隊の駐屯地に向かわせると、次いで物見を放ち、散開させていた部隊の接収を始めた。その間も、行軍は止めなかった。
しばらくして、散開していた部隊が合流する。それぞれ千人の部隊を率いる上級将校、アンドレアス・アナスタシアディスと、ジョー・ウィッチャーズが戻る。
五千騎からなる騎士団の主力が、一同に馬の轡を並べる。
「アンドレアス殿、ウィッチャーズ。二人ともすぐに合流できて何よりだ」
ミカエルの言葉に、二人の将校が敬礼する。一瞬の目配せのあと、若いアナスタシアディスがまず口を開く。
「久しく聞こえなかった音……。戦ですな」
甲冑に印された、ロートリンゲン家の外戚を示す月牙の紋章が、雪の白に煌めく。ミカエルよりもいくつか年長の月牙の騎士が、端正な目元を細め、白煙の先に目をやる。
それに続き、ウィッチャーズも、表情を変えずに同意する。
「砲声の大きさから察するに、まず小競り合いではありますまい。かなり大規模な会戦と見てよいでしょう」
ウィッチャーズは父ヨハンに取り立てられた元傭兵の騎士で、出自こそ低いが、しかし歴戦である。アナスタシアディスとは対照的な、極めて実戦的な軍装に違わず、言動にも一切の隙がない。
副官のディーツら、主要な士官を集め、状況を整理する。
斥候の動向を確認したが、情報はなかった。何かあれば本隊からも伝令が出るはずだが、そちらとも接触できていない。
「本隊からある程度独自の裁量を与えられているとはいえ、些か敵を深追いし過ぎましたかな?」
何気なく言ったであろうアナスタシアディスの言葉に、ディーツが首を横に振る。
「仮に陽動だったとしても、敵の情報が不足している以上、追撃の判断は間違ってはいなかった。それよりもミカエル様、今はヨハン元帥率いる本隊との合流です。これまでの長旅で、遠征軍は疲弊しています。ですが、我ら五千騎は未だほぼ無傷。月盾騎士団が、必ずや元帥閣下のお役に立つはずです」
力強い副官の言葉に、将校全員が頷く。ディーツはミカエルが十五歳で月盾騎士団を賜ってから五年間、常に騎士団を支えてきたロートリンゲン家の宿将である。その言葉は、この場にいる誰よりも重みがある。
部下たちはみな落ち着いていたが、形容し難い緊張もまた漂っていた。
活発に意見が交わされる中、アンダースとリンドバーグの二人だけは、終始黙っていた。
大剣を背負い、鉄塊のような甲冑を着込む人面甲のリンドバーグは、寡黙を貴ぶ武人であり、口を開かないのはいつものことだった。些か人間離れはしているが、騎士団最強の男の場合は、黙っているからこそ頼もしさがあった。
問題は弟のアンダースだった。いくら最年少の部隊指揮官とはいえ、その表情には落ち着きがなく、一人だけ明らかに浮いていた。
そんなミカエルの不安をよそに、ディーツが話を進める。
「それと、第六聖女様のことも気がかりです。いくら〈教会七聖女〉の方々が神の加護を受けているとはいえ、戦場で旗印としての役割を果たせるかは未知数です。親衛隊も五千人いるとはいえ、実戦経験の少ない儀仗兵。万が一、セレン様が恐慌状態に陥られれば、全軍の士気にも関わります」
最も真摯なる者、第六聖女セレン──ミカエルの脳裏に、十字架を奉る天使の紋章と、白銀の甲冑をまとい微笑む少女の姿が過ぎる。
齢十五にして〈教会七聖女〉の第六席を担い、今回の〈第六聖女遠征〉の総帥を務める少女は、神の代理人にして国家元首たる教皇の名代であり、また軍の旗印でもある。その天使の紋章を汚されることは、〈教会〉の顔に泥を塗られるに等しい。そして、古の伝承に従い、〈教会〉の騎士たちはみな、その身を乙女の盾として守る誓いを立てている。
すると、それまで黙っていたアンダースが、おもむろに口元をつり上げた。
「実質的な指揮官は父上だ。旗印とはいえ、聖女様の出番はないだろうし、いざとなりゃ〈神の奇跡〉だか何だかで敵を蹴散らしてくれるだろ? その秘匿されてる魔法だか何だかを知ってればの話だがな」
「アンダース! 不敬な発言は慎め!」
鼻で笑うアンダースを、ミカエルは一喝した。弟はそっぽを向き不貞腐れたが、今は構っている余裕はなかった。
「とにかく、まずは父上との合流を目指そう。本隊のいるボルボ平原に出れば、自ずと状況は把握できよう」
第六聖女セレンについては、この場でどうするべきかは判断できなかった。敵を攻めるにしろ、第六聖女を守るにしろ、それを決めるのは元帥の父である。
「先頭は私が務める。みな、迷うことなく、騎士団旗に従え」
それだけ言い、ミカエルは話を締めた。最後、ウィッチャーズが先頭を任せてほしいと言ってきたが、それは譲らなかった。
ミカエルは将校用兜を被り直すと、再度部下たちに目をやり、そして自身に言い聞かせるように唱えた。
「我ら、〈神の依り代たる十字架〉を守りし月の盾。我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん」
『高貴なる道、高貴なる勝利者』──ミカエルに続き、月盾の騎士たちがロートリンゲン家の家訓を唱える。交わされる視線、交わされる声が、ミカエルの背中を押す。
馬群が再び動き出す。十字架旗、そして月盾の軍旗が、風を切り疾駆する。
耳元を薙ぐ風切り音の隅で、雷鳴が大きくなっていく。
戦いの生む音──打ち鳴らされる剣戟と銃声が、けたたましく交わり命を削る。無慈悲に鳴り響く砲声は、兵士たちのあらゆる声色を引きちぎり、大地に死を撒き散らす。それでも、軍靴と鼓笛はその足音を止めない。
絡みつく緊張の糸を、心に燻るあらゆる迷いを振り払うべく、ミカエルは馬に拍車を入れた。
雷鳴が大きくなるとともに、枯れた森の木立が薄らぎ、視界が開けていく。
森を抜ける。雪に覆われたボルボ平原に、月盾の軍旗が躍り出る。
刹那、森の哭き声が途切れる──そして、静寂を破る者を探すように、吹き荒ぶ北風が、ミカエルの頬を薙いだ。
枯れた森が哭く。どこからか滲み出る燻りに、北の大地が静かに揺らぐ。色のない冬の陽は傾き始め、濁った雪雲が夕暮れの赤へと変わっていく。
夕暮れの森の中を、重々しい白い風が駆ける。
〈教会〉の十字架旗、そして月盾の軍旗が、粉雪をまとい、白む。磨き抜かれた鋼鉄の甲冑の群れ、月盾騎士団の人馬が、痩せた針葉樹の隙間を縫い、砲声轟く東へと走る。
騎士団の先頭を、ミカエルは駆けた。
冬の風は冷たく、痛かった。
馬腹を蹴るたび、将校用兜が、兜の錣から靡く髪が凍てついていく。厳めしい音を立てる板金甲冑の動きは固く、腰に佩く古めかしい直剣も酷く重い。それでも足歩は緩めなかった。
事態は予断を許さない──遠雷の先、枯れた森の向こうには、荒涼たるボルボ平原が広がり、そこを北陵街道が南北に縦断している。鳴り止まぬ砲声は、まさに教会遠征軍本隊が駐屯するボルボ平原の方角から聞こえてくる。
ミカエルはまず伝令を本隊の駐屯地に向かわせると、次いで物見を放ち、散開させていた部隊の接収を始めた。その間も、行軍は止めなかった。
しばらくして、散開していた部隊が合流する。それぞれ千人の部隊を率いる上級将校、アンドレアス・アナスタシアディスと、ジョー・ウィッチャーズが戻る。
五千騎からなる騎士団の主力が、一同に馬の轡を並べる。
「アンドレアス殿、ウィッチャーズ。二人ともすぐに合流できて何よりだ」
ミカエルの言葉に、二人の将校が敬礼する。一瞬の目配せのあと、若いアナスタシアディスがまず口を開く。
「久しく聞こえなかった音……。戦ですな」
甲冑に印された、ロートリンゲン家の外戚を示す月牙の紋章が、雪の白に煌めく。ミカエルよりもいくつか年長の月牙の騎士が、端正な目元を細め、白煙の先に目をやる。
それに続き、ウィッチャーズも、表情を変えずに同意する。
「砲声の大きさから察するに、まず小競り合いではありますまい。かなり大規模な会戦と見てよいでしょう」
ウィッチャーズは父ヨハンに取り立てられた元傭兵の騎士で、出自こそ低いが、しかし歴戦である。アナスタシアディスとは対照的な、極めて実戦的な軍装に違わず、言動にも一切の隙がない。
副官のディーツら、主要な士官を集め、状況を整理する。
斥候の動向を確認したが、情報はなかった。何かあれば本隊からも伝令が出るはずだが、そちらとも接触できていない。
「本隊からある程度独自の裁量を与えられているとはいえ、些か敵を深追いし過ぎましたかな?」
何気なく言ったであろうアナスタシアディスの言葉に、ディーツが首を横に振る。
「仮に陽動だったとしても、敵の情報が不足している以上、追撃の判断は間違ってはいなかった。それよりもミカエル様、今はヨハン元帥率いる本隊との合流です。これまでの長旅で、遠征軍は疲弊しています。ですが、我ら五千騎は未だほぼ無傷。月盾騎士団が、必ずや元帥閣下のお役に立つはずです」
力強い副官の言葉に、将校全員が頷く。ディーツはミカエルが十五歳で月盾騎士団を賜ってから五年間、常に騎士団を支えてきたロートリンゲン家の宿将である。その言葉は、この場にいる誰よりも重みがある。
部下たちはみな落ち着いていたが、形容し難い緊張もまた漂っていた。
活発に意見が交わされる中、アンダースとリンドバーグの二人だけは、終始黙っていた。
大剣を背負い、鉄塊のような甲冑を着込む人面甲のリンドバーグは、寡黙を貴ぶ武人であり、口を開かないのはいつものことだった。些か人間離れはしているが、騎士団最強の男の場合は、黙っているからこそ頼もしさがあった。
問題は弟のアンダースだった。いくら最年少の部隊指揮官とはいえ、その表情には落ち着きがなく、一人だけ明らかに浮いていた。
そんなミカエルの不安をよそに、ディーツが話を進める。
「それと、第六聖女様のことも気がかりです。いくら〈教会七聖女〉の方々が神の加護を受けているとはいえ、戦場で旗印としての役割を果たせるかは未知数です。親衛隊も五千人いるとはいえ、実戦経験の少ない儀仗兵。万が一、セレン様が恐慌状態に陥られれば、全軍の士気にも関わります」
最も真摯なる者、第六聖女セレン──ミカエルの脳裏に、十字架を奉る天使の紋章と、白銀の甲冑をまとい微笑む少女の姿が過ぎる。
齢十五にして〈教会七聖女〉の第六席を担い、今回の〈第六聖女遠征〉の総帥を務める少女は、神の代理人にして国家元首たる教皇の名代であり、また軍の旗印でもある。その天使の紋章を汚されることは、〈教会〉の顔に泥を塗られるに等しい。そして、古の伝承に従い、〈教会〉の騎士たちはみな、その身を乙女の盾として守る誓いを立てている。
すると、それまで黙っていたアンダースが、おもむろに口元をつり上げた。
「実質的な指揮官は父上だ。旗印とはいえ、聖女様の出番はないだろうし、いざとなりゃ〈神の奇跡〉だか何だかで敵を蹴散らしてくれるだろ? その秘匿されてる魔法だか何だかを知ってればの話だがな」
「アンダース! 不敬な発言は慎め!」
鼻で笑うアンダースを、ミカエルは一喝した。弟はそっぽを向き不貞腐れたが、今は構っている余裕はなかった。
「とにかく、まずは父上との合流を目指そう。本隊のいるボルボ平原に出れば、自ずと状況は把握できよう」
第六聖女セレンについては、この場でどうするべきかは判断できなかった。敵を攻めるにしろ、第六聖女を守るにしろ、それを決めるのは元帥の父である。
「先頭は私が務める。みな、迷うことなく、騎士団旗に従え」
それだけ言い、ミカエルは話を締めた。最後、ウィッチャーズが先頭を任せてほしいと言ってきたが、それは譲らなかった。
ミカエルは将校用兜を被り直すと、再度部下たちに目をやり、そして自身に言い聞かせるように唱えた。
「我ら、〈神の依り代たる十字架〉を守りし月の盾。我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん」
『高貴なる道、高貴なる勝利者』──ミカエルに続き、月盾の騎士たちがロートリンゲン家の家訓を唱える。交わされる視線、交わされる声が、ミカエルの背中を押す。
馬群が再び動き出す。十字架旗、そして月盾の軍旗が、風を切り疾駆する。
耳元を薙ぐ風切り音の隅で、雷鳴が大きくなっていく。
戦いの生む音──打ち鳴らされる剣戟と銃声が、けたたましく交わり命を削る。無慈悲に鳴り響く砲声は、兵士たちのあらゆる声色を引きちぎり、大地に死を撒き散らす。それでも、軍靴と鼓笛はその足音を止めない。
絡みつく緊張の糸を、心に燻るあらゆる迷いを振り払うべく、ミカエルは馬に拍車を入れた。
雷鳴が大きくなるとともに、枯れた森の木立が薄らぎ、視界が開けていく。
森を抜ける。雪に覆われたボルボ平原に、月盾の軍旗が躍り出る。
刹那、森の哭き声が途切れる──そして、静寂を破る者を探すように、吹き荒ぶ北風が、ミカエルの頬を薙いだ。
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