トラに花々

野中

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日誌・166 無礼はこれでチャラ

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「俺は頭に袋被せられて、縛り上げられたまま、コイツに腹を何度も蹴られたんだけどなあ!」

対する正嗣は、目を瞠る。息を呑んだ。
わざとらしい気配はない。
第一、演技ができる器用さなど、彼にはない。

…どうやら本当に、知らなかったらしい。

雪虎は正嗣の斜め後ろに控えていた瀬里奈を横目にした。
彼女はわずかに目を伏せたきり、微動だにしない。表情のなさは、瀬里奈の頑なさを示しているようだ。

雪虎の言葉に、秀が何かを言いさし、止めた。


「その時は、誰も止めやしなかったぞ?」


念を押すように、雪虎。
だが寸前までの、生き生きした態度は、もうない。

正嗣と違い、雪虎は殴り合いの解決の方が、心の負担が少ないのだ。こういうのは告げ口のようで落ち着かないし、気分も悪い。

足元の穂高家の青年は、その間に這って雪虎から距離を取ったが、追いかける気にもならなかった。
「…それは」
苦痛に満ちた表情で、正嗣は言い淀む。

「男ならやられっぱなしで終わるなってのが、ばあちゃんの言葉なんだよ」
不貞腐れたように、雪虎は付け加えた。

雪虎がやり返した結果、大人の世界で起きる悶着は、ばあちゃんが責任取っておさめるよ、と巴は言って、実際、何度もそうしてくれた。
雪虎にとっては、今となっては遺言だ。



「…巴さん…」



呟き、肩を落としたのは、正嗣だ。
雪虎の祖母・巴に弱かったのは、何も雪虎だけではない。
巴を知らないだろう瀬里奈は、一瞬だけ、不思議そうに夫を見上げた。

「それにさ、大将、あんたは」
雪虎は吐き捨てるように尋ねる。



「自分が俺みたいにされた時も、言えるのかよ。『復讐は何も生まない』ってキレイごと」



正嗣は、正直に言葉に詰まる。答えられないのは当然だ。

彼はそんな目に遭ったことなど一度もないのだから。すぐ、言える、と答えなかっただけ、少しは思慮深いと言えるだろう。

ふう、と一度、正嗣は深くため息をついた。身を改める。
雪虎を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「―――――横暴を止めきれなかったことは、確かに、こちらの落ち度だ」

どこか、意を決した態度になった正嗣が、頭を下げようとする気配を感じ、


「ああ、そういうのいいから」
雪虎は、退屈そうな顔で言った。無造作に正嗣に近寄る。

戸惑う正嗣の視線に、ニコリ、笑って、強く拳を握った。



「それよか、こっちのがスッキリする」

―――――ドゴッ。



正嗣のみぞおちに、正確に一発、えぐりこむ。
一拍、置いて。



声もなく崩れ落ちる正嗣。とたん、瀬里奈が初めて表情を動かした。悲鳴のような声を上げる。



「正嗣さん! …っトラ先輩、あなた…!」

しゃがみ込み、腹を押さえて前かがみになる正嗣と、夫の背に手を添えた瀬里奈を悠然と見下ろし、雪虎は鼻で笑う。



「俺に対する無礼はこれでチャラにしてやる」

「よ、くも、ぬけぬけと…っ」



憎々し気な目を向け、悔しげに唸る瀬里奈の態度に幾分か溜飲が下がった雪虎は、鼻歌交じりに庭に降りた。
誰のか知らないが、置いてあった下駄を拝借する。

敵意に満ちた視線を、瀬里奈以外にも結城家側から感じた。主を殴ったのだ。当たり前だろう。
だが、知ったことではない。少しの間、夜道に気をつければいいだけの話だ。

正嗣が本当に反省しているなら、家人を復讐には走らせないだろう。

うまいことこのまま、結城家を後にできればと思ったのだが。



「トラ」



とたん、秀に呼ばれた。となれば、立ち止まらずを得ない。
助けてもらった手前、無視はできるはずもなかった。

しかも今回の騒動、根本は雪虎の行動がきっかけに違いない。

不承不承、目を向ければ、
「…山本からだ」

スマホを差し出され、挙げられた名に、


「―――――後輩?」


雪虎は目を瞠った。




秀と浩介。意外な組み合わせ、と一瞬思って。

いや、と秀の顔を一度見直した。




(そう言えば、昔、俺が後輩を止めようとして、怪我をした時に)

確か、秀と浩介は、雪虎抜きで話をしたはずだ。その時に、二人の間で何があったか、雪虎は知らない。

…ただ、どうも、その頃からだった。




雪虎には見えないところで、この二人がつながっているように思えるときがある。

今のように。




秀だけならともかく、浩介が関わっているとなると、ますます無視はできない。
しぶしぶ、雪虎は手を伸ばし、秀からスマホを受け取った。耳に当て、

「…もしもし?」
本当に浩介だろうか、と探る声で言えば、



『―――――トラ先輩』

心底、ホッとした声が、雪虎を呼んだ。…確かに、浩介の声だ。



そう言えば、昼にいきなり攫われて行方不明になったのだ、浩介は心配しただろう。
ああ、会社は無断欠勤になったか、と無念に思いつつ、欠勤理由がこうも頻繁に誘拐だなんて人間は、世の中にそれほど多くないだろうな、と現実逃避気味に雪虎は考えた。


明日は専務の雷を覚悟しなければならないだろう。


「今日は悪かったな。昼はいきなりその、…アレだ。うん。ちょっと不可抗力なことがあってな? 明日はちゃんと会社に行くから」





『連れ去られるとき、殴られたと聞きました』

真実を言いあぐねた雪虎の言葉を先回りするように、浩介。
雪虎は言葉を止めた。





「…なんで知ってる」
『トラ先輩が戻って来なかったから、迎えに行ったんです。そしたらそこに、トラ先輩と会ってた相手がいて、一部始終を話してくれました』

―――――すっかり忘れていた雪虎は、人でなしだろうか?

大晴。
そう言えば、彼は昔から妙に、要領がいいのだ。
同じ善人でも、正嗣などとはタイプが違う。だが。

浩介のようなタイプを、普段の大晴なら、敬遠しているはずだ。逆もまた然り。

二人が顔を合わせたと聞いて、雪虎は少し眉根を寄せた。
とはいえ、浩介が何でもない物言いをしたということは、無事に会って、無事に別れたのだろう。


「はあ…アイツは、無事か?」

『はい』


雪虎は大きく息を吐きだす。
『会社へも、先輩の事情は説明していますからご心配なく』

「助かった、ありがとう。明日は倍働くから」
素直に言えば、浩介は電話向こうで小さく笑った。

『明日は…どうでしょう? しばらく休んで、一度、きちんと病院で検査を受けられては如何ですか』
…こういった時。



浩介は、一体、どの程度これからのことを予測していたのだろうか。それとも、秀から聞かされていたのだろうか?



「そんな場合かよ」

『いいんじゃないですか、たまには』
浩介はすぐ、残念そうに付け加える。





『おれも先輩の迎えに行きたかったんですが―――――他でも急用がありまして』







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