トラに花々

野中

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日誌・98 正座

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× × ×


月杜の名を叫んだ相手のことも非常に気になったが。

雪虎の今の状況では、探しに駆け出すこともできない。
逃げ回るので手一杯だ。



これは完全に失敗だったな。



暗がりを味方につけて逃げ回りながらも、早々に、雪虎は心の中で白旗を上げた。
なにせ、雪虎は考えもしなかったのだ。



―――――悠太の足がこんなに遅いなんて。



逆を言えば、雪虎の周囲にいる彼の知り合いが、大概雪虎より有能だということだ。
雪虎も、通常と比べれば、大概、運動能力が優れている部類に入るのに、その自覚が、本人にない。

ゆえにこのような弊害が、しばしば起こる。


雪虎は、みんな俺程度にはできるだろ、と間違った目算で物事を考えてしまう。


「す、すみません、トラさん、ぼくの、ことは、置いて行」
もう既に、気力だけで後ろをついてくる悠太に、
「阿呆」
雪虎はため息をついた。


「捕まったお前を見捨てられるくらいなら一緒に逃げてない」


集まった者たちは、皆、雪虎が持っている鍵が欲しいらしい。
雪虎の醜さを見せつければ、しばらくは近寄って来ないだろうという目算も外れた。
その上、競争心を無駄に煽ってしまったせいか、我先にと手を伸ばしてくる。

かろうじで捕まりはしなかったが、殴られたり引っ張られたり、痛い目にあっていた。

だが昔喧嘩を日常的にしていたおかげか、上手な殴られ方など知っているため、あまり深刻なダメージはない。
そして、視界が悪いため、獲物である雪虎の居場所が、誰もすぐにはつかめずにいた。
しかも雪虎たちの追手には、競争相手がいる。

とはいえ、雪虎は悠太を連れていた。目立つし、色々不利だ。


(犬がくるまで待てばよかったか…けどあのままでずっと見世物状態なのもな)


外国人たちが意味不明の言語で怒鳴り合っているのを聞きながら、何語だろうと頭の片隅で考える。
少なくとも、英語ではなかった。…ドイツ人、いや。もしかして、ロシア系?

なんにしたって、捕まったら終わる気がした。雪虎や悠太など一ひねりだ。思うなり。



「あ」

とうとう、悠太が足をもつれさせた。



もうスポーツバッグなど捨てればいいのに、ずっと抱えていたせいもあるのだろう。
その背に、近くにいた大柄な相手の丸太のような腕が伸びた。

雪虎の技術や力では、跳ねのけることができない。
咄嗟に、腕と悠太の間に、身を投げ出す。悠太でなく雪虎が捕まれば、まだ何とか手段はあるはずだ。

首をわし掴まれる。
力づくで引き寄せられそうになった。


「トラさん!」

とたん、悠太が叫び、直後。


草でも刈り取るように、下方から何かが跳ね上がった。多分、足。だけど誰の。
刹那。


ボキリ。

鈍い音がして、野太い悲鳴と共に、雪虎の首から手が離れる。


いつの間にか近くに駆け寄ってきていた相手が、雪虎を掴もうとした相手の腕を、折ったのだ。間髪入れず。
―――――ドスンッ。


一瞬、地が揺れたかと思った。


何が起こったのかと言えば。
雪虎を助けた人物が、不動の姿勢を崩さず。
わずかな動きで、折ったばかりの腕を、骨を中心にぐるっと回転させた。
その上で、足を払えば、腕からの流れが身体に大きく伝わり、今度は、相手の身体が回転する。


たいして力は使ったように見えないのに、魔法かと思う。


相手は、たまらず、頭を地面にたたきつけ、その場で昏倒した、…わけだが。

そういう戦い方をする人間を、雪虎はよく知っていた。
感心のままに、思わず拍手する。


「すっげー、今のどうやったんだ? もう一回、見せてくれよ、御曹司」


子供のように目を輝かせ、雪虎は現れた御子柴大河に強請った。刹那。
「トラさん」


大河は、にっこり、告げる。








「正座」

「あ、はい」











× × ×












その夜、空港裏の広大な空き地では。

余人に知られることなく、スーツの黒服たちが、黙々と、手際よく働いていた。
近くには、いわゆる護送車が何台か。

その中に次々と押し込められていくのは、国籍も雑多な外国人と、反抗的な若者たちだ。
わめいたり抵抗したりしているが、難なくいなされ、おとなしく座ることを余儀なくされている。

中には気絶している者もいた。

「ああ、そちらは出発していい。いやそこにまだスペースがあるな。ちょっと待ってろ」
最終確認をしているのは鳥飼遼だ。
御子柴一族を守る黒服たちは、一様に御子柴の親戚たちで成り立っている。

理由は一つ。御子柴一族が有する魅了の力に対する免疫があるからだ。代わりに忠誠心が高い。


「早く終わって良かったですね」


ゆえに互いに気安さがあるのか、最前線の緊張が抜ければ、和気あいあいとした雰囲気になる。一人が言えば、何人かが頷いた。
「だよな、この件、もうちょっと時間かかるかと」

「いやきれいに納めるにはそれが一番なんだけど、今回はさ」
言いさし、後片付けの真っ最中のど真ん中にいる三人を、振り向かないまま、親指で指し示した者がいる。


「八坂さんが動いたんでしょ」

「だから、早く解決する代わりに、こんな無茶苦茶になった、と」
「あ、でも久しぶりに暴れられて、大河さんもストレス発散になったんじゃ」

「うわー八坂さん、大河さんに怒られてる怒られてる」



あれ、毎回のお約束だよなーははは、と明るい笑い声が上がった。



荒事に心底慣れた、ある意味気の毒な余裕に満ちている笑いだ。
ばかにした雰囲気はない。

身内のみで通じる、親しみに満ちた空気がほのぼのと漂っていた。


「こら、そこ」


仕方なく、遼は口を挟んだ。

「無駄口を叩くな。大河さんに聴こえたらどうする」
彼らはさっと口を閉ざし、仕事のために散った。

それを見送り、遼は改めて、彼らが指さした方向を見遣る。
遼の視線の先で。



御子柴大河は、胸の前で腕を組んで立っていた。
その足元には。



不貞腐れた顔で正座した八坂雪虎。

雪虎の後ろには、彼の背中に隠れるように、スポーツバッグを抱えたやせっぽちの青年が、ちょこんと正座している。

おそらく彼が、若林悠太。
ここのところ、一番の問題であった存在。



淡々と、大河。

「なぜ真っ先に、僕に連絡を頂けなかったのでしょうか」

「犬には連絡したろ」

「僕に連絡しなかった理由です」


「怒られると思ったから」

雪虎は正直だ。大河は深くため息。


「どこのお子さまですか」


棘を潜めた丁重さで、大河が言うのを、周囲に指示を飛ばしていた遼が、一瞥した。
「あのな、言い訳するぞ? 俺は、最初は知らなかったんだよ。まさか御子柴が関わってる件に、ガリガリくんが引っかかってくるなんて」
お姫さんも何も言わなかったし。

ムスッと言った雪虎の言葉に、遼は内心、ため息をついた。


まさか、大河とさやかの分業が、このような弊害を生むとは思ってもみなかった。


「知った時には、もうヤバい連中に取り囲まれてたからさ、だったら、もう行動しようかなって」


うん、と真面目な顔で頷く雪虎。

その行動力を、是非、自制に振り分けてほしいものだ。


「トラさん」
「もういいだろ、全部片付きそうだし。死人も出てない」

「…トラさん」
大河の呼びかけには知らないふりで、雪虎はわざとらしく明るい声を上げた。


「さあ、俺は勝ち残った御曹司と取引しよう。この鍵を渡す」


雪虎は右の掌を開き、上に乗った鍵束を見せた。
「これを守ったご褒美も欲しいかな」


「……ご褒美」






どんどん、どんどん、大河の声が低くなる。








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