トラに花々

野中

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日誌・48 星空

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落ち着け。
雪虎は、努めて冷静に、自分に言い聞かせた。


周囲は真っ暗闇。

そして、耳に伝わるこの音は、―――――エンジン音。即ち。


ここは車の中、と言えそうだ。


闇で視界は効かないが、目隠しはされていない…と思う。
とはいえ、これでは周囲に何があるか分からない。

ひとまず、身体に伝わる固さからして、車内にいるわけではなさそうだ。



可能性として一番高いのは、―――――トランクの中。



雪虎は、荷物のようにそこに放り込まれている状況、という仮定が、一番現実に近い気がした。
少なくとも、周囲に誰かがいる気配はない。

そろり、音をたてないように、手足を動かそうと試みた。ゆっくり、慎重に。
周りがどうなっているかは分からないが、少し動こうとしただけでも、分かることはかなりあるものだ。

動こうとした結果、やはり、というべきか。




雪虎は拘束されていた。
手首と足首。おそらく、猿轡も噛まされている。


そして少しでも動けば固いものに当たるあたり、やはり、狭いトランクの中なのだろう。




今何が起こっていて。

これから何が起こるのか。


それを考えるには、情報が足りない。


ならば、今日自身が何をしていたかを、まずは順を追って思い出そうと、雪虎はいささか現実逃避気味に記憶をたどった。





朝。





普通に起きて、ご飯を作り、その最中にゴミ出しや、出勤の支度をした。

ご飯を食べ、洗い物を片付けて、作った弁当を片手に出勤。


普通の仕事をいつも通りにこなす。


飛び入りで特殊な仕事が入ることもなく、平和に定時で上がった雪虎は、真っ直ぐスーパーへ。
休憩時間、ちらしでチェックしていた食材を買い、日常使いの消耗品の補充を完了。


数日前の雪虎の行動と違う部分があったとすれば、通勤路だ。


原因は、先日のストーカー事件。

結果として、アパートを出なければならなくなった雪虎は、今、地元にある御子柴の支店の寮へ暫定的に入れてもらっていた。
もちろん、ずっといるつもりはない。

早めに次のアパートを見つけなければならなかった。
さやかの望むところは知っていても、祖母の家に居座る気分には、未だなれずにいる以上は。


夕飯も済み、風呂に入って、ため息をつきながら新しい部屋の検索に使ったスマホを机に置いて、―――――雪虎は就寝したはずだ。


では、眠っている雪虎を誰かが攫ったことになる。

目覚めればこの状況、だったのだから。


さっさと寝ようとベッドへ潜り込んでから、どれくらい時間が経っているのだろうか?


雪虎の立場なら、普通はパニックを起こす場面だ。

実際、冷静なようで、雪虎の心臓は早鐘を打っていた。元来が小心者だ。いやな汗もかいている。



だが震えていても、事態は改善されない。



落ち着けと何度も自身に言い聞かせつつ、雪虎は顔をしかめた。変に、頭が重い。

攫われたなら、最中に、普通は目が覚めるはずだ。それがなかったということは、


(クスリでも嗅がされたか)


一番分からないのは。



―――――なぜ雪虎なのか、ということ。



もちろん、雪虎自身にも敵は多いが、雪虎の知り合いも敵が多い者ばかりだ。
とはいえ、雪虎のようにかさばる人物の拉致を思いつき、かつ、実行するような敵となると、…候補を思いつかない。そもそも。


雪虎は醜い。



人質にすら、積極的に選びたくないほどには。



それでも、雪虎でなければならなかった理由が、攫った相手にはあるということで。

その理由を思いつかず、雪虎が眉根を寄せた拍子に。
いきなり、雪虎の身体が滑った。直後、強く頭を打ち付ける。


(痛ぇ…っ)


急ブレーキでもかけたか、と思うなり、今度は蛇行運転でもはじめたような不安定さが続いた。揺れる、揺れる。

とはいえ、これ以上、何かに頭をぶつけたり、転がったりはごめんだ。
咄嗟に身を丸める。壁の方へ背を押し付けた。

脚を突っ張って、どうにか動かないよう身体を固定。


車酔いを起こしそうな、乱暴な揺れがしばらく続き―――――。


突如、ガクン、と車が停まる。
しばらく動き出す気配もない。ホッと身体から力を抜いたのも束の間。


男の怒声と共に、いきなりトランクが開けられた。


何事かを喚く相手に、雪虎の胸倉が掴まれる。
最初に見えたのは、星空。
まだ、夜。

次いで、視界を切り裂く車のライト。

乗っていた…いや、乗せられていた車のライトではない。
位置的に、雪虎が積まれていた車の後ろにつけている車のライトだ。

闇に慣れた雪虎の目に、その白い光は痛かった。


瞬きする間もない。


雪虎は乱暴に外へ引きずり出された。そうした相手は地面―――――アスファルトの上に雪虎を放り投げる。
扱いが極端に乱雑だ。というより、まるきり、汚いものを扱う所作。

これは、雪虎の醜悪さに、うんざりしている者が見せる態度と扱い方だ。
こういうのには慣れている。
雪虎は咄嗟に受け身を取った。

とはいえ、両手両足を縛られているのだ。結局、芋虫みたいに転がったのはどうしようもない。

すぐ、雪虎の耳に、また、怒声めいた声が届いた。
そこで、気付く。これは、英語? 何を言っているのか分からないと思うのも、当然だ。

体格のいい男が数人、アスファルトの上に放り出された雪虎の周囲に立っている。その足の数から、三人と見当をつけた。

面食らった雪虎の目に、ライトの前に立つ人影が映る。正確には、誰かがそこを横切ったのだ。
ただし、光に慣れない目には眩しすぎて、誰がそこにいるのかすら分からない。

咄嗟の判断ができなかった、刹那。



―――――カチリ、いやに物騒な音が静寂に響く。次いで、





「では、さようなら」





涼やかに放たれた言葉は日本語。しかも、少女の声。
…悪いことに、その声には、聞き覚えがあった。思うなり。

軽いようで腹の底に響く音が連続して跳ね上がる。



銃声。


刹那、鼓膜が腫れたように傷んだ。



周囲で野太い悲鳴や驚きの怒号が交錯した。
合間に、誰かが倒れる音。
火薬のにおい。

音が止むなり、誰かが今度は雪虎の襟首を掴んだ。そのままズタ袋よろしく、引きずられた。
(だっから、痛ぇっての!)

胸中で罵った、刹那。





「盾にするものは選びなよ、…ねえ?」





そんな言葉が聴こえるなり、雪虎は再度、アスファルトの上に放り出された。

あまりにあまりな扱いに、目が回る。


すぐそばで聴こえたその声にも、―――――聞き覚えがあった。幸か不幸か。


それは、安堵とは真逆の本能を刺激する声だ。





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