トラに花々

野中

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日誌・7 仕事と独白

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ドアを閉め、恭也はその場でしばし佇む。

雪虎が大きく息を吐き出す気配を感じた。次いで。



ドアの向こう側、彼は鋭く息を吸い込んだ。驚いたように。



…そう言えば。
階下で、人の気配があった。知り合いか。
雪虎が舌打ちをして、階段を降りていく様子に、恭也はその場から離れた。

心当たりならある。


迎えだろう。雪虎の。


だが、いつもの男ではないようだ。あの男なら。



あんな場所まで無防備に近づいたりしない。微かに鼻を鳴らす。



誰かと交代したのか。賢明だ。腹立たしいことに。
部屋の中央へ行き、雪虎が放り投げたものを拾い上げる。無造作にポケットに入れ、今度は恭也の方が大きく息を吐きだした。



身体の熱を逃がすように。



雪虎は、恭也の全身に触れたがる。最初は戸惑った。
身体だけの関係に、愛撫が必要とは恭也には思えなかったから。

そんなふうにしなくていい、と冷めた気分で言えば、雪虎は。



―――――あんたにこんなふうに触れるのは俺だけの特権だろ。

と返して、だったら余計、味わいたいじゃないか、と当たり前のように告げた。



変わった男だ。本当に。
つまるところ、恭也に触れたい、と本気で思っているわけで。



…正直、あり得ない話だ。



恭也がどんな存在か知っているなら、なおのこと。

一人として、恭也に触れたいと思う人間は、今まで存在しなかった。
それは仕方がない。




恭也と言う存在と考えれば、突き放したい、関わりたくないと思う方が当たり前なのだ。なのに。




最初は、興味に過ぎなかった。

それが、のめり込むようになったのは、雪虎があのように言ってからだと思う。
その頃からだんだんと、雲行きが怪しくなった。―――――恭也の内面で。



雪虎が見せた表情を思い出す。



感じている顔。
怒った顔。
拗ねた顔。

いい加減スレた性格のくせに、一方で真っ直ぐなくらい真っ直ぐで、変に寛容。
そして誰に対しても、当たり前みたいに言う。



―――――ちゃんとした飯、ちゃんと食ってんのか?

ごく普通の心配を、気遣わし気に、恭也に向かっても同じように。



最初は呆れた。今では慣れた。

そして恭也がどう言っても、どう行動しても、最初から、雪虎の態度は変わらない。
一本、芯が通っている。







…本当に。

かわいい。

かわいいなあ。



本当は抱きたい。

丸裸にして丸ごと食べたい。







逢瀬の時間を性急に終わらせるのは、そう『しない』ためだ。



もし、抱いてしまったら―――――終わる、と思う。

何が、かは。うまく言えない。







ただ。『男』の部分は厄介で。
独占したくなる。
閉じ込めたくなる。
誰にも見せたくない。

内側も。外側も。


所有したい。目に見える形で。ゆえに。






行為の最中、正直、雪虎には、恭也の張り詰めた前には触れてほしくない。







幸か不幸か。
求められるのも好きだ。全身を撫でられるのも。中を穿つ感触も。

だから、抱かれるのだって悪くはない。
ただ。



―――――それだけでは解放されない男の欲望が、そのたびに、募って、会うたび…募って。






別ればかりなのに、もう会いたくてたまらない。






雪虎は、いい加減、周りを振り回すのはやめろ、と恭也に言うが、見当違いもいいところだ。
振り回しているのは、雪虎だ。

雪虎本人が、いくら生きることが息苦しいと感じているとしても。
彼は、自由であることを望んでいるから。

恭也が彼と関係を続けたいなら、現状に落とし込む必要があった。
いくら不安定に見えても。
この状況が、安全なのだ。
雪虎にとって。

本当は、もっと。
好きにできるのだ。
恭也には。

恭也は、どんな暗い欲望でも叶える手段を知っているし、使う方法も知っている。

…しない、だけで。

だがいつまで我慢できるだろう。
最近は、本当にギリギリなのだ。

この衝動はもう、ほとんど殺意や暴力に近いものになっていた。
今も。





雪虎の首に噛みつく程度では収まらず。





怒りに近い感情が蟠っているのを持て余しながら、歩き出す。

カーテンに近づき、それを静かに横に引いた。視界が開ける。と。
…窓が、開いていた。

続くベランダには。



ゴミ捨て場から拾ってきたような椅子に、座った男がいた。正確には。

…座らされた、だ。



両手両足をガムテープでくくり付けられた彼は、血の気のない顔で恭也を見上げた。

口元もガムテープでふさがれ、額から血を流し、視線がどこかおぼつかない。







―――――さあ、仕事の時間だ。







恭也は薄く微笑んだ。
「これは、なんだと思う」
嬉しそうに―――――風見恭也と名乗る殺し屋が、相手に、指でつまんで見せたもの。
それは。

椅子にくくり付けられた男の、ケータイだった。

真っ暗だった画面が、電源を押すことで明かりを宿す。
起動のための短い時間が終わるなり。

バイブ設定を施していたケータイが激しく震え始める。
上機嫌に笑んだまま、恭也がケータイを操作。―――――スピーカー設定にされたか、すぐ向こう側から、金切り声が迸った。



―――――あなた、…あなたっ? 今どこにいるの、すぐ戻って! お義母さんが…!

―――――会長ですかっ。大変です、中国の工場に火災が…規模が拡大して…っ。

―――――アメリカで弁護を任された件ですが、勝利寸前、過去の事故を掘り返され…。



一つ切るなり、次々続く着信。それらが伝えるのは、揃って。




破滅。




男の顔色を確認―――――恭也はうるさいとばかりに、またケータイの電源を切った。

「苦しむだけ苦しめてくれってクライアントの依頼だった。これで十分、だな」
決まった作業をひとつこなした、そんな態度で、もう用は済んだ、とケータイを床の上に捨てる。



恭也の顔から、表情が消えた。

整いすぎた容姿は、たちまち、人形めいた無機質なナニかに変わる。そこにいるのは。



血も。
肉も。
魂すら持たない、美しいだけの、木偶に見えた。ただ、その碧眼が。

暗がりの中、月光を吸って、不気味に光って見える。
「ああ、クライアントは昔、この部屋に住んでてアンタの強引なやり口のせいで自殺した住人の親戚だか何だからしいよ。…知りあいかな? や、知ってても忘れただろうね」
恭也は淡々と告げ、男の顔を覗き込んだ。


「悪いね。おれが何か、もうわかるだろ」


男の胸の内に、ぽっかりと穴をあけた虚無が徐々に、墨が滲むように急速に広がっていく。



知っている。

調べは、ついていた。

その時には、予感があったのだ。
自身はもう、終わりだと。

この青年は。殺し屋は。
―――――破滅の死神。




近くに存在するだけで、そばにいる相手に不幸を運ぶ。いや、不幸と言うのも生ぬるい。呼ぶのは破滅。そして、死。




彼は。
なるべくして、なったのだ。堕ちるべくして、堕ちたのだ。
闇の世界に。殺しを生業に。

こんな、―――――…こんな人間に。
男の脳裏に、先ほどカーテンの隙間から垣間見たツナギを着た人物の姿が蘇る。


…平然と、彼は触れた。この青年に。
ばかりか、いとおしむように。慈しむように。慰めるように。

愛撫を施し…挙句。
躊躇うことなく、身体をつなげた。慣れたように。




―――――正しく、狂気の沙汰だ。




仕事の対象がいる部屋で行為に及んだこの男は、それ以上に狂っている。
何を考えているか、読み取ったのだろうか。
恭也は、いきなり微笑んだ。

狂気も鮮やかな微笑。

―――――そのまま、男に一歩近づく。

いっそ優しげに告げた。





「心配しないで。すぐ、全部終わらせてあげるから」







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