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第2章
幕26 主人の命令は絶対
しおりを挟む目を離したら殺されるとでも思っていそうな様子で、白猫がオズヴァルトと見つめ合ったまま背後のクロエに呼び掛けた。とたん、
「どうしました?」
クロエの声から、いっきに感情の熱が抜ける。
淡々とした声。
淡々とした表情。
しかし猫に敬語なのがちょっとした違和感がある。
まるでうつくしいだけの人形になったような―――――それは急激な変化だった。
だがそれこそ。
―――――女帝として正しい姿だ。
「ぼっ、僕は…僕を、売るんですかあっ!?」
悲痛な声でにゃあ! と白猫は泣いたが、哀れというより、すこぶる愛らしい。
結果、あまり同情はわかず、とにかく愛でたい、そんな気にさせられる。
「売る? まさか」
クロエの言葉は端的だ。白猫が声を震わせる。
「で、ですよね、まさか使い魔を売るなんて」
ソファの上に残っていた黒猫が、びっくり眼で状況を見守っていた。
「―――――譲るのです」
クロエは乾いた声で宣言。
ぴっと固まった白猫が、紅の瞳からぽろぽろ涙をこぼし始めた。
「そんな…そんな…」
それでも、主人の命令は絶対なのか、逆らう様子はない。
目の前で吊り下げられているその姿があまりにかわいそうで、つい、その下にオズヴァルトは片手を差し伸ばす。
と、ぽん、と白猫の身体が掌の上に乗せられた。
びっくりするくらい、軽い。
小さな身体はオズヴァルトの掌の上に納まったが、小猫はふるふる震えながら顔を前脚で隠して丸くなってしまう。
これで隠れているつもりなのだろうか?
「この子の名はティムです。可愛いがって下さい」
オズヴァルトが小猫の愛らしさにいっきに参ったのを見透かした態度で、クロエは言った。
次いで、微笑む。
優し気で善意に満ちたその表情に、見惚れない者はいないだろう。
が。
行動は鬼畜だ。
クロエはきれいに微笑んでいる――――――ただ、その内心は垣間見えない。
小猫が可愛いのに異論はないが、色々指摘したいところがある。
ひとまず、言いたいだけ言ってもらおう、とオズヴァルトは黙ってクロエの言葉に耳を傾けた。
「こっちのティモと違って、素直で頑張り屋のいい子ですから、きっとオズヴァルトさまのお気に召すはず。それに、色々お役に立ちます」
オズヴァルトが反応するより先に、黒猫が賑やかな声を上げた。
「ちょっ!? ここで俺様を引き合いに出すのかよっ? その化け物の記憶になんて残りたくな―――――」
化け物。
その単語にオズヴァルトが目を向ければ、白猫とそっくりな姿勢で丸くなってしまう。
これが有名な『ごめん寝』。
…なるほど。
どうやら、猫たちの態度から察するに、オズヴァルトは彼等から恐れられているようだ。
使い魔から見れば、霊獣ヴィスリアの血を引き、今や天人となった存在など、恐怖しか抱けない相手なのかもしれない。
それに、オズヴァルトは見た目からして威圧的だ。
複雑な気分で二匹を見遣り、最後にオズヴァルトはクロエに目を向けた。
「いい子ならば、クロエのそばに置いたほうがいいのではないかね」
「わたしのそばだと毎日悲鳴を上げるので、その方がかわいそうだと前々から思っていました」
…どうやら、無情な理由でオズヴァルトへ譲ると言っているわけではないようだ。
「だが使い魔にとっては主人の元が一番だろう。気が進まない子を預かるのは気の毒だ」
「お気になさらず」
オズヴァルトの反応以外の何を気にした様子もなく、クロエはクッキーを立て続けに頬張る。
無表情の中にも、頬がわずかに綻んでいる。
おいしいと今にも叫びだしそうな表情は愛らしいが、やはり、言動の端々に『女帝』の名残をオズヴァルトは感じずにはいられない。
「使い魔にとって、主人の命令は絶対ですから」
とたん、掌の上の小猫の震えが強くなった。
かわいそうだが、つついて悪戯したい気持ちにもなる。きっとどんな反応も可愛い。
―――――小学生男子が好きな女の子を虐めたくなる気持ちとは、つまり、こういうのと似ているのだろう。
さすがに気の毒な気持ちになったオズヴァルトは、子供っぽい気持ちを抑え、クロエに小猫を返そうと、したとき。
「いけません、若さま」
ずっと黙って成り行きを見守っていたビアンカが、鋭く告げた。
「すぐ、お返しください。魔女の使い魔を受け入れたら、こちらの情報が筒抜けになります」
言葉はオズヴァルトへ向けたものだったが、間違いない。
―――――女帝クロエへ向けた台詞だ。
勇敢、であるが。
「あら」
目の前にいるクロエの顔が、質を変えた。
物騒な、刃じみたものに。
きれいな緑の双眸に宿ったのは、剃刀めいた輝き。
「その程度を恐れるのですか、名高いヴィスリアの魔人たちが?」
「…何を企んでおいでで?」
ビアンカは、直球だ。
その堂々とした声に、怯えすらにじませない。
女帝の威圧には、王すら背中を凍らせるというのに。
クロエは、突如興味を失った態度で、ふっとビアンカから視線を切った。
「企むも何も、あなたが今言ったとおりです」
そのくせ、態度はビアンカ以上に堂々としたものだ。
「オズヴァルトさまの動向を逐一報告してもらいます」
クロエは何一つ隠さなかった。彼女の物言いに、
「若さま…」
それ見たことかとばかりに、ビアンカはオズヴァルトを見た。
だが、クロエとビアンカの言葉を聞いて、オズヴァルトは、逆に、
「ならば、この子を介して、いつでもクロエと連絡が取れるということか?」
返そうと思った子猫を胸元へ引き寄せた。
そもそも、クロエに事情を知られて、何か悪いことがあるだろうか?
…ない、とオズヴァルトは思う。
クロエがオズヴァルトの行いの何を知ったところで、クロエは言いふらすことなどきっとしない。
なにせ彼女は『ご近所さんの黒江さん』なのだから。なにより。
彼女は―――――向こうの世界を知っている。
その話し相手がいることは、自身の心の慰めになるのではないだろうか。
一度、驚いたクロエは―――――ふ、と目だけで笑う。
「さすが…オズヴァルトさまは、豪胆で寛容でいらっしゃる」
寸前まで漂っていた幼いような可愛らしさが掻き消え、オズヴァルトを試すような、何かを期待しているような、妖艶な表情がクロエの顔に浮かんだ。
「よしなさい」
その目を平然と見返し、オズヴァルトは厳格な口調で言った。
「そういうことでないのは、知っているだろうに」
しょせん、今のオズヴァルトは、未だ異世界の感覚が抜けきらない平民のおじさんだ。
本音で言えば、甲羅に引っ込んだ亀のように布団の中へくるまって嵐が過ぎ去るのを待ちたい。
しかし―――――亀の甲羅に引っ込んだオズヴァルト・ゼルキアンなど。
ない。
ひとえに、オズヴァルト・ゼルキアンのメンツを保つために、彼は頑張っているだけで、やっぱり、ちょっと、つらいのだ。
「知った上で」
彼の、少しへたれなところを知っているだろうに、クロエは楽し気に言葉を紡ぐ。
「言っているのです。オズヴァルトさまは自身を過小評価しすぎですね」
オズヴァルトの言葉に、渋い顔をしたのは、ビアンカだ。
「若さま…女帝を信じるのはあまりに危険かと」
頭痛を覚えた様子で、ビアンカ。
女帝は劇薬。今まで、いくつもの国を亡ぼした魔女。
女二人、どちらの思惑にもなかった行動を、オズヴァルトは取ったようだが、
「だが、できるのならば、連絡手段として譲り受けたい。いかがかな」
女帝クロエに秘密があるのは確実だが、黒江緑は信用できる。
オズヴァルトや、その周辺を傷付けるようなことはするまい。
冬見一平に対して、黒江緑はいつも配慮してくれた。
オズヴァルトの記憶があるとはいえ、右も左もよくわからない今の彼にとって、心強い相手だと思う。
ただし勘違いしてはいけない。クロエは絶対的な味方ではない。
それが見当違いで間違いが起こったなら、それはオズヴァルトに人を見る目がなかったということ。それはその時に、責任を取ればいい。
クロエと敵対するなり、なんなりの報復で。
(かなうなら、そんなことは起こらないと信じたいが)
「であるならば、主とつながっていられて、この子も安心だろう」
オズヴァルトの言葉に、白猫ティムの耳が、ぴくっと動いた。
おそるおそる、前脚の下から顔をのぞかせる。
うるうるの涙目。
ピンク色の小さな鼻。
ぴんぴんのお鬚。
まっしろな体毛はつやつやもふもふ。触った感触など、最高である。
ふわん、から始まって、つや、すべ、もっふん。
…危険だ、一日中撫で続けても飽きそうにない。なんにしろ、
(うむ。可愛い)
思えば、オズも白かった。
あちらは狼で、格好良かったが、こういう可愛さもたまらない。
オズヴァルトはほっこりしながら、最後にもう一度念を押した。
「良いかね?」
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