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幕・188 あるべきものを、あるがままに
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三年前、一瞬で地獄と化した大地に立ち、御使い・ユリウスは目を細めた。
もうすっかり、夜が更けた。
かつて王都だった場所に、人通りはない。
ただ、昼間に訪れたなら、様子は一変する。
今はどうにか復興がはじまり、どこから手を付けていいかわからず、死んだようだった人々の顔にも、笑顔の輝きが戻り始めていた。
召喚の代償として捧げられた、荒廃しきった王都もまた、雪は降り積もっているものの、温かな人間の生活の気配があった。前向きな空気を感じる。
そこここで補修された家屋から、白いあたたかな湯気が立ち昇っていた。
何もなかった数ヶ月前までとは違い、きちんと食事がとれる程度には、食材の流通も始まっている証拠だ。
敗北当初は、皇帝が一定期間、食物の供給を止めていた。
そういう命令が下っていたのだ。
悪魔が残した影響を懸念したか、オリエス帝国への報復をする残存兵力があると考えたか。
それとも―――――ヴァレシュの国民を根絶やしにしたかったか。真相は闇の中だ。
いずれにせよ、ヴァレシュの国民は、国境から出ることもかなわず、生き残った者も飢えに苦しんだ。
皇帝の命令が思わぬほど長引く中、オリエス帝国で一人の貴族が、食物の供給のため立ち上がった。
食物の配送をした商人に「私の名を出すように」と告げたその貴族の名は。
ルシア・メレディス。
彼女の名を聞いた時、あの皇帝ですら、渋面になりながらも、こう言ったという。
―――――仕方あるまい。
どうやら、オリエス帝国では、かなり影響力を持つ貴族だったようだ。
そこからの動きは速かった。
周囲の貴族もこぞってヴァレシュへの支援をはじめ、あの計算高い宰相も国としての支援を開始。皇帝命令は撤回された。
夜、雪明りの中、特に寒さを感じないユリウスの足は、自然と広場へ向かう。
―――――あるべきものを、あるがままに。
それが楽園の方針だ。
とはいえ、夢見の力を持つ御使いたちが、いっせいに、親王レアンドロの蛮行を予知した時、さすがに動かざるを得なかった。
地獄からの悪魔の軍勢を召喚する代償となった大地が放置されたなら、結果は目に見えている。だからこそ。
楽園総意の上、御使いは、警告したのだ。当時のヴァレシュ神国、その神殿へ。
王が民と大地を代償にして、大規模な召喚を行う、と。
警告のため、神殿へ降り立った御使いは、ユリウスだった。
神官たちは、神妙な顔で聞いていた。
―――――これで大丈夫だ、と愚かにもユリウスは…いや、楽園の皆が考えた。
神官たちは、国民のために警句を広げ、彼らの逃亡のため全力を尽くすだろうと。
無論、親王レアンドロの行いということは伏せ、危機的状況が訪れるため、いっとき、王都から逃れるよう、ひそやかな話し合いが進められるはず、と。
正直、難しい話ではあった。
御使いが降り立ち、警告したことを伏せ、悪魔の軍勢を召還する代償として捧げられるだろう範囲内にいた民を、王室に知られず、その外側へ誘導するなど。
それでも、為されると信じていた。
神官とは、慈愛の心を持つ、奉仕の人なのだから。
御使いたちは、もう大丈夫だ、と待った。ことが為され得るという確信と安心の中で。
…そして。
―――――神官たちは逃亡した。
民には何も告げず、自分たちだけ。
御使いの警句を聴くことができたのは、神官である者だからこその特権であり、他など知ったことかとばかりに。
もぬけの殻になったのは、神殿だけだ。
あとの人々は何も知らず――――――その瞬間は訪れた。
広場にたどり着いたユリウスは、噴水を覗き込む。
枯れ果てていたそこは水で満たされていたが、今は静かに固く凍り付いている。
何もかも失い、見捨てられたこの地に、実際的な救いの手を差し伸べたのは、
(魔竜、ただひとり)
救われた者たちが、彼に感謝し、信仰に近い気持ちを持つのは、当然だろう。
ゆえに、だろうか、旧ヴァレシュ神国の領土に、神殿は建っていない。
心のよりどころの象徴に神殿は不足だと、民がそれを拒絶したのだ。代わりに。
数少ない資源を使い、旧ヴァレシュ神国の民は、魔竜の像を建立した。
広場の噴水の上を見上げれば。
小さな魔竜の石像が、ちょこんと座していた。
周囲を見守るようで、不思議と愛らしいその姿は、幼子にも人気があり、拙いながらも真剣な顔で、祈る子らの姿を見かけるたび、ユリウスはやるせない心地になる。
―――――もしもあの時、もう少し自分が、巧く立ち回れていたなら、と。
膨大な犠牲が出たあの刹那を思い出すたび、ユリウスは。
一瞬で、顔色が蒼白になった。胸が苦しくなる。咄嗟に、前かがみになった。
胸元を強く掴みしめる。痛い。
心臓を刺し貫かれるような痛みに、荒い息を吐きながら、ユリウスはしまっていた翼を広げた。慌てて広場を後にする。
オリエス帝国北部へ来たのは、聖女に挨拶をするためだ。
ユリウスは時折、彼女の様子を見に、オリエス帝国の北部へ降りていた。
そのたびに、どうしてもヴァレシュの地を訪れてしまう。
(それにしても、聖女は…あれで、大丈夫だろうか)
あのようなことがあったというのに、…なぜだろう。
逆に、皇帝への執着が増している気がする。
同程度に、魔竜への感情が、毛嫌いを通り越し、憎悪に代わっているような。
聖女エミリア・ハートネットは、ユリウスが見る限り、基本的に理性的な人物のはずだ。にもかかわらず。
(何か、別のものに操られているような…)
しかし、聖女は聖女である。怪しい術が通じるはずはなかった。では問題があるとすれば。
(聖女の魂の本質、か?)
だとすれば、本人が克服するほかすべはない。
なんにしろ、今の聖女は危うかった。
皇帝に会うためならば、もしくは、魔竜を始末できるのならば、…何でもしてしまうそうな雰囲気がある。
まるでただの十代の娘だ。
せめてもの救いは、彼女が修道院に閉じ込められている点だろう。
皇帝の命令は如何に彼女とて、無視できるものではない。
(…修道院で少し頭を冷やせば、正気に戻るだろう)
かつてオリエス帝国とヴァレシュ神国の国境であった場所へ降り立ち、ユリウスは頭を横に振った。
ユリウスにできることは、思い悩むことだけだ。
本当に、悔しく、情けない話だった。
三年前、一瞬で地獄と化した大地に立ち、御使い・ユリウスは目を細めた。
もうすっかり、夜が更けた。
かつて王都だった場所に、人通りはない。
ただ、昼間に訪れたなら、様子は一変する。
今はどうにか復興がはじまり、どこから手を付けていいかわからず、死んだようだった人々の顔にも、笑顔の輝きが戻り始めていた。
召喚の代償として捧げられた、荒廃しきった王都もまた、雪は降り積もっているものの、温かな人間の生活の気配があった。前向きな空気を感じる。
そこここで補修された家屋から、白いあたたかな湯気が立ち昇っていた。
何もなかった数ヶ月前までとは違い、きちんと食事がとれる程度には、食材の流通も始まっている証拠だ。
敗北当初は、皇帝が一定期間、食物の供給を止めていた。
そういう命令が下っていたのだ。
悪魔が残した影響を懸念したか、オリエス帝国への報復をする残存兵力があると考えたか。
それとも―――――ヴァレシュの国民を根絶やしにしたかったか。真相は闇の中だ。
いずれにせよ、ヴァレシュの国民は、国境から出ることもかなわず、生き残った者も飢えに苦しんだ。
皇帝の命令が思わぬほど長引く中、オリエス帝国で一人の貴族が、食物の供給のため立ち上がった。
食物の配送をした商人に「私の名を出すように」と告げたその貴族の名は。
ルシア・メレディス。
彼女の名を聞いた時、あの皇帝ですら、渋面になりながらも、こう言ったという。
―――――仕方あるまい。
どうやら、オリエス帝国では、かなり影響力を持つ貴族だったようだ。
そこからの動きは速かった。
周囲の貴族もこぞってヴァレシュへの支援をはじめ、あの計算高い宰相も国としての支援を開始。皇帝命令は撤回された。
夜、雪明りの中、特に寒さを感じないユリウスの足は、自然と広場へ向かう。
―――――あるべきものを、あるがままに。
それが楽園の方針だ。
とはいえ、夢見の力を持つ御使いたちが、いっせいに、親王レアンドロの蛮行を予知した時、さすがに動かざるを得なかった。
地獄からの悪魔の軍勢を召喚する代償となった大地が放置されたなら、結果は目に見えている。だからこそ。
楽園総意の上、御使いは、警告したのだ。当時のヴァレシュ神国、その神殿へ。
王が民と大地を代償にして、大規模な召喚を行う、と。
警告のため、神殿へ降り立った御使いは、ユリウスだった。
神官たちは、神妙な顔で聞いていた。
―――――これで大丈夫だ、と愚かにもユリウスは…いや、楽園の皆が考えた。
神官たちは、国民のために警句を広げ、彼らの逃亡のため全力を尽くすだろうと。
無論、親王レアンドロの行いということは伏せ、危機的状況が訪れるため、いっとき、王都から逃れるよう、ひそやかな話し合いが進められるはず、と。
正直、難しい話ではあった。
御使いが降り立ち、警告したことを伏せ、悪魔の軍勢を召還する代償として捧げられるだろう範囲内にいた民を、王室に知られず、その外側へ誘導するなど。
それでも、為されると信じていた。
神官とは、慈愛の心を持つ、奉仕の人なのだから。
御使いたちは、もう大丈夫だ、と待った。ことが為され得るという確信と安心の中で。
…そして。
―――――神官たちは逃亡した。
民には何も告げず、自分たちだけ。
御使いの警句を聴くことができたのは、神官である者だからこその特権であり、他など知ったことかとばかりに。
もぬけの殻になったのは、神殿だけだ。
あとの人々は何も知らず――――――その瞬間は訪れた。
広場にたどり着いたユリウスは、噴水を覗き込む。
枯れ果てていたそこは水で満たされていたが、今は静かに固く凍り付いている。
何もかも失い、見捨てられたこの地に、実際的な救いの手を差し伸べたのは、
(魔竜、ただひとり)
救われた者たちが、彼に感謝し、信仰に近い気持ちを持つのは、当然だろう。
ゆえに、だろうか、旧ヴァレシュ神国の領土に、神殿は建っていない。
心のよりどころの象徴に神殿は不足だと、民がそれを拒絶したのだ。代わりに。
数少ない資源を使い、旧ヴァレシュ神国の民は、魔竜の像を建立した。
広場の噴水の上を見上げれば。
小さな魔竜の石像が、ちょこんと座していた。
周囲を見守るようで、不思議と愛らしいその姿は、幼子にも人気があり、拙いながらも真剣な顔で、祈る子らの姿を見かけるたび、ユリウスはやるせない心地になる。
―――――もしもあの時、もう少し自分が、巧く立ち回れていたなら、と。
膨大な犠牲が出たあの刹那を思い出すたび、ユリウスは。
一瞬で、顔色が蒼白になった。胸が苦しくなる。咄嗟に、前かがみになった。
胸元を強く掴みしめる。痛い。
心臓を刺し貫かれるような痛みに、荒い息を吐きながら、ユリウスはしまっていた翼を広げた。慌てて広場を後にする。
オリエス帝国北部へ来たのは、聖女に挨拶をするためだ。
ユリウスは時折、彼女の様子を見に、オリエス帝国の北部へ降りていた。
そのたびに、どうしてもヴァレシュの地を訪れてしまう。
(それにしても、聖女は…あれで、大丈夫だろうか)
あのようなことがあったというのに、…なぜだろう。
逆に、皇帝への執着が増している気がする。
同程度に、魔竜への感情が、毛嫌いを通り越し、憎悪に代わっているような。
聖女エミリア・ハートネットは、ユリウスが見る限り、基本的に理性的な人物のはずだ。にもかかわらず。
(何か、別のものに操られているような…)
しかし、聖女は聖女である。怪しい術が通じるはずはなかった。では問題があるとすれば。
(聖女の魂の本質、か?)
だとすれば、本人が克服するほかすべはない。
なんにしろ、今の聖女は危うかった。
皇帝に会うためならば、もしくは、魔竜を始末できるのならば、…何でもしてしまうそうな雰囲気がある。
まるでただの十代の娘だ。
せめてもの救いは、彼女が修道院に閉じ込められている点だろう。
皇帝の命令は如何に彼女とて、無視できるものではない。
(…修道院で少し頭を冷やせば、正気に戻るだろう)
かつてオリエス帝国とヴァレシュ神国の国境であった場所へ降り立ち、ユリウスは頭を横に振った。
ユリウスにできることは、思い悩むことだけだ。
本当に、悔しく、情けない話だった。
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