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幕・159 骨抜き
しおりを挟む「ヒューゴさん…いや、ご主人さまならさっき、二階に…」
言いさしたエイダンは、目尻に浮かんだ涙を拭って、クレトが焦っている理由を察した。
「あ、これは、すみません」
慌てて目をごしごし。
「ただ、嬉しくて」
「うううう嬉しいだと??」
「なにせ、ドワーフの仕事なんて滅多に見られるものではないので!」
「…………それが?」
クレトは呆気にとられたようだ。エイダンが何を言いたいのか、彼には純粋に分からない。
この感動を、どう説明すべきかと悩むエイダン。
「少なくとも、ぼくには、機会が今まで一度もありませんでした。だから、その仕事を見られるなんて、とても感動して!」
薪割はあとでエイダンでもできる。クレトには別のことを頼みたい。そう、彼にしかできないことを。
「そう、か?」
まだよくわからないようで、クレトはさらに大きく首を傾げる。
それでも、エイダンの顔に笑顔が戻ったから、それ以上は気にしないことにしたようだ。
閃いたエイダンは、にこにこと笑顔になって提案。
「実は、この屋敷の扉とか、家具で、壊れてるところが色々あるんです」
握り拳になって、大きく頷いた。
それらを、皆でぼちぼち直して行こうね、と話し合ったのはつい先日のことだ。
玄人ではないから、素人仕事丸出しになるだろうが、壊れているよりましなはず。
それで我慢しようとしていたところを、ドワーフが手掛けてくれたなら、最高ではないだろうか。
魔竜が住むという場所であるだけに、へたに職人を呼べないのだ。
「できれば、それを見て、いいように直して頂けると助かるんですが」
こういうのをエイダンが独断でお願いしてもいいものだろうか。悩みながら、クレトにお伺いを立てる。
「クレトさんのお手を煩わせるのは非常に申し訳ないのですが」
「ええい、それを早く言わんか!」
壊れているものがある、聞くなり、クレトは目を輝かせ、全身から闘志を噴き上げた。
「どこだ! どこだ!! 壊れているとはいったいどの程度、どの規模だ!」
もうじっとしていられないとばかりに、クレトは駆け出す。
「え、クレトさん!?」
面食らうエイダンを置き去りに、途中ですれ違った侍従の腕を引っ張り、強制的に案内させはじめた。
引き留めることもできず、エイダンは呆然と見送る。
クレトともう一人、ファビオというドワーフが屋敷にはいた。
ただ、ファビオは体調が悪いらしく、あまり部屋から出てこない。
彼らは、屋敷の片づけ中、ヒューゴが突然連れてきた。
彼が言うには、二人は故郷へ帰る予定だが、それを邪魔するものがいるため、無事に皇都を出立する準備ができるまで、匿ってあげたいということだった。
そこで、主人からはじめての任務が、使用人たちに言い渡された。
曰く―――――彼らを人間嫌いのまま帰さないこと。
主人たるヒューゴの笑顔を思い出したエイダンは、我に返って、また階段の上を見上げた。
クレトへのお願いは、ヒューゴのことだ、エイダンの勝手を笑って許してくれるだろうが。
またすぐ出かける、と言って、ヒューゴは二階に上がったきり、降りてこない。
なかなか屋敷に帰宅すらしない主人の様子に、エイダンはちょっとした危惧を抱いていた。
(近々陛下について北方へ向かうって話もあるし…)
エイダンの危惧とは。
このままでは、グラムス邸が、本当に、名ばかりになってしまうということだ。
ヒューゴは掃除や片付けの時には手伝いのために顔を出したものの、むしろ一通りきれいに整ってからはもう現れない気もしていた。
それではいけないとエイダンは思う。
屋敷とは、主人がいてこそ機能するのだ。
グラムス邸には厨房もある。
専ら使用人用として使われそうだが、用意される食材は本来、主人のものだ。
一度も主人のために調理する機会がないのは、残念である。
そう思うからこそ、エイダンは階段の下で、ヒューゴが降りてくるのを待っていた。
せめて、今日、ちょっとでも屋敷で夕食を食べていってはどうだろうか、と提案するためだ。
ところが。
夕暮れ時、闇が濃くなって来た頃。
ようやく、階段を誰かが降りてくる気配に、笑顔で顔を上げたエイダンは。
その表情のまま、固まってしまう。
「…エイダン?」
そうっと、小動物の頭でも撫でるような口調で放たれたのは、女性の声だ。
エイダンがこぼれ落ちそうなほど瞠った、大きな鳶色の瞳に映っているのは。
心配そうな表情で、階段の途中で立ち止まる、―――――…現実の存在とは思えないほどうつくしい女性。
抜けるように白い肌。
それを際立たせる漆黒の髪。
暗い色合いのドレス。
豊かな胸と、蜂のようにくびれた腰。
エイダンが、これほどうつくしい女性を見たのは、生まれて初めてだった。
長いまつ毛に縁どられた印象的な濃紺の瞳が、憂いを帯びてエイダンを見下ろしている。
「どうしたのですか、先ほどと同じところで立ち尽くして。何か問題がありましたか」
彼女は優雅に、それでいて心持ち急いだ様子で階段を降りてきた。
コツ、コツ。
どこか慎ましいヒールの音を聞いて、エイダンは我に返る。
これは、現実だ。
「え、あの」
見知らぬ女性、そしていつやって来たのか、という疑問を抱くより先に、美貌に圧倒され、一歩下がる。
見知らぬ―――――いや、知らないはずだが、どこかで見た心地にもなって、エイダンは戸惑った。
どうも、警戒心が湧かない。
骨抜きにされるとはこういう心地のことだろうか。
「も、んだいは、何も、ありません。ただ、ご主人さまを、待っておりまして」
ご主人さま。
言うなり、少し、呪縛に似た衝撃が解けた心地になる。
そうだ、エイダンはヒューゴを待っているのだ。
だが、この女性は誰だろう? 客人ならもてなさねばならないが―――――…。
客が来るとは誰からも聞いていない。
しかし、これほどの女性が、勝手に忍び込んだとも思えなければ、この屋敷に対して彼女がそこまでする価値があるとも思えない。
勿論エイダンは、グラムス邸に勤められることを誇りに思ってはいるけれど。
「そうだったのですね」
問題がないならよかった、と彼女は、心から安心したようにゆったりと微笑む。
たちまち溢れた柔和な優しさに、エイダンは胸を射抜かれる心地になった。
「ですが、すぐ出かける用事があって、…そのまま皇宮へ直帰になるかと思います」
その台詞に、エイダンは内心首を傾げる。
会話が、通じ合っているようで、通じ合っていない気がしたのだ。
エイダンが言ったのは、ヒューゴのことである。彼女の予定ではない。
それとも、彼女の予定を語ったようだが、実はヒューゴのことを言っているのだろうか?
微笑は、どこまでも妖艶―――――とたんに場が明るく照らされた心地になった。
しかも彼女の妖艶さは、色香よりも上品な優雅さを強調する。
―――――負けた。
いや、なんの勝負もしていないのだが、エイダンはもう、全力で敗北した。
心地よいとすら思える、手も足も出ない感覚に浸りながら、おそるおそる尋ねる。
「…その、ご主人さまは、もうお出かけになられたということですか?」
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