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幕・134 とびきりの変数
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「お引止めして、申し訳ございません」
消耗しきった表情の外務と財務の大臣を尻目に、同席していたリュクスはルシアに対し、丁重に言葉をかける。
リュクスの、ルシアへの態度は、終始一貫して丁寧だ。
ヒューゴの時とは雲泥の差。
ヒューゴとルシアが同一人物であることを承知で、リュクスは二人を別人として扱う。
それは昔から変わらない。
―――――その気持ちも、分からないでもなかった。
理由を語るには、リュクスの過去を説明する必要がある。
リュクス・ノディエという子供は―――――今や、他国が恐怖の対象とし、国内でも恐れを抱かれる存在へと成長した彼は、数多の官僚を輩出した天才と名高い名門ノディエ家に生まれながら、父にも母にも疎まれた子だった。
疎んじられた、と言っても、正確に言うならば。
―――――リュクスの才能が過ぎたものだったのだ。
残念ながら、父親も母親も、彼自身を理解できず、ただリュクスの才能だけは理解した。
そして才能に嫉妬はつきものである。
父親は息子の才に嫉妬し、母親は子供らしくない息子をどのように愛せばいいのか分からなかった。
結局のところ、リュクスとその両親は、互いに距離を置くことでしか、家族としての体面を保てなかった。他の兄弟たちもそうだった。
家族との溝が開く一方で、リュクスは、権威あるアカデミーに勤める、ある有名な教授の手によって、高い塔のてっぺんから突き落とされることになる。
あとで聞いたところによると、その教授が長年悩んでいた研究の解を、リュクスが作業を一瞥しただけで解いてしまったからだと聞いたが、どこからどこまでが本当かはヒューゴも知らない。ただ。
―――――話が通じる人だと思って、話し過ぎたんだ。
ぽつりと言ったリュクスの表情は、気の毒なほど暗かった。
彼が突き落とされた塔は、峡谷の真上にあった。
その時、リュクスは木の枝に引っ掛かって、からくも命を守った。だが、それも時間の問題だった。
リュクスは木から降りることができなかったからだ。なぜなら、その木は崖の中途にあった。
そして、下は川。激しい渓流だった。
しかし、ずっとぶら下がっていても、誰かが鳥のように飛んできてくれるわけでもない。
リュクスは、すぐ、決断した。渓流へ飛び込むことを。
ただ彼から見ても、死ぬ確率の方が高かったようだ。
その行動力は勇気か蛮勇か、はたまたやけっぱちだったのか。
いずれにせよ、計算内にはないとびきりの変数が、リュクスが飛び込んだ渓流のそばに『いた』。
それが、リヒトとヒューゴだ。
彼らは渓流の水で、血を洗い流していた。
それはまだ、リヒトが十二歳の時だったと記憶している。
辺境の小競り合いの戦に駆り出されたのだ。
他の皇子は皇宮でぬくぬくと暮らしているのに。
いずれにせよ、それがリヒトの初陣だった。
軍隊には置いて行かれたが、彼らが戻る場所は皇宮以外にはない。
そして皇宮へ帰るためには、ノディエ領内を横切る必要があった。
その際、例によって放たれていた暗殺者とやり合って、血を浴びた。
人目を避けて移動し、二人が渓流で血を洗い流していた時、上から何かが降ってきた―――――それが、リュクスだったのだ。
リヒトは無視しろ、と言った。
困ったヒューゴは、とりあえず飛び込み、渓流の中からリュクスを拾い上げてリヒトの元へ戻った。
激流の中できりもみされたにもかかわらず、リュクスには意識があった。
逞しいなとヒューゴが感心する中で、リュクスは、生きていたか、と残念そうに言うリヒトを指さし、怒鳴った。
―――――さっき、助けるなって言ったっ!? この人でなし!!
―――――ああ、人間ではないな。皇族だとも。
これが、リュクスとの出会い。
リヒトとリュクスはそれ以前からの知り合いで、幼馴染と言える立場だったようだが、この時まで、それほどお互いを意識したことはなかったようなのだが。
折角拾ったからには、有効に活用したい、と考えたヒューゴはノディエ家の人間と聞いて、ある提案をした。
―――――縁だし、お家に帰っても殺そうとするヤツがいるなら、一旦、リヒトの宮殿にくれば? 勉強教えるって名目で。
何気ないこの日のヒューゴの提案が、未来の宰相閣下を生むとは、この時は誰も想像もしていなかったけれど。
両親と縁の薄いリュクスは、大人としての庇護を与えたルシアを、母のように姉のように慕っている。
計算高いこの男にしては珍しく、ルシアへの態度は子供のように素直だった。
(ルシア・メレディスを生み出すきっかけになったのは、リヒトたち子供には大人の庇護がやっぱり必要だよなって俺が思ったからなんだけど)
リュクスの反応は、ヒューゴにも予想外だった。
(悪魔に家族は会わせないって言ったのに、ルシアには結婚の報告に来たし)
故に一応、ヒューゴはリュクスの奥方の顔を知っている。ちいさく可愛らしい女性だ。
かつて、ヒューゴがメレディス男爵に目を付けたのは、人嫌いで偏屈で、宝石を全身にじゃらじゃらつけた、有能ではあってもクズのような人間と言うのに、リヒトのことを繊細に気にかけていることに気付いたからだ。
最初は素直に答えなかったが、彼には、苦しかった時代、リヒトの母親に受けた恩があったらしい。
ゆえに、リヒトに対する周囲の冷遇に、彼は酷く腹を立てていた。
―――――リヒトのためになりたいのなら、とヒューゴは取引を持ち掛けた。
もう一度、妻を迎えませんか? と。
あけすけに言うなら、膣も子宮も備えていない、絵に描いた餅同然の、形だけの『女』にすぎないから、後継者問題が深刻になることもない。
無論、彼は渋った。渋ったが、自身の財産の幾許かをじょうずにリヒトへ捧げる方法を特に思いつけなかった不器用な彼は、結局、ヒューゴの言葉に乗った。
偏屈なくせに、一部が、変に純情な老人だった。
ヒューゴに、女性名の『ルシア』を名乗れと言ったのも、彼だ。
聞けば、最初の子供の名前で、不幸な事故で亡くなったようだ。
ヒューゴとしても、さすがに『ミサキ』の名を口にするのは遠慮したかったから、ちょうどいい提案だった。
そんな成り行きで生まれたルシアだが。
未だ、妙な権力を社交界で発揮している。
それを見込んでの、今回のリュクスのお願いだったのだろうが。
「帝国のためなら、喜んで」
気遣うようなリュクスに、あえてルシア・メレディスとして、輝くような微笑を返した。
年若い大臣たちがいっきに癒されたような表情になるのを尻目に、リュクスは生真面目に頷く。
「はい、すべては帝国のために」
「お引止めして、申し訳ございません」
消耗しきった表情の外務と財務の大臣を尻目に、同席していたリュクスはルシアに対し、丁重に言葉をかける。
リュクスの、ルシアへの態度は、終始一貫して丁寧だ。
ヒューゴの時とは雲泥の差。
ヒューゴとルシアが同一人物であることを承知で、リュクスは二人を別人として扱う。
それは昔から変わらない。
―――――その気持ちも、分からないでもなかった。
理由を語るには、リュクスの過去を説明する必要がある。
リュクス・ノディエという子供は―――――今や、他国が恐怖の対象とし、国内でも恐れを抱かれる存在へと成長した彼は、数多の官僚を輩出した天才と名高い名門ノディエ家に生まれながら、父にも母にも疎まれた子だった。
疎んじられた、と言っても、正確に言うならば。
―――――リュクスの才能が過ぎたものだったのだ。
残念ながら、父親も母親も、彼自身を理解できず、ただリュクスの才能だけは理解した。
そして才能に嫉妬はつきものである。
父親は息子の才に嫉妬し、母親は子供らしくない息子をどのように愛せばいいのか分からなかった。
結局のところ、リュクスとその両親は、互いに距離を置くことでしか、家族としての体面を保てなかった。他の兄弟たちもそうだった。
家族との溝が開く一方で、リュクスは、権威あるアカデミーに勤める、ある有名な教授の手によって、高い塔のてっぺんから突き落とされることになる。
あとで聞いたところによると、その教授が長年悩んでいた研究の解を、リュクスが作業を一瞥しただけで解いてしまったからだと聞いたが、どこからどこまでが本当かはヒューゴも知らない。ただ。
―――――話が通じる人だと思って、話し過ぎたんだ。
ぽつりと言ったリュクスの表情は、気の毒なほど暗かった。
彼が突き落とされた塔は、峡谷の真上にあった。
その時、リュクスは木の枝に引っ掛かって、からくも命を守った。だが、それも時間の問題だった。
リュクスは木から降りることができなかったからだ。なぜなら、その木は崖の中途にあった。
そして、下は川。激しい渓流だった。
しかし、ずっとぶら下がっていても、誰かが鳥のように飛んできてくれるわけでもない。
リュクスは、すぐ、決断した。渓流へ飛び込むことを。
ただ彼から見ても、死ぬ確率の方が高かったようだ。
その行動力は勇気か蛮勇か、はたまたやけっぱちだったのか。
いずれにせよ、計算内にはないとびきりの変数が、リュクスが飛び込んだ渓流のそばに『いた』。
それが、リヒトとヒューゴだ。
彼らは渓流の水で、血を洗い流していた。
それはまだ、リヒトが十二歳の時だったと記憶している。
辺境の小競り合いの戦に駆り出されたのだ。
他の皇子は皇宮でぬくぬくと暮らしているのに。
いずれにせよ、それがリヒトの初陣だった。
軍隊には置いて行かれたが、彼らが戻る場所は皇宮以外にはない。
そして皇宮へ帰るためには、ノディエ領内を横切る必要があった。
その際、例によって放たれていた暗殺者とやり合って、血を浴びた。
人目を避けて移動し、二人が渓流で血を洗い流していた時、上から何かが降ってきた―――――それが、リュクスだったのだ。
リヒトは無視しろ、と言った。
困ったヒューゴは、とりあえず飛び込み、渓流の中からリュクスを拾い上げてリヒトの元へ戻った。
激流の中できりもみされたにもかかわらず、リュクスには意識があった。
逞しいなとヒューゴが感心する中で、リュクスは、生きていたか、と残念そうに言うリヒトを指さし、怒鳴った。
―――――さっき、助けるなって言ったっ!? この人でなし!!
―――――ああ、人間ではないな。皇族だとも。
これが、リュクスとの出会い。
リヒトとリュクスはそれ以前からの知り合いで、幼馴染と言える立場だったようだが、この時まで、それほどお互いを意識したことはなかったようなのだが。
折角拾ったからには、有効に活用したい、と考えたヒューゴはノディエ家の人間と聞いて、ある提案をした。
―――――縁だし、お家に帰っても殺そうとするヤツがいるなら、一旦、リヒトの宮殿にくれば? 勉強教えるって名目で。
何気ないこの日のヒューゴの提案が、未来の宰相閣下を生むとは、この時は誰も想像もしていなかったけれど。
両親と縁の薄いリュクスは、大人としての庇護を与えたルシアを、母のように姉のように慕っている。
計算高いこの男にしては珍しく、ルシアへの態度は子供のように素直だった。
(ルシア・メレディスを生み出すきっかけになったのは、リヒトたち子供には大人の庇護がやっぱり必要だよなって俺が思ったからなんだけど)
リュクスの反応は、ヒューゴにも予想外だった。
(悪魔に家族は会わせないって言ったのに、ルシアには結婚の報告に来たし)
故に一応、ヒューゴはリュクスの奥方の顔を知っている。ちいさく可愛らしい女性だ。
かつて、ヒューゴがメレディス男爵に目を付けたのは、人嫌いで偏屈で、宝石を全身にじゃらじゃらつけた、有能ではあってもクズのような人間と言うのに、リヒトのことを繊細に気にかけていることに気付いたからだ。
最初は素直に答えなかったが、彼には、苦しかった時代、リヒトの母親に受けた恩があったらしい。
ゆえに、リヒトに対する周囲の冷遇に、彼は酷く腹を立てていた。
―――――リヒトのためになりたいのなら、とヒューゴは取引を持ち掛けた。
もう一度、妻を迎えませんか? と。
あけすけに言うなら、膣も子宮も備えていない、絵に描いた餅同然の、形だけの『女』にすぎないから、後継者問題が深刻になることもない。
無論、彼は渋った。渋ったが、自身の財産の幾許かをじょうずにリヒトへ捧げる方法を特に思いつけなかった不器用な彼は、結局、ヒューゴの言葉に乗った。
偏屈なくせに、一部が、変に純情な老人だった。
ヒューゴに、女性名の『ルシア』を名乗れと言ったのも、彼だ。
聞けば、最初の子供の名前で、不幸な事故で亡くなったようだ。
ヒューゴとしても、さすがに『ミサキ』の名を口にするのは遠慮したかったから、ちょうどいい提案だった。
そんな成り行きで生まれたルシアだが。
未だ、妙な権力を社交界で発揮している。
それを見込んでの、今回のリュクスのお願いだったのだろうが。
「帝国のためなら、喜んで」
気遣うようなリュクスに、あえてルシア・メレディスとして、輝くような微笑を返した。
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