陛下が悪魔と契約した理由

野中

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幕・49 湖の上に浮かぶ貴婦人

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御使いたちが住む楽園、人間たちが住む中間界、悪魔たちが住む地獄。



この三界によって、世界は成り立っている。





魔竜が今いるここは、中間界だ。





予感のままに、ソラがヒューゴに呼び掛けようとした時。







「…なんだぁ?」







低い声で呟き、ヒューゴが頭上を見上げた。魔竜の、印象的な濃紺色の瞳が、やたら鋭い。

彼の視線を追って、ソラも頭上を見上げる。そこに広がるのは、





(…わぁ…)





ソラが始めて見る、蒼穹。



魔竜しか目に入っていなかったが、これはこれで圧巻だ。

見るなり、思い出したことがある。

昔、魔竜が言った言葉だ。











―――――いつか行く機会があったなら、中間界の空を見てみろ。絶対だぞ。

嬉しそうに、魔竜は言った。



―――――あの、晴れ渡った青天が、お前の名の由来だ。











なにも遮るもののない青空は、確かに健やかで壮大で、うつくしい。

ただ、うっとりと見惚れた理由は、父たる魔竜の気持ちが嬉しかったからだ。



暗い地獄の底で、これほど広大な景色を彼女の名にしてくれた。



とはいえ、正直に言えば、この光景は、彼女の名と言うよりも。







(お父さんみたい)







ソラは結局、すぐ、ヒューゴに目を戻す。

ヒューゴ以上に気になるものは、やはりこの世に存在しない。



久しぶりに会った父の姿を脳裏に焼き付けるべく、ソラはじぃっとヒューゴに見入った。





褐色の肌。

精悍な肉体。



濃紺の瞳。



艶のある黒髪。





父の人間の姿は見慣れないものだが、父でさえあるなら、ソラはなんだっていい。





『どう、されましたか? お父さん』

そうっと呼び掛ければ、うん、とヒューゴは厳しい顔で空を見上げたまま頷いた。



「結界内で、変な感じがするんだよ。なんだこれ。空間が…チッ、謁見の間か?」

ヒューゴが眉をひそめる。







謁見の間、と言った時、ぶわりと焦燥が膨らんだ。







性急に目を凝らすように、して。



「―――――…あれ」

不意に、きょとんと目を瞠った。そういう表情は、とても幼い。

同時に、殺気立った焦りが胡散霧消する。





『お父さん?』



「ああ、なんか、消えた、みたいだ」





何か、あるはずのものを見つけられなかったような、違和感が残る表情で、ヒューゴはソラに目を戻す。

「まだ変な感じはするけど、…まあ問題はない、だろう」



『気になるのなら、見に行けばよろしいのでは?』

離れた場所で覗き見ているようなのは、魔竜らしくなかった。



『わたしのことなら、お気になさらず』

ソラの、純粋に案じてくる声に、ヒューゴは困った顔で目を逸らす。





今は外に追い出されているんです、なんて。言えない。





「…そうするわ。ま、あとでな。―――――っと、それより」



言葉途中で、ヒューゴの顔が引き締まった。

察したソラも、慎重に頷く。





『ああ…、時間のようですわね』





この湖へ近寄ってくる気配があった。

おそらくは皇宮の人間だろう。騎士かもしれない。



この湖の本来の住人ではないソラは、退去せねばならなかった。湖の上に浮かぶ貴婦人の姿など、目撃されたら騒ぎになるに決まっている。



ソラ自身は、見つかったところで問題はないが、ヒューゴに迷惑がかかるのは避けたい。







『では、お父さん。いずれまた』



「ああ。またな」



挨拶は、気が抜けるほど短かった。





どうせ、数十年など、彼らに取っては瞬きの時間に過ぎない。

無論、ソラの中から妙な予感は消えないが、父たる魔竜への信頼は、それを上回る。







魔竜をどうにかできる存在など、この世にはいない。







確信に、ソラは微笑んだ。一時の、別れのあいさつ代わりに。







ヒューゴが微笑みを返した、次の瞬間には、もうソラの姿は消えていた。

間一髪、ヒューゴのすぐそばの繁みが割れる。







「…あれ、もしかして、ヒューゴさん?」







葉っぱを頭につけながら現れたのは、ヒューゴにとって、顔なじみの騎士だ。

くすんだ金髪に三白眼。

目つきは悪いが、落ち着き払って大人びた空気が、頼りがいを感じさせる。

ヒューゴは自然と笑顔になった。



「ウォルター。久しぶり、訓練中か?」



彼はかつてリカルドの従騎士を勤め、戦場で騎士の叙任を受けた下級貴族の青年。

貴族ではあるが、経済的に苦しい下級出身であるためか、苦労知らずの坊ちゃん方には貧乏人と蔑まれることが多く、そのせいだろう、昔は拗ねてだれかれ構わず噛みついてくる少年だった。だからこそ、貧乏くじを引きやすいリカルドが教育を引き受けた―――――もとい押し付けられた―――――という経緯があるわけだが。

それが今や随分と落ち着き、生半可な挑発なら、逆に倍以上の挑発で返してのける程度には心の余裕ができたようだ。



ウォルターは丁寧に一礼。





「お久しぶりです。仰る通り、訓練時間です。オレはそろそろ上がりますが」





槍を片手に、ウォルターは湖のそばに跪き、自由な方の手で水を掬い上げた。

「珍しいですね。ヒューゴさんがこんな外れにいるなんて」

ばしゃり、顔に水をかけ、汗を流す。

子供時代を知っているヒューゴから見れば、立派に成長して男らしくなったなあ、と感慨深い。



彼の横顔に年寄り臭い感情を抱きながら、ヒューゴは小さく言った。







「今、謁見時間で、神殿の人間が来てんだよ。御使いもいるってさ」







「…あぁ~…」

察したらしいウォルターが苦笑いの顔を上げ、立ち上がる。

顎から滴る水を手の甲で拭いながら、

「追い出されちゃったんスねぇ。お気の毒に」

幼子をあやすように言った。彼には小さな弟妹が多い。口調はそのせいだろう。



気にせず、ヒューゴ。

「おう。なあ、もう上がりってところ悪いけど、俺が訓練に混ざっても問題ないか?」

ちょっと目を丸くしたウォルターは、



「…問題ないどころかありがたいお話ですね、それ」



少し考え、行きましょうか、とヒューゴを誘って訓練場へ足を向けた。

「ならオレももう少し残ろうかな。久しぶりに稽古つけてもらえませんか」

「いいのか? ウォルターがいいなら、俺からも頼みたい」

ヒューゴの顔が、パッと輝く。とたん、ウォルターが微かに怯んだ。次いで、気まずそうに大きく嘆息。



「頼みますからヒューゴさん、あんまり笑顔を安売りしないでくださいね」



売ったところで、誰が買うのだろう? ヒューゴは首を傾げた。

「楽しいなら笑うのは普通だろ?」

「正論っス。でもオレ、長生きしたいんです」

真面目な顔で、ウォルター。ヒューゴは胡乱な顔になる。



「俺が笑うとウォルターの寿命が縮むのか?」





「正確には笑顔を向ける先が問題なんです」





















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