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幕・22 神殿との確執
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確かに奴隷長は、時折見回りにくる。
逸る気分を押さえながら、ヒューゴは自分にかけていた簡単な魔法を解く。
なんなの、と顔をしかめる下男・下女たち。彼らに頭を下げながら浴場へやってくる奴隷長へ、ヒューゴが足を向けるなり。
―――――ざわり。
次に開いた扉を潜って現れた人影に、浴場がざわめきに揺れ、異様な沈黙が落ちた。
現れたのは。
(…リヒト…)
華やかな近衛騎士四人に囲まれた、高貴で気高い皇帝。
まるで動じない厳格な態度に、寛いで緩んでいた浴場の空気が、一気に凍り付いた。
リヒトが歩き出すと同時に、皆、夢から覚めた態度で、ばたばたと跪き始める。
「へ、陛下、このような場所に足を運んでいただく必要は、」
一番驚いたのは奴隷長のようだ。あたふたとリヒトの方へ立ち戻ろうとした彼を、近衛騎士の一人が無言でおしとどめた。
だがこれは、奴隷長の方が正しい。
ここは、皇帝が立つには相応しくない場所。
リヒトの行動は、あり得ないものだった。しかも浴場へ土足で踏み入っている。本来ならば。
謹厳そのものの表情を取り繕っている近衛騎士たちこそ、皇帝を止めなければならない立場だ。
彼らも辛いところだろう。
その時だ。
跪いた下男・下女たち、奴隷たちの上を滑ったリヒトの黄金の目が、ぴたり、ヒューゴにとまる。
リヒトはその場で足を止めた。ヒューゴは小さく嘆息。
(来い、ってことだな)
ヒューゴは無言で歩き出す。
その、この国では珍しい褐色の肌に気付いた幾人かが息を呑んだ。
それだけで、ヒューゴが一体何なのかに気付いたのだろう。
彼の、存在に。
状況が悪いことに気付いた幾人かが震えだす。
「そこにいたのか、ヒューゴ」
高圧的に奴隷長は言って、急げ、と急かしてきた。
(どういう状況だ?)
読めないままにヒューゴが足を速めれば、
「…始末を」
リヒトが淡々と告げる。刹那、
「御意」
応じた騎士の一人、その声を聴いたと思った時には。
「…は、」
仰け反った奴隷長の胸から―――――剣が生えていた。
背から心臓を一撃。
即死だ。
痛みを感じるどころか、自身の命が潰える自覚もあったかどうか。
衝撃に仰け反ったまま、奴隷長がぐるりと白目を剥いた。
その身体を振り捨てるようにして、騎士が剣を引き抜く。べちり、と音を立てて物言わぬ身体が浴場の床に落ちた。
あまりのことに、悲鳴すら上がらない。
いや、未だ何が起きているのか理解できない者もいるようだ。赤い液体が身体の下から広がっていくのに、
「片付けろ」
近衛騎士の一人が命じた。
すぐには誰も応じられない。
どうにか、命じられることに慣れた幾人かの奴隷が動き出す頃、ヒューゴはリヒトの足元に跪いていた。
そこでようやくヒューゴから視線を外したリヒトが、奴隷長を殺した騎士に言う。
「首を斬れと言ったろう」
怒りも呆れもない、それは平坦な声だった。
逆にそれが恐ろしかったか、静まり返った空気の底に、薄氷でも張ったかのような恐怖がじわりと滲む。
少しでも動けば自分の首が飛ぶと言わんばかりに、下男・下女、そして奴隷たちは必死に息を殺した。
「申し訳ございません。血が飛べば、片づけが面倒かと」
奴隷長を一撃で即死させた近衛騎士が、生真面目に答え、深く頭を下げる。
「…そうか」
リヒトはそれ以上、追及しなかった。ヒューゴへ視線を戻す。次いで。
右手を差し出した。ヒューゴの顔の前だ。
ヒューゴが上目遣いに見遣れば、促すようにリヒトの手が動いた。
手袋を脱がせ、と言うことか。
察したヒューゴは、恭しく右手から白い手袋を外した。
素手になるなり、リヒトの手が伸びる。顎下をさらい、喉を撫でるような動きでヒューゴを上向かせた。
濃紺の瞳には、疑問の色が浮いている。それに目を細め、リヒトは言った。
「奴隷長は神殿の紹介だった」
その一言で、説明は済んだ。
ほんのわずか、ヒューゴは目を瞠る。なるほど、と納得しながら。
神殿。
強大な神聖力を持つリヒトを彼らはほとんど崇拝しているが、ゆえに、敵対的としか思えない行動を取ることがある。
崇拝するあまり、神殿側の理想をリヒトに押し付けすぎると言うか、型にはめ込もうとするのだ。
うまく扱えば掌の上で転がせるのだが、彼らは諸刃の剣。
なにより、悪魔であるヒューゴがリヒトのそばにいることは、神官たちには我慢ならない。
ことあるごとにヒューゴを排除しようとしてくる。
(リヒトがそれに対して強硬な手段に出て以降、おとなしくなってたから…)
奴隷長に神殿の息がかかっているかもしれないとは、ヒューゴは考えもしなかった。少し信仰心が強いな、と感じてはいたが。
(それでも神殿は動く、か。その性質上、仕方がないけど)
ヒューゴが考えに沈みかけた時。
「ところでヒューゴ」
不意の、リヒトの呼びかけ。
響きはまるで氷の棘。
ヒューゴは嫌でも我に返らざるを得なかった。ハッと顔を上げれば、
「なぜ、昼に、ここでの仕事もあると話さなかった?」
リヒトの黄金の目が、跪くヒューゴを映している。
逸る気分を押さえながら、ヒューゴは自分にかけていた簡単な魔法を解く。
なんなの、と顔をしかめる下男・下女たち。彼らに頭を下げながら浴場へやってくる奴隷長へ、ヒューゴが足を向けるなり。
―――――ざわり。
次に開いた扉を潜って現れた人影に、浴場がざわめきに揺れ、異様な沈黙が落ちた。
現れたのは。
(…リヒト…)
華やかな近衛騎士四人に囲まれた、高貴で気高い皇帝。
まるで動じない厳格な態度に、寛いで緩んでいた浴場の空気が、一気に凍り付いた。
リヒトが歩き出すと同時に、皆、夢から覚めた態度で、ばたばたと跪き始める。
「へ、陛下、このような場所に足を運んでいただく必要は、」
一番驚いたのは奴隷長のようだ。あたふたとリヒトの方へ立ち戻ろうとした彼を、近衛騎士の一人が無言でおしとどめた。
だがこれは、奴隷長の方が正しい。
ここは、皇帝が立つには相応しくない場所。
リヒトの行動は、あり得ないものだった。しかも浴場へ土足で踏み入っている。本来ならば。
謹厳そのものの表情を取り繕っている近衛騎士たちこそ、皇帝を止めなければならない立場だ。
彼らも辛いところだろう。
その時だ。
跪いた下男・下女たち、奴隷たちの上を滑ったリヒトの黄金の目が、ぴたり、ヒューゴにとまる。
リヒトはその場で足を止めた。ヒューゴは小さく嘆息。
(来い、ってことだな)
ヒューゴは無言で歩き出す。
その、この国では珍しい褐色の肌に気付いた幾人かが息を呑んだ。
それだけで、ヒューゴが一体何なのかに気付いたのだろう。
彼の、存在に。
状況が悪いことに気付いた幾人かが震えだす。
「そこにいたのか、ヒューゴ」
高圧的に奴隷長は言って、急げ、と急かしてきた。
(どういう状況だ?)
読めないままにヒューゴが足を速めれば、
「…始末を」
リヒトが淡々と告げる。刹那、
「御意」
応じた騎士の一人、その声を聴いたと思った時には。
「…は、」
仰け反った奴隷長の胸から―――――剣が生えていた。
背から心臓を一撃。
即死だ。
痛みを感じるどころか、自身の命が潰える自覚もあったかどうか。
衝撃に仰け反ったまま、奴隷長がぐるりと白目を剥いた。
その身体を振り捨てるようにして、騎士が剣を引き抜く。べちり、と音を立てて物言わぬ身体が浴場の床に落ちた。
あまりのことに、悲鳴すら上がらない。
いや、未だ何が起きているのか理解できない者もいるようだ。赤い液体が身体の下から広がっていくのに、
「片付けろ」
近衛騎士の一人が命じた。
すぐには誰も応じられない。
どうにか、命じられることに慣れた幾人かの奴隷が動き出す頃、ヒューゴはリヒトの足元に跪いていた。
そこでようやくヒューゴから視線を外したリヒトが、奴隷長を殺した騎士に言う。
「首を斬れと言ったろう」
怒りも呆れもない、それは平坦な声だった。
逆にそれが恐ろしかったか、静まり返った空気の底に、薄氷でも張ったかのような恐怖がじわりと滲む。
少しでも動けば自分の首が飛ぶと言わんばかりに、下男・下女、そして奴隷たちは必死に息を殺した。
「申し訳ございません。血が飛べば、片づけが面倒かと」
奴隷長を一撃で即死させた近衛騎士が、生真面目に答え、深く頭を下げる。
「…そうか」
リヒトはそれ以上、追及しなかった。ヒューゴへ視線を戻す。次いで。
右手を差し出した。ヒューゴの顔の前だ。
ヒューゴが上目遣いに見遣れば、促すようにリヒトの手が動いた。
手袋を脱がせ、と言うことか。
察したヒューゴは、恭しく右手から白い手袋を外した。
素手になるなり、リヒトの手が伸びる。顎下をさらい、喉を撫でるような動きでヒューゴを上向かせた。
濃紺の瞳には、疑問の色が浮いている。それに目を細め、リヒトは言った。
「奴隷長は神殿の紹介だった」
その一言で、説明は済んだ。
ほんのわずか、ヒューゴは目を瞠る。なるほど、と納得しながら。
神殿。
強大な神聖力を持つリヒトを彼らはほとんど崇拝しているが、ゆえに、敵対的としか思えない行動を取ることがある。
崇拝するあまり、神殿側の理想をリヒトに押し付けすぎると言うか、型にはめ込もうとするのだ。
うまく扱えば掌の上で転がせるのだが、彼らは諸刃の剣。
なにより、悪魔であるヒューゴがリヒトのそばにいることは、神官たちには我慢ならない。
ことあるごとにヒューゴを排除しようとしてくる。
(リヒトがそれに対して強硬な手段に出て以降、おとなしくなってたから…)
奴隷長に神殿の息がかかっているかもしれないとは、ヒューゴは考えもしなかった。少し信仰心が強いな、と感じてはいたが。
(それでも神殿は動く、か。その性質上、仕方がないけど)
ヒューゴが考えに沈みかけた時。
「ところでヒューゴ」
不意の、リヒトの呼びかけ。
響きはまるで氷の棘。
ヒューゴは嫌でも我に返らざるを得なかった。ハッと顔を上げれば、
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