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幕・10 陛下の奴隷
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身体をヒューゴに任せきりにして、リヒトは指一本動かさない。
ただ目を伏せ、息を整えている。
なんとなく、その額にヒューゴはキスを落とした。とたん、リヒトは安堵に似た表情で、黙って目を閉じる。
まじまじその整った顔立ちを見つめるヒューゴ。濃紺の目に浮かんだのは、感心したような色。と思いきや、子供のように、にっと無邪気に笑った。
満面の笑みで、リヒトの額に額を押し付ける。
面食らったリヒトが目を開けた。間近でかち合う、視線。
楽しそうなヒューゴに、リヒトの顔に浮かんだのは、何やら諦め、仕方ないな、と許す表情。
それを見た後、ヒューゴは満足したような態度で、リヒトから離れた。
着替えさせた服を、籠に入れ、てきぱきと執務室の窓を開ける。
とたん、流れ込んでくる、春先の温かな風。
室内の空気が入れ替わる。心持ちも、また。
穏やかに、さわやかに。
ぐるりと室内全体を見渡し、何を納得したのか、よし、とヒューゴは一つ頷いた。
「変な魔力の流れ、なし。盗聴とか覗き見の心配も、なし」
移動する眼差しに宿るのは、職人が作品の出来でも確認するような真剣さ。
「忍んでるやつもいなけりゃ、攻撃の気配もなし」
どうしてそこまで念入りに確認するのか。
理由は、ヒューゴの表向きの仕事が、リヒトの護衛だからだ。
「そろそろ、ドアの鍵を開けるぞ」
言って、ヒューゴは指を鳴らす。同時に、かちり、ドアの鍵が開いた。
ドアの外には、近衛騎士が控えている。開けても問題はない。なにより今はもう、室内に流れる空気は健全だ。
騎士たちが、中で何が起こっているかを知らずに済むのは幸いだろう。
「それじゃ俺は片付けしてくるから」
しばらくはヒューゴが抜けても問題はなさそうだ。判断し、開けた窓に手をかけたヒューゴを、リヒトは横目に流し見る。
「片付けなど、魔法でできないのか」
「いつも言ってるだろ」
ヒューゴは眉根を寄せた。子供に言い聞かせる態度で言う。
「魔法を使わなくて済むことは、基本、魔法を使わずに済ませるって」
魔力より、人間の身体は、手足を積極的に使う方が、結果としていいような気がする。悪魔の身体とは条件が違う。
落ち着いてきた息の下、リヒトがふっと気怠げに微笑んだ。
「真面目な悪魔などこの世にヒューゴくらいだな」
ヒューゴは目を瞬かせた。真面目なつもりはない。単に、そちらがいいと思うからそうしているだけだ。
「…気に食わないが、まあ、いい」
「リヒトはそんなに、俺に魔法を使ってほしいのか? なんで?」
「そのぶん、一緒にいられるだろう」
「そうだな?」
ヒューゴは首をひねる。リヒトは一度、何か言いたげな目になった。
そしてすっかり冷静になった表情で何を言うのかと思えば、
「ヒューゴは僕が心配ではないのか」
「いつも心配に決まってるだろ、ばか」
当たり前の確認に、つい真顔で答える。
人間は脆い。
たとえリヒトの神聖力が高く、能力値も非凡とはいえ、人間は人間だ。
失われる時は、一瞬だろう。
離れるときは気が気ではない。
だがもうリヒトは子供ではないのだ。
大国を背負う皇帝である。
なにより、高貴な妻たちを持つ夫であり、子を持つ父であった。
雛鳥の身を案じる親鳥の心地ではあるが、四六時中くっついて回るわけにはいかないし、ましてやヒューゴの都合で連れて回るわけにもいかない。
「ふむ」
白い手袋をはめた指先で自身の顎に触れ、リヒトは満足げに頷いた。
「なら許す。行っていい。だが、すぐ戻れ」
「なんなのっ?」
ヒューゴは毎日、リヒトが理解できない。
それはヒューゴが悪魔で、リヒトが人間だからか。
なんにしろ、ただの人間にしたってリヒトが気難しいのは、確かだろう。
ここでヒューゴが変にごねれば、当分リヒトのそばから離れられないのは目に見えていた。
納得はできないが、こうなればやるべきことは早めに片づけて戻るに限る。
「そんじゃ、行ってくる」
言い置き、何か言われる前に、ヒューゴは窓から飛び降りた。
三階から、危なげなく着地。下に誰もいないのは確認済みだ。そのまま身軽に歩き出す。
…部屋への出入りは、窓ではなく、ドアから。
などということは、ヒューゴとて、教えられるまでもなく知っている。だが、ヒューゴは奴隷だ。格好も皇宮には相応しくない。
本来、皇宮を、しかも皇帝の執務室を出入りすることは許されない存在だ。
知っているから、なるたけ人目につかないように行動するようにしている。
なんだったら、魔法で移動するが、人間の姿をしている内は、できる限り足で歩きたい。
これはおそらく、人間だった前世の記憶が影響していた。
まずもって、ヒューゴにとって、魔法を使うと言う発想が真っ先にくることがない。考えるより先に、身体が動くのだ。
(ただ俺は子供の頃からリヒトのそばにいるからな)
そのために、身分にもかかわらず、ある程度の越権は目こぼしされてはいる。
そうは言っても、あまり周囲を過剰に刺激する必要はないだろう。
リヒトが十歳の頃、まだ神聖力の高さ以外で注目されていなかった、力のない時期。
彼が、どこからともなく連れてきた戦闘用の奴隷。
それからずっとリヒトのそばに控えている、通称『奴隷傭兵』『陛下の奴隷』、それがヒューゴだ。
ヒューゴは悪魔だ。外見年齢の操作もお手の物。
皇宮に来てからは、リヒトより二つ三つ上の外見を取るように心がけている。
つまり、この数年は、外見だけは人間らしく成長を心がけてきた。悪魔であるとバレないように。
だが、彼が後継者争いの盤上に乗ってからは、ヒューゴが悪魔であることを隠すことは逆に弱点になりかねないと言う宰相の言によって、ヒューゴはリヒトが神聖力で捕らえた悪魔だと周知された。
そう、『捕縛された悪魔』だ。逃げようもない、奴隷以下の存在。即ち、道具。
リヒトはオリエス帝国の皇帝である。
そんな存在のそばにいるためには、名目が必要だ。その上、いずれヒューゴが悪魔と露見することは明らかだった。
一番いい落としどころが、ヒューゴが『捕らえられた悪魔』という一節であったと言うだけの話だ。
ただしそれは、少し違う。
実際には、リヒトとヒューゴの間にあるのは、契約だ。
ただ目を伏せ、息を整えている。
なんとなく、その額にヒューゴはキスを落とした。とたん、リヒトは安堵に似た表情で、黙って目を閉じる。
まじまじその整った顔立ちを見つめるヒューゴ。濃紺の目に浮かんだのは、感心したような色。と思いきや、子供のように、にっと無邪気に笑った。
満面の笑みで、リヒトの額に額を押し付ける。
面食らったリヒトが目を開けた。間近でかち合う、視線。
楽しそうなヒューゴに、リヒトの顔に浮かんだのは、何やら諦め、仕方ないな、と許す表情。
それを見た後、ヒューゴは満足したような態度で、リヒトから離れた。
着替えさせた服を、籠に入れ、てきぱきと執務室の窓を開ける。
とたん、流れ込んでくる、春先の温かな風。
室内の空気が入れ替わる。心持ちも、また。
穏やかに、さわやかに。
ぐるりと室内全体を見渡し、何を納得したのか、よし、とヒューゴは一つ頷いた。
「変な魔力の流れ、なし。盗聴とか覗き見の心配も、なし」
移動する眼差しに宿るのは、職人が作品の出来でも確認するような真剣さ。
「忍んでるやつもいなけりゃ、攻撃の気配もなし」
どうしてそこまで念入りに確認するのか。
理由は、ヒューゴの表向きの仕事が、リヒトの護衛だからだ。
「そろそろ、ドアの鍵を開けるぞ」
言って、ヒューゴは指を鳴らす。同時に、かちり、ドアの鍵が開いた。
ドアの外には、近衛騎士が控えている。開けても問題はない。なにより今はもう、室内に流れる空気は健全だ。
騎士たちが、中で何が起こっているかを知らずに済むのは幸いだろう。
「それじゃ俺は片付けしてくるから」
しばらくはヒューゴが抜けても問題はなさそうだ。判断し、開けた窓に手をかけたヒューゴを、リヒトは横目に流し見る。
「片付けなど、魔法でできないのか」
「いつも言ってるだろ」
ヒューゴは眉根を寄せた。子供に言い聞かせる態度で言う。
「魔法を使わなくて済むことは、基本、魔法を使わずに済ませるって」
魔力より、人間の身体は、手足を積極的に使う方が、結果としていいような気がする。悪魔の身体とは条件が違う。
落ち着いてきた息の下、リヒトがふっと気怠げに微笑んだ。
「真面目な悪魔などこの世にヒューゴくらいだな」
ヒューゴは目を瞬かせた。真面目なつもりはない。単に、そちらがいいと思うからそうしているだけだ。
「…気に食わないが、まあ、いい」
「リヒトはそんなに、俺に魔法を使ってほしいのか? なんで?」
「そのぶん、一緒にいられるだろう」
「そうだな?」
ヒューゴは首をひねる。リヒトは一度、何か言いたげな目になった。
そしてすっかり冷静になった表情で何を言うのかと思えば、
「ヒューゴは僕が心配ではないのか」
「いつも心配に決まってるだろ、ばか」
当たり前の確認に、つい真顔で答える。
人間は脆い。
たとえリヒトの神聖力が高く、能力値も非凡とはいえ、人間は人間だ。
失われる時は、一瞬だろう。
離れるときは気が気ではない。
だがもうリヒトは子供ではないのだ。
大国を背負う皇帝である。
なにより、高貴な妻たちを持つ夫であり、子を持つ父であった。
雛鳥の身を案じる親鳥の心地ではあるが、四六時中くっついて回るわけにはいかないし、ましてやヒューゴの都合で連れて回るわけにもいかない。
「ふむ」
白い手袋をはめた指先で自身の顎に触れ、リヒトは満足げに頷いた。
「なら許す。行っていい。だが、すぐ戻れ」
「なんなのっ?」
ヒューゴは毎日、リヒトが理解できない。
それはヒューゴが悪魔で、リヒトが人間だからか。
なんにしろ、ただの人間にしたってリヒトが気難しいのは、確かだろう。
ここでヒューゴが変にごねれば、当分リヒトのそばから離れられないのは目に見えていた。
納得はできないが、こうなればやるべきことは早めに片づけて戻るに限る。
「そんじゃ、行ってくる」
言い置き、何か言われる前に、ヒューゴは窓から飛び降りた。
三階から、危なげなく着地。下に誰もいないのは確認済みだ。そのまま身軽に歩き出す。
…部屋への出入りは、窓ではなく、ドアから。
などということは、ヒューゴとて、教えられるまでもなく知っている。だが、ヒューゴは奴隷だ。格好も皇宮には相応しくない。
本来、皇宮を、しかも皇帝の執務室を出入りすることは許されない存在だ。
知っているから、なるたけ人目につかないように行動するようにしている。
なんだったら、魔法で移動するが、人間の姿をしている内は、できる限り足で歩きたい。
これはおそらく、人間だった前世の記憶が影響していた。
まずもって、ヒューゴにとって、魔法を使うと言う発想が真っ先にくることがない。考えるより先に、身体が動くのだ。
(ただ俺は子供の頃からリヒトのそばにいるからな)
そのために、身分にもかかわらず、ある程度の越権は目こぼしされてはいる。
そうは言っても、あまり周囲を過剰に刺激する必要はないだろう。
リヒトが十歳の頃、まだ神聖力の高さ以外で注目されていなかった、力のない時期。
彼が、どこからともなく連れてきた戦闘用の奴隷。
それからずっとリヒトのそばに控えている、通称『奴隷傭兵』『陛下の奴隷』、それがヒューゴだ。
ヒューゴは悪魔だ。外見年齢の操作もお手の物。
皇宮に来てからは、リヒトより二つ三つ上の外見を取るように心がけている。
つまり、この数年は、外見だけは人間らしく成長を心がけてきた。悪魔であるとバレないように。
だが、彼が後継者争いの盤上に乗ってからは、ヒューゴが悪魔であることを隠すことは逆に弱点になりかねないと言う宰相の言によって、ヒューゴはリヒトが神聖力で捕らえた悪魔だと周知された。
そう、『捕縛された悪魔』だ。逃げようもない、奴隷以下の存在。即ち、道具。
リヒトはオリエス帝国の皇帝である。
そんな存在のそばにいるためには、名目が必要だ。その上、いずれヒューゴが悪魔と露見することは明らかだった。
一番いい落としどころが、ヒューゴが『捕らえられた悪魔』という一節であったと言うだけの話だ。
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