千切れた心臓は扉を開く

綾坂キョウ

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終章 千切れた心臓は扉を開く

開かれた扉

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 髪をばっさりと切ったのは、何年ぶりだろうか。「もったいない」と不満げな理玖に、「りっくんのために切ったんじゃないし」と笑い、美邑は肩にも届かないその毛先をそっとなでた。

 あれから二ヶ月が経った。木々の緑色が濃くなり、鏡戸神社の境内では、やたらと蝉が喚き散らしている。

 溶けかけた棒アイスを口に含みながら、美邑は拝殿の出入り口に腰かけ、大きく伸びをした。切れた注連縄はとっくに直され、今は堂々とした姿を見せている。相変わらず、他の神社とは巻き方が逆なのか――敢えて確認しておらず、定かではない。

 拝殿の内部も変わったところはなく、御神鏡は今も静かに祭られている。


 あの日の夕方、朱金丸と昊千代はそろって『裏側』へと帰っていった。おそらく、もう会うことはないし、その方がお互いにとって良いのだろう。


「迎え入れられないこと、実を言えば残念な気持ちが、ないわけでもない」


 そう言ってわずかに笑った朱金丸の言葉を、本音ととるべきか冗談ととるべきか、美邑は悩み、結局「ありがとう」とだけ返した。


「でも、良いの? 『裏側』に、無理に帰らなくても……」


 話を聞く限り、『裏側』の世界が二人にとって、幸せな世界だとは思えない。


「……僕達の世界だって、そんな狭いわけじゃないよ」


 ぼそぼそと聞こえてきたのは、昊千代の声だった。美邑はなんだか嬉しくなり、「そっか」と笑った。


「それとね、朱金丸さん。もう一つありがとう。あたしに……モモをくれて」


 それは心からの言葉だった。朱金丸のおかげで、美邑はモモに出会えた。それが、この十年間の救いだった。

 朱金丸は少しだけ目を細めると、右手で美邑の頭をくしゃりと撫でた。


「俺は、貴様のゆにこんだからな」


 その言葉に、今度は美邑がきょとんとする番で。意味が頭に染み込むと、くしゃりと笑って朱金丸に抱きついた。


「ありがとう、朱金丸さん。迎えに来てくれて。あたしを、本当の独りぼっちにさせないでくれて」

「……俺らの方こそ」


 「感謝する」と。そう、朱金丸はもう一度、美邑の頭を撫でると、少し離れた場所で待っていた昊千代と共に、鏡の中へと消えていった。

 撫でられた頭に残った温もりを、自分の手のひらで確かめ。美邑は「さよなら」と呟き、理玖と共に、御神鏡のふたを閉じた。



「――それで」


 隣から理玖に話しかけられ、美邑はハッとすると同時に、くわえていたアイスを落としそうになった。慌てて棒を握り直し、同じようにアイスをかじっている理玖に向き直る。


「俺に、話すことがあるんだろ? それで、今日は来たんじゃなかったのか?」

「……うん」


 この二ヶ月。美邑は結局、過去の話も、自分が鬼に成ったことも、モモのことさえも、理玖に話していなかった。

 と言うより、話すことができなかった。まるで床に散らばった細かなビーズに途方に暮れるような、そんな心地で。一粒一粒を丁寧に拾い上げて、元の容器に戻すためには、それなりの時間が必要だった。

 ようやく、整理がついたと思ったのは、家族に対し、普通に朝、挨拶ができるようになったときだった。

 自分の姿が親の目に映らなかったら――その、視線が素通りした瞬間の恐怖を思い出し、長いこと身構えてしまっていたが。その度に、あの日の夕方に、理玖に付き添われて帰ってきた美邑を、ただ抱き締めてくれた両親の体温を思い出してきた。

 理玖は、ただただ待っていてくれた。これまでがそうであったように、必要以上のことは言わず、美邑を見守っていてくれた。
 おそらく、昊千代や朱金丸と対峙し、更には二人を御神鏡に見送ったことで、ただならぬことがあったのだとは、理解してくれているようだが。


「……なんだよ」


 じっと見つめてくる美邑に、理玖があからさまに顔をしかめる。だが、目はそらさないでくれる。そのことに、美邑はにやりと口の端を持ち上げた。


「やっぱり――今日は良いや」

「は? なんだよそれ」


 肩をこかす理玖の背を、軽くぽんと叩き、アイスを一気に頬張る。こめかみがキンとうずくのを我慢しながら立ち上がり、「もう行かなきゃ」と笑った。


「今日はね、このあと約束があるんだ」

「……ふぅん」


 気のなさそうな返事をしつつ、理玖の顔がわずかに綻ぶ。夏休みに入る前、美邑は思いきって部活に入った。習俗研究部という、小さな部ではあるが、数少ないメンバーとは気が合い、今日はそのうちの一人と買い物に行く約束さえしたのだ。


「じゃあ、行ってくるね」

「ん。気をつけてな――美邑」


 ひらひらと手を振る理玖に、美邑は目一杯の笑顔を返し、そのまま駆け出した。

 美邑の日常を侵した、出来事の数々。どうせ理玖に伝えるならば、ゆっくりと噛み締めるように話していきたい。それが、美邑を見守り続けてくれ、そして事の最後を見届けてくれた理玖への礼儀だろう。
 そしてなにより、大切なモモのことも。誤解なく、ありのままに受け止めて欲しいから。

 鳥居をくぐり、階段を降りかけると、緋色の着物を着た白髪頭が腰かけていた。その人は美邑に気がつくと、ゆっくりと振り返り。柔らかく微笑むと、そのまますっと消えていった。


「朱金丸さん……」


 初代の朱金丸。人間により追放された神――その残滓。

 子孫である美邑が鬼と成り、『裏側』に来ることを望んでいたらしいが――人間として生まれた娘を、人間の中で育てるよう仕向けたのも、また彼で。
 人間への友情と、憎しみと、配偶者であるトモエへの愛が入り交じった複雑な気持ちを、眠りながら抱き続けているのだろう。

 消えた方向にぺこりとお辞儀をしてから、美邑はまた歩き出した。

 青よりも深く、爽やかな色をした空を見上げ、その輝きに目を細める。

 あの十年前の夏から、ずっと一緒だったモモは、もう隣にはいない。だが時折、心臓の辺りにうずきを覚えることがいまだにある。その度に、心の中にはモモがモモとしていて、美邑の背中をそっと支えてくれているのだと感じる。

 千切れたものは、完全になど戻らない。だからいつか、ひょっこりと――何気ない顔して、またモモが隣に現れたりする日が来るのではないかと、そう思うことがないでもない。

 そのときはきっと、「お帰り」と笑顔で手を繋ぎたいから。胸を張って、また会いたいから。
 今はモモが取り戻してくれた、当たり前の日々を、全力で進まなければならないのだ。

 そのための扉はまだ、開いたばかりなのだから。
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