千切れた心臓は扉を開く

綾坂キョウ

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第二十一章 幻視――或いは過去の話

21-1 遠雷

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 再び、ぐるりと視界が回ると、今度は景色が完全に変わっていた。木造の、質素な建物の中だ。

 目の前には、また女――トモエがいた。小綺麗な格好で、少しだけふくよかになっている。よく見ると、腹が膨らんでいるのが分かった。

 室内の、時代かがった調度品を見るまでもなく、そろそろ美邑も理解していた。

 これは、過去の出来事なのだと。

 はじめは単なる夢かとも思ったが、それにしては「見させられている」感が強い。世界に働きかけることもできない。過去に起きた出来事を、ただただ見させられている――そう考えた方が、しっくりとくる。

 トモエと蛇鬼の話は、以前に理玖から聞いていたが、何故か一般に伝わる昔物語とも、神社に語り継がれる話とも、目の前で起きたことは違った。重なる部分はあるが、そのように曖昧になっていくのが、昔語りというものなのだろうか。


「失礼します」


 声と共に、扉が開いた。現れたのは、中年の男だ。白を貴重とした着物に、藍色の袴をはき、姿勢よく入り口に座りながら、部屋の中を見ていた。トモエと目が合うとにこりと微笑み、それだけで一気に親しみやすい雰囲気になる、そんな男だ。


「初彦さん」


 トモエもまた、にこりと男――初彦に笑いかけた。愛想、というより、自然と笑みがこぼれた様子だ。


「食事をお持ちしましたよ。ご体調はいかがです?」

「体調は、問題ないです。ただ」


 トモエはそう、軽く腹を撫でた。少し、困ったような顔で。


「ずいぶんと暴れるものだから、少し寝不足で」

「おや、寝不足は良くないですね。しかし、腹のお子が元気なのは嬉しいことだ」


 笑顔でそう言う初彦につられ、トモエも顔に笑みをのせた。


「朱金丸様の言う通り、本当に二人いるのかも」

「朱金丸がそう言うなら、きっと違いない」


 「めでたさも倍ですね」と笑いながら、初彦は下がっていた。

 あの橋の夜の出来事から、だいぶ時間が経っているようだ。美邑は、正座して食事をするトモエを、じっと見た。

 トモエの顔は、思い詰めた表情で川を見つめていたときよりも、ずっと柔らかい。蛇鬼との暮らしが、きっとそうさせているのだろう。あの初彦という男は、一体どういう関係なのか分からないが――。

 トモエがちょうど食事を終えた頃、「失礼します」と、初彦とは別の声が、扉の向こうから聞こえた。


「父に言われて、食器を下げに」


 入ってきたのは、初彦の面影を感じさせる、まだ二十歳に届かないくらいの青年だった。


「ありがとう、時彦」

「いえ。それより、体調はいかがです?」


 父親と同じような笑顔で、同じようなことを言う時彦に、トモエも美邑も、くすりと笑ってしまった。


「大丈夫。ありがとう」

「いーえ。大事なお身体ですから」


 人懐こい笑みを浮かべる時彦に、美邑も温かな気持ちになる。
 その時彦が、じっとトモエの腹を見つめていた。


「どうかした?」

「いえ……ほんとに、大きくなったなぁと思って」


 ぱっと顔を赤くして、時彦が頬を掻く。


「もう幾らかで生まれるだろうって、話だからね」

「ふぅん……」


 時彦は頷き、また笑顔でトモエを見た。


「ほんと、すっかり蛇鬼様のお嫁さんっていうか……トモエ、って呼んでた頃とは、やっぱり違うなって」


 「そんなこと」と、トモエが口を尖らせる。どうやら、二人はトモエが「贄」になる前からの知り合いらしい。


「それに、蛇鬼様、って言うの、止めてってば」

「何故です? みんな、蛇鬼様って呼んでますよ。神様を名前で呼ぶなんて、畏れ多くて」


 おどけたように言う時彦に、トモエは「もぅ」と困った顔をした。時彦は気にしたそぶりも見せず、「そんなことより」と首を傾げた。


「その、『朱金丸様』はどちらに?」

「村と、周辺の見回り。なんか、最近空気が澱んでるから、ちょっと胸騒ぎがするって」

「へぇ……」


 「取り越し苦労なら良いのだけど」と、トモエが暗い顔になる。それを見た時彦が、またへらっと笑った。


「大丈夫。こんな小さな、平和な村で、なにがあるって言うんです」


 その呑気な言いように、またしてもトモエと美邑はそろって笑ってしまった。


「それも、そうね」

「そうそう。御子が生まれるから、神経質になっているんじゃないですか? なんなら、トモエさんが蛇鬼様のこと誘って、お出かけでもしたらどうです。二人して、気分転換になるでしょう?」


 手を合わせて目を輝かせる時彦を見て、「それも良いかもね」と、トモエは満更でもなく頷いた。


「安静に、とは言われてるけど。ずっと閉じこもってたら、黴でも生えてしまいそう。虫干しがてら、ちょっとお出かけも良いかもね。ありがとう、時彦」

「いいえぇ」


 パタパタと手を振って、時彦が出て行く。その背中を見送り、トモエは扉の隙間から見える空を見上げた。美邑もそれに倣うと、明るかった空に、灰色の雲がかかり始めていた。


「朱金丸様……早く、帰ってこないかな」


 ぽつりと落とした呟きをかき消すように、遠くで雷の音がした。
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