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第二十章 どうちょうさぎょう

20-2 かわべ

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 まるで、夢を見ている心地だ――美邑は呆然と、周囲を見回した。

 つい今まで、眠り塚にいたはずなのに。気がつけば、目の前には大きな川が流れていた。見知らぬ場所――なのに、どこか懐かしい。そんな景色だ。

 そこに、女がいた。と言っても、美邑と大して歳は変わらなさそうだ。しかし、身にまとう空気は、美邑や同級生らよりも、ずっと成熟している。
 長い黒髪を首の後ろで一つにくくり、時代錯誤な地味な色の小袖をまとって、じっと目の前の木橋を見つめている。

 橋は真新しく、大きな造りをしている。それを、憎々しげに女は見ていた。


「どうした」


 不意に後ろから声をかけられ、女は振り返った。その顔が、一転して笑みで満ちる。美邑もまたそちらを見て、びくりと固まった。


「朱金丸様」


 女が、嬉しそうにそう呼んだ相手は、しかし美邑の知る朱金丸ではなく、あの鬼だった。


「あんた――一体なにを」


 食べさせたのか、と詰め寄るが、鬼は美邑の存在に全く気づかない様子で、女へと近づいた。その身体が、するりと美邑を通り抜ける。


「え……」


 女もまた、美邑に意識を向けることなく、鬼へと向き直った。
 鬼は、女が睨んでいた橋をちらと見ると、苦笑しながら女の頭を撫でた。


「まるで、親の仇のような目で見ていたな?」

「本当に、そうだったら良かったのに」


 口を尖らせる女は、先程までよりもずっと、年相応な空気に変わっていた。それに、鬼はまた苦笑いだ。


「随分と物騒なことを」

「だって父上ったら、あの橋ができたからお得意先が増えたらしくて。そのうちの一つに、わたしを嫁にやるだなんて言い出してるんですよ? 商売繁盛は良いですけど、わたしまで商品にされちゃ、たまったもんじゃないです」

「なんだ。誰か、好いてる者でもいるのか」


 鬼のからかいに、女はますます膨れ面をした。「もう」と鬼の胸を軽く叩き、「意地の悪い神様」と顔を背ける。


「神は神でも、鬼ゆえに」

「鬼は鬼でも、神様です」


 つんとしたままの女に、鬼は「参ったな」と頭を掻いた。


「だが、そのために橋を落とすわけにもいくまい。あれは、この村の者たちにとって、悲願の橋だ」

「そんなの、分かってます」


 ふてくされたまま、女がしぶしぶと頷く。


「この小さな村にとって、たくさんの物や人が出入りするようになることは、それだけで宝なんだって。父上も散々言ってますし。あの橋を作るのに、朱金丸様も手を貸してくださったんでしょう?」

「まぁ、なぁ」


 「でもわたしは気にくわない」と、きっぱり女は言いきった。


「わたしは、この村を出たくなんてない。どこの誰かも分からない人のところになんて、嫁ぎたくない」


 女の言葉と共に――美邑の視界が、ぐるりと反転した。


「あ……っ」


 よろけかけるのをなんとか踏ん張ると、世界は暗転していた。真っ暗な闇――夜だ。先程までの晴れ晴れとした天気が嘘のように、大雨が地を叩いている。


「え……なに、これ」


 雨もまた、鬼と同じように美邑を素通りした。不思議と濡れることもなく、美邑はおかしな気分になりながら周囲を見回した。


「あ……」


 場所は、先程の川沿いだ。橋の上に、女が立っている。びしょ濡れになり、橋の欄干に手をかけて、増水した川の流れを見つめている。その身体が、ぐっと前に傾いだ。


「危ない……!」


 駆け寄り、その手をつかむ――が、それは空を切るばかりだった。


「あ……」


 ダメだ、と思ったそのとき。
 宙に舞った身体が、下から飛び上がってきた鬼に抱き締められた。鬼はそのままの勢いで橋に降り立つと、「この痴れ者がっ」と女を怒鳴る。


「一体、なにを考えているっ?」


 途端、女の両目からぼろぼろと涙がこぼれた。


「う……うぅ……っ」

「おい……?」


 女は、思いきり鬼に抱きついた。うろたえる鬼に構わず、全身を預けきる。


「わ……たしっ! 輿入れが決まったって……急に、父様が言い出して……ッ」

「……そうか」


 鬼は、声と同じく優しい手つきで、女の背中を撫でた。


「辛いのは分かるが、しかし、命を絶つのは」


 言葉の途中で、女は鬼の手を振り払った。きっ、と鋭い目つきで鬼を睨む。


「いいえ、分かってない。朱金丸様はなにも分かってない」


 言うなり、女は鬼の首の後ろに両腕を回し、至近距離から鬼を見つめた。涙をあふれさせながらも、真剣な瞳で。


「わたし……よそに嫁ぐくらいなら、死にます。朱金丸様は、わたしが死んでも良いの?」

「なにを」


 距離をあけようとする鬼に、女はそのまま腕の力を強め、顔を更に近づけた。唇が、触れ合う。

 それは、一瞬のことではあったが。
 驚いた表情の鬼に、女はきりっとした、ひた向きな目を向け続ける。


「……わたしは、朱金丸様に嫁ぎます。それが叶わなければ、死んでも良い」

「おい」

「わたしにとって――朱金丸様は、特別な存在。幼い頃、母を亡くして途方に暮れていたわたしを、救い上げてくださったのは朱金丸様。それからずっと、村の人々のために尽くされてきた朱金丸様を見てきた!」


 女はどこまでもまっすぐな目で、鬼を見つめている。曇りない、だからこそ危うさをはらんだ、その目で。


「わたしは、朱金丸様を愛しています」


 その言葉を聞いて、朱金丸はぎゅっと唇を噛んだ。


おれにとって……おまえは、守るべき村人の一人に過ぎぬ」

「分かっています」


 間髪入れず、女が強い口調で返す。


「朱金丸様は、神様ですから。ただ、お側に置いていただければ、それだけで満足です」

「……この姿だって、正確には本当のものではない。我の本性は」

「蛇鬼、と呼ばれていることくらい、知っています」


 にこりともせず、女は言い切った。


「本性が蛇だとして。それでも、わたしの気持ちは変わりません。朱金丸様は、朱金丸様ですから」


 鬼は、まだなにかを言いかけたが、女の目を見て小さく息を吐くと、首を振った。


「……これで我が断ったら、死ぬと言うのか」

「はい。知らない人に嫁ぐくらいなら、死にます」

「……神を脅すなど、悪い娘だ」


 「分かった」と、鬼は女を抱き締める。どこか戸惑うように、そっと。


「神を脅かす覚悟があるならば、我も腹を決めよう」


 「先ずは、よそとの婚姻を取り消させなければ」と、鬼が小さく笑う。


「朱金丸様……!」

「良いか、聞け。前にも言ったが、この橋は村の者皆の悲願だった。それを壊すわけにはいかぬが――取り引きくらいはできる」


 鬼の言葉に、女の顔が笑顔から訝しげなものへと変わる。鬼は、小さく頷いた。


「我はもう永いこと、この村の守り神をしてきた。その見返りとして、妻をめとるために指定した女を差し出すよう、村の者たちに布告する。もし、それを破るようであれば、あの橋を壊す。
 ――勿論、壊して良いものではない。きっと、条件は呑まれ、妻が寄越されるだろう。哀れな贄として」

「それじゃ、朱金丸様が悪者みたい……」

「なぁに。所詮は蛇鬼だ。それに、嫁ぎ先の決まった娘をぶん盗ろうというのだ――それくらい悪者になる必要があるだろうよ」


 にっ、と笑った鬼の顔は、美邑がこれまでに見たどれよりも柔らかかった。


「今少し時間がかかるが、待っておれ。我が、必ず迎えに行くからな――トモエ」
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