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第十三章 神隠し

13-2 角

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 家についても頭痛が治まらず、美邑は力なく「ただいま」と玄関で口にした。


「おかえり――って。どうしたの?」


 居間から玄関を覗いた母が、パタパタと足音を立てながら早足で近づいてくる。


「酷い汗……どこか具合悪いの?」

「ちょっと、頭……痛くて」


 美邑の答えに、「ちょっとじゃないでしょ、もう」と唸るように言いながら、母親が身体を支えてきた。


「病院行かないと……」

「やだ……いかない」


 唸るように呟く美邑を、母親は戸惑ったように見た。「でも」と言いかけ、しかし諦めたように首を振る。


「分かった。二階、行けそう?」

「階段……ちょっと、しんどい……かな」

「じゃあ、ソファーにでも横になって。あんまり酷いようなら、病院行くからね」


 言われるがまま、居間のソファーに横たわる。二人がけのソファーは大して大きくはなく、足がソファーからはみ出るが、立ったり座ったりしているよりも、随分と楽だった。


「我慢しちゃ、駄目だからね。酷くなったらすぐ言いなさい」


 濡らしてきたタオルで、美邑の顔を拭きながら、少し目をつり上げて母親が言う。それにこくりと頷き、一度目をつぶる。

 小さな溜め息と、遠ざかる小さな足音がして、母親がそっと離れていくのを感じる。ちらりと目を空け、母親がテーブルに置いたらしい開かれた本を見遣る。


(お弁当の、本?)


 美邑や父親のために、レパートリーを増やそうとしているのか。嬉しさと妙な気恥ずかしさが、心をくすぐる。


「……お母さん」

「なに?」


 座っていた席に戻った母親が、美邑を振り返る。


(あたし、お母さんの本当の子、だよね?)


 喉元まで出かかった言葉は、しかし、心配そうに眉を寄せた母親の顔を見た途端、固まってしまった。


「……えっ、と」

「どうしたの? 辛い?」


 身をのりだしかける母親に「大丈夫」と手を振り、代わりの言葉を探す。脈打ち痛む頭に、ぼんやりとした言葉が浮かんでは消える。


「お母さんは……あたしが、小さい頃のことって……覚えてる?」


 ようやく出たのは、そんな言葉だった。きょとんとする母親から、「いや」と目を手で覆って隠す。


「急に、ごめん。その……特に、意味はないんだけど」

「別に……良いけど」


 くすり、という小さな笑い声が聞こえた。美邑が手を避けてちらりと見ると、母親は少し困ったような笑顔で、美邑をじっと見つめていた。


「小さい頃、って言ってもねぇ。なに話したら良いか分かんないけど。そうだなぁ……生まれる直前まで逆子で、ぎりぎりで直ったと思ったら、今度はなかなか出てこなくて」


 そう言いながら、母親は少し遠い目をして、自分の腹をさすった。くすりと、笑みを深くする。


「お父さんはお父さんですごい慌てちゃってね。ようやく生まれたときは、あたしより先に泣き出すし」

「へぇ……」


 初めて聞く話に、美邑は頭痛も忘れて顔を上げた。「良いからちゃんと寝てなさい」と注意され、慌てて体勢を戻す。

 生まれたときのこと。よく考えれば、アルバムだってあるのだから、疑いようもないことだったのかもしれない。自分が、父と母の子でないかもしれないだなんて、混乱した頭の妄想だ。


「それに、ほら。小さい頃と言えば。やっぱり一番はあれかな。美邑が、夏休み中に神社で迷子になったこと」


 それを聞いた途端、美邑ははっと身体を固くした。


「……小一のときの?」


 美邑が訊くと、間髪入れず「そうそう」と肯定が返ってくる。
 また、胸がドキリと鳴った。
 あの夏の日のことだ。化け物と呼ばれることになった、あの夏。


「あたし……よく、覚えてなくて」

「あのときもあんた、なにも覚えてないって、言ってたもんねぇ」


 しみじみとした口調で、母親が言う。話すことに気をとられ、テーブルの上の本は閉じられていた。閉じた本には、付箋がたくさん貼られているのが、離れた場所からでも分かった。


「神社で遊んで来るって出ていって。夕方になっても帰ってこなくて。電話したら、もうずっと見当たらないから、帰ったと思われてて……ほんと、焦ったんだから。いろんな人たちが、探すの手伝ってくれてさ」

「あたし……神社にいたこととか、目を覚ましたときのことはなんとなく……覚えてるんだけど。それ以外は全く……」


 「どうやって見つかったんだっけ」と訊くと、母親は眉にシワを寄せた。前髪をかき揚げ、じっと美邑を見つめる。その視線に美邑が身じろぎすると、母親は一つ息を漏らし、話を続けた。


「……すっかり真っ暗になった頃。そうね、ちょうど拝殿の奥でね。こう……御神鏡を抱っこする感じで、横になっていたのよね」

「御神鏡を……」


 「そうそう」と頷きながら、母親はもう一つ溜め息をついた。


「みんなして、神隠しだとか、いや神様が見つけてくださったんだとか。いろいろ言っててね。あたしもお父さんも、とにかく頭がいっぱいいっぱいで、そんなこと考えてる余裕もなかったけど」


 「なんだったのかな、本当に」――そう、母親は曖昧に笑い、本を開き直した。


(御神鏡……)


 天井をぼんやりと見つめる。頭の中を巡るのは、神社で聞いた話と、今の話だ。


(御神鏡には、蛇鬼たちが封じられてて……小さい頃のあたしは、その御神鏡を抱き締めた状態で、行方不明から発見された)


 幼い頃から、他の子どもより強かった力――それが急激に増したのは、その行方不明事件の直後からだった。だからこそ、美邑はあの事件を機に、「化け物」扱いされるようになった。

 それが、鬼の仕業なのだとしたら?


(あの、行方不明のときに……なにかがあった……?)


 目が合った御神鏡。本当に言い伝え通り、あそこに鬼たちがいるのだとしたら。


「……ッ」


 ずきりと、一際強く頭が痛んだ。思わず抑えると、こめかみの少し上に、ぽこりと突き出たものが手に触れた。しかも、左右両方。


「え……」

「どうかしたの?」


 訊ねてくる母に、「なんでも……」と首を振り、立ち上がる。ぱたぱたと小走りに廊下へ出ると、後ろから「もう大丈夫なのっ?」と声が追いかけてきた。だが、答えている余裕はない。

 洗面所に入る。正面の鏡に、真っ青な顔をした美邑が映る。髪を掻き分け、出っ張っている部分を確認すると、真珠色の突起が一センチ程、顔を覗かせていた。

 思い出したのは、朱金丸から渡された、面。


「鬼の……角」


 朱金丸や昊千代のように立派なものではないが、確かに角だ。角が二本、慎ましくも生えてきたというのは。


「いや……」


 叫びだしそうになる口に手を突っ込み、ぐっと抑える。


(大丈夫、大丈夫、大丈夫……大丈夫、だから。落ち着かないと、考えないと)


 やはり、鬼に成るという話は、夢などではなかったのだ。このままでは、自分は鬼になってしまうのだ。

 だが――ただ狼狽えた先日よりも、分かったことがある。
 少なくとも、自分は元々は人間であったのに違いないのだ。あの母親の様子からして、嘘をついているようには到底思えない。
 そして、そうなのだとしたら――神主の語った言い伝えは、おそらく本当なのだ。鬼がこうして、実在するのだから。


(りっくんはやっぱり、信じないだろうけど)


 現実主義者な幼馴染みを思い出し、小さく笑う。
 理玖は、美邑のこの角を見たら、なんと言うだろうか? できものかなにかだと思い込んで、病院に行けとでも言われるかもしれない。
 そして――本当にそのうち、美邑が完全な鬼になってしまったとしたら。そのときは。


(あたしの存在自体を――夢かなんかだと思って、認めてくれなくなっちゃうのかな)


 美邑自身が、鬼になるということを夢だと思いたかったように。


「まぁ、それよりコスプレって言われそうな気がするけど……」


 そう考えるとなんだか可笑しな気分になり。くすっと笑い、美邑は改めて鏡を見た。

 白く短い角は、確かに美邑の頭から生えている。
 紅くなった右目。生えてきた角。果たして――人間でいられるのは、あとどれくらいのことなのだろうか。


「……こわい」


 呟いた声は、思いのほかに震えていたが。美邑は髪の毛で角を隠すと、きっと鏡を睨んだ。


「でも、負けない」


 なにに負けない、というのか。それは、美邑自身にもよく分からなかったが。


(お母さんとお父さんが、ほんとのお母さんとお父さんだって分かったのに。それを……簡単に諦めたりなんか、できない)


 蛇口を捻り、勢いよく水を出すと、ばしゃりと思いきり顔を洗った。ひんやりとした水温が、頭をしゃきりと動かし始める。

 濡れた自分を鏡越しににらみやり、美邑は水気をタオルで乱暴に拭うと、ぱたぱたと洗面所を後にした。
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