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第七章 紅い目
7-1 もや
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頭痛がようやくおさまったのは、朝のホームルームが終わる頃だった。
机に肘をつきながら、額を抑えていた美邑は、引いていく痛みにほぅと息をついた。
ちらりと、時間割りを眺める。一時限目は化学だ。確か、今日は理科室での実験だとか言っていたか。正直、今日はすでに体力と精神力を使いきってしまい、その上で実験など億劫で仕方がない。
ホームルームが終わると、お喋りに興じながら準備をするクラスメイトたちに混じり、のたのたと教科書とノート、資料集などをロッカーから取り出す。
化合物の名称だのモルだの、将来なんの役に立つのかは分からないし、フルカラーの資料集はやけに分厚く重たいが、美邑は化学が嫌いではなかった。ただ、やはり今日は身体が重く、可能なら保健室でも行ってさぼってしまいたい誘惑にかられる。
(そんなことしたところで、見透かされてすぐに追い出されるかな……)
そんなことを思いながら、生徒の流れにのって教室を出る。美邑たちの教室は三階にある。二年は二階、三年は一階と、学年が上がるにつれて、階が下がっていく、少々変則的な教室配置だ。そして理科室は、反対側の棟の二階。一度階段を降りて、渡り廊下を通らねばならない。その道のりがまた、億劫である。
お喋りしながら笑っているクラスメイトたちの後ろを歩いていると、階段の踊り場に黒いもやが見えた。
(なんだろ……?)
階段を降りながら、ぼんやりと首を傾げる。煙のように見えるが、近くに火の元はなく、もやも一ヶ所にまとまって広がる様子もない。
(煙じゃ……ない?)
前を行く三人組は、気づいた様子もない。よく見ようと、目をすがめたときだった。
「……っ!?」
激しい痛みが、右目を襲う。バランスを崩し、手すりにつかまろうと伸ばそうとした手は、しかし教科書と資料集を抱えていることで、とっさの判断が遅れた。そのまま、階段の下へと転がり落ちる。
「川渡さん、大丈夫っ?」
そう、慌てて駆け寄ってきたのは、前を歩いていた三人組だった。床に強かに背中を打ちつけ、返事できないでいると、両脇を支えて起こしてくれた。
「ぅ……」
口内が切れている。喉の奥に入り込んできた鉄臭い味に、吐き気がする。間抜けなことに、教科書と資料集はしっかり握りしめていた。
「うわぁ……痛そう」
クラスメイトの一人が呟く。そうか、自分は端から見てそんなに痛そうなのかと、ぼんやり、そんなことを思う。
「あ――右目」
別の一人が、悲鳴じみた声を上げた。
「真っ赤になってる。どこか、切れたのかな」
口々に他の二人も、「ほんとだ」と覗き込んでくる。
「やばいよ。保健室行った方が良いかも」
「うちら、付き添うよ?」
「ん……ありが、と」
声を搾り出しながら、小さく首を振る。ずきりと、また右目が痛んだ。本当に、どこか近くが切れているのかもしれない。
手すりにもたれ立ち上がると、なんとか身体を支えることができた。どうにか、歩けそうだ。
「あたし……一人で、大丈夫そうだから。先生にだけ、言っておいて」
「そう? また、転ばないようにね?」
「教科書、持っていってあげるよ。授業に間に合わなかったら、教室に戻しとくし」
確かに、教科書を抱えたままでは少し歩きづらかった。「ありがとう」と申し出に甘え、両手が空くと、身体を支えるのも少し楽になった。
「びっくりしたね」と喋りながら去っていく三人の後を、ゆっくりとまた歩き出す。もやに目を遣ろうとするも、また目がずきりと痛み、止めておいた。
保健室に着くと、養護教諭が驚いた顔をして迎えてくれた。階段から落ちたことを話すと、「川渡さんて、意外とおっちょこちょいなんだ」と言いつつ、てきぱきと手当てを施してくる。膝に貼られた湿布が冷たく、心地好い。
「あと、目もズキズキして」
「目? 見せて」
言われ、痛みに閉じていた目をゆっくりと開くと、養護教諭はまたもや驚いた顔をした。
「赤くなってる……でも」
そう眉を寄せて、じっと目を覗き込んでくる。薬棚の隣から手鏡を取り出すと、美邑に手渡してきた。
「普通、目の近くの血管が切れると、白目が赤くなるんだけど……ちょっとこれは、眼科で診てもらった方が良いかも」
促されるままに鏡を覗くと、少し疲れた顔をした自分がいた。確かに、目が赤い。正確には、瞳が真っ赤に染まっている。
養護教諭はその間に、パソコンをいじりながらメモを書いていた。手鏡と引き換えるように、そのメモを手渡してくる。
「これ。学校の近くの眼科だから。今日は早退して、寄って帰りなさい」
「早退……ですか」
保健室で休みたいとは思ったが、まさか早退になるとは。家からここに来るまでの時間や手間を考えると、一時限目にすら参加せず早退というのは、少し損した気分だ。
(ま。病院行ったら、少しぶらぶらしてから帰れば良いか)
転んだときの衝撃であちこち痛みはするが、街中をウインドウショッピングする楽しみがあれば、なんてことはない。
「分かりました」と愁傷に頷き、美邑はメモを受け取った。
机に肘をつきながら、額を抑えていた美邑は、引いていく痛みにほぅと息をついた。
ちらりと、時間割りを眺める。一時限目は化学だ。確か、今日は理科室での実験だとか言っていたか。正直、今日はすでに体力と精神力を使いきってしまい、その上で実験など億劫で仕方がない。
ホームルームが終わると、お喋りに興じながら準備をするクラスメイトたちに混じり、のたのたと教科書とノート、資料集などをロッカーから取り出す。
化合物の名称だのモルだの、将来なんの役に立つのかは分からないし、フルカラーの資料集はやけに分厚く重たいが、美邑は化学が嫌いではなかった。ただ、やはり今日は身体が重く、可能なら保健室でも行ってさぼってしまいたい誘惑にかられる。
(そんなことしたところで、見透かされてすぐに追い出されるかな……)
そんなことを思いながら、生徒の流れにのって教室を出る。美邑たちの教室は三階にある。二年は二階、三年は一階と、学年が上がるにつれて、階が下がっていく、少々変則的な教室配置だ。そして理科室は、反対側の棟の二階。一度階段を降りて、渡り廊下を通らねばならない。その道のりがまた、億劫である。
お喋りしながら笑っているクラスメイトたちの後ろを歩いていると、階段の踊り場に黒いもやが見えた。
(なんだろ……?)
階段を降りながら、ぼんやりと首を傾げる。煙のように見えるが、近くに火の元はなく、もやも一ヶ所にまとまって広がる様子もない。
(煙じゃ……ない?)
前を行く三人組は、気づいた様子もない。よく見ようと、目をすがめたときだった。
「……っ!?」
激しい痛みが、右目を襲う。バランスを崩し、手すりにつかまろうと伸ばそうとした手は、しかし教科書と資料集を抱えていることで、とっさの判断が遅れた。そのまま、階段の下へと転がり落ちる。
「川渡さん、大丈夫っ?」
そう、慌てて駆け寄ってきたのは、前を歩いていた三人組だった。床に強かに背中を打ちつけ、返事できないでいると、両脇を支えて起こしてくれた。
「ぅ……」
口内が切れている。喉の奥に入り込んできた鉄臭い味に、吐き気がする。間抜けなことに、教科書と資料集はしっかり握りしめていた。
「うわぁ……痛そう」
クラスメイトの一人が呟く。そうか、自分は端から見てそんなに痛そうなのかと、ぼんやり、そんなことを思う。
「あ――右目」
別の一人が、悲鳴じみた声を上げた。
「真っ赤になってる。どこか、切れたのかな」
口々に他の二人も、「ほんとだ」と覗き込んでくる。
「やばいよ。保健室行った方が良いかも」
「うちら、付き添うよ?」
「ん……ありが、と」
声を搾り出しながら、小さく首を振る。ずきりと、また右目が痛んだ。本当に、どこか近くが切れているのかもしれない。
手すりにもたれ立ち上がると、なんとか身体を支えることができた。どうにか、歩けそうだ。
「あたし……一人で、大丈夫そうだから。先生にだけ、言っておいて」
「そう? また、転ばないようにね?」
「教科書、持っていってあげるよ。授業に間に合わなかったら、教室に戻しとくし」
確かに、教科書を抱えたままでは少し歩きづらかった。「ありがとう」と申し出に甘え、両手が空くと、身体を支えるのも少し楽になった。
「びっくりしたね」と喋りながら去っていく三人の後を、ゆっくりとまた歩き出す。もやに目を遣ろうとするも、また目がずきりと痛み、止めておいた。
保健室に着くと、養護教諭が驚いた顔をして迎えてくれた。階段から落ちたことを話すと、「川渡さんて、意外とおっちょこちょいなんだ」と言いつつ、てきぱきと手当てを施してくる。膝に貼られた湿布が冷たく、心地好い。
「あと、目もズキズキして」
「目? 見せて」
言われ、痛みに閉じていた目をゆっくりと開くと、養護教諭はまたもや驚いた顔をした。
「赤くなってる……でも」
そう眉を寄せて、じっと目を覗き込んでくる。薬棚の隣から手鏡を取り出すと、美邑に手渡してきた。
「普通、目の近くの血管が切れると、白目が赤くなるんだけど……ちょっとこれは、眼科で診てもらった方が良いかも」
促されるままに鏡を覗くと、少し疲れた顔をした自分がいた。確かに、目が赤い。正確には、瞳が真っ赤に染まっている。
養護教諭はその間に、パソコンをいじりながらメモを書いていた。手鏡と引き換えるように、そのメモを手渡してくる。
「これ。学校の近くの眼科だから。今日は早退して、寄って帰りなさい」
「早退……ですか」
保健室で休みたいとは思ったが、まさか早退になるとは。家からここに来るまでの時間や手間を考えると、一時限目にすら参加せず早退というのは、少し損した気分だ。
(ま。病院行ったら、少しぶらぶらしてから帰れば良いか)
転んだときの衝撃であちこち痛みはするが、街中をウインドウショッピングする楽しみがあれば、なんてことはない。
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