千切れた心臓は扉を開く

綾坂キョウ

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第五章 「家族」

5-2 カレー

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 カレーの香りに目を覚ました美邑は、大きく欠伸をしながら階段を降りた。


(変な夢だったなぁ)


 頭の中だけで、そっと呟く。おそらく、あの不審者と昨日のモモとの会話が原因だろう。


「モモが人柱がなんだとか言い出すから……あ、おはよ」


 ちょうど、台所から顔を出した母親と目が合った。軽くパーマをあてた髪は緩くカールし、肩で揃えられている。
 母親は少し困ったような顔をして「おはよう」と挨拶を返してきた。


「どうかした?」

「え? あ、ううん。朝ごはん、昨日の残りのカレーなんだけど、納豆あと一つしかなくて」

「あ、じゃああたしがパンで食べるから、納豆はお父さんにあげていいよ」


 母親が「そう?」と頷き、鍋に戻る。美邑も台所に入り、パンをトースターにセットした。黒いつまみを回すと、トースターの中が赤く染まる。


「ねぇ、あんたまだ……モモちゃんと仲良くしてるの?」


 冷蔵庫からバターを取り出していると、鍋をかき混ぜながら母親が訊いてきた。


「うん。なんでー?」

「別に……高校上がっても、仲良しなんだなって思って。よく会うの?」

「うん、昨日も一緒に帰ったし」


 美邑の言葉を聞き、母親は「そう」と頷きながら火をとめた。ほとんど同時に、トースターがチンと音を鳴らす。

 きつね色に焼けたパンに、バターを軽く押しつける。じわりと溶けたバターが、パンの表面を滑っていく。
 納豆卵カレーも好きだが、バターがたっぷり溶けたパンに、カレーを浸して食べるのも、また乙なものだ。口の中で、バターとカレーの旨味が合わさってじわりと広がり、癖になる。


「じゃあ、これ持ってって」


 母親が、盆にカレーの入った小皿一枚と、ごはんと共によそられた大皿を二枚、空の皿一枚と、トッピングの納豆と卵を一つずつ載せる。美邑はできたてのトーストを空の皿に載せ、重い盆を持って居間へと向かった。

 居間では、父親が身支度を調えていた。林業の会社に勤めているため、スーツではなく作業着姿で、「おはよう」と美邑に笑いかけてくる。


「おはよ。朝はカレーだよ」

「良い匂いだなぁ。母さんのカレーは、三食食べても飽きないからなぁ」

「そう言うと思って、お昼のお弁当のジャーにも、カレー入れといたから」


 母親が、別の盆に三人分の飲み物とスプーンとを入れて、運んできた。
 母親の言葉に、父親は「分かってるなぁ」と呟き、にこにこしながら靴下をはく。


「いっただきまーす」


 席についた美邑が、一番に手を合わせて言うと、大人二人がそれに続いた。
 父親は卵をカレー皿に割り入れ、納豆はパックの中でよくかき混ぜてからごはん部分にかけた。元が体育会系な父は、「これが一番力が出るんだ」と、カレーの度に同じトッピングをする。おかげで、幼い頃からそれを真似ていた美邑も、すっかり癖になってしまっていた。

 だがパンのときは別だ。たっぷりとバターが染み込んだ食パンを千切り、ルーの入った小皿に浸す。そうして頬張ったカレーの味は、一晩経ったことで昨夜よりも旨味が増したように感じるから不思議だ。


「そう言えば美邑、まだモモちゃんと仲良いんだって」


 ノーマルにカレーを食べながら、母親が父親に話しかけた。「へぇ」と頷き、父親が牛乳を口にする。


「モモちゃんとは、どんな話をするんだ?」

「別に、テレビの話とか……あ、昨日は夕飯の話したら、モモもうちのカレー食べてみたいって言ってたよ。納豆と卵入れるのにも、挑戦したいって」

「そうかそうか」


 父親は頷き、軽く頭を掻く。それから、スプーンに皿の中身をたっぷりとすくい、口の中いっぱいに頬張った。


「あたしのお弁当もカレー?」

「カレーもちょっと入ってるけど、美邑のはハンバーグがメイン。前に、作り置きして冷凍しておいたのがあったから」

「やった」


 食パンを口いっぱいに詰め込みながら、思わず拍手する。本当に、母親は美邑の食のツボを押さえている。


「そこまで喜んでもらえると、作りがいがあるな」


 母親がちらりと目配せしながら呟いた。それを受け取った父親は両手を合わせながら、「いや、お母さんのお弁当のおかげで、毎日仕事できてるようなもんだからね。うん」などとのたまう。
 両親の遣り取りに美邑は笑い、「ごちそうさま」とコップの中身を飲み干した。

 歯を磨き、家を出ようと靴を履いていると、父親が同じようにやってきた。見送りに来た母親に、二人で「いってきます」と手を振り、玄関を出る。


「学校は、楽しいか?」


 車に向かって歩きながら訊ねてきた父親に、美邑は「どうしたの急に」と、自転車の鍵を開けながら笑った。昨日外れたチェーンは、父親が直しておいてくれたため問題なさそうだ。スタンドから外し、門まで押す。


「そりゃ……気になるだろ。違う市だし、馴れないことも多いだろうから、ストレスとかあるんじゃないかとか」

「中学までに比べたら随分マシだよ。それに、モモもいるしね」


 父親が、「そうか……」と小さく呟くのが聞こえる。中学まで美邑が、級友たちから化け物呼ばわりされていたことを、思い出しているのかもしれない。


「ほんとに、大丈夫だから」


 そう一言付け加えると、美邑は自転車に跨がり、後ろ手に手を振りながら漕ぎ出した。
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