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第一章 望郷と憧憬
1. 望郷と憧憬(2)
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山岡みそらが所属するのは声楽の木村門下だ。木村先生はプロとして演奏活動も行っている。門下に所属する人数は多くないものの、各個人のレベルが高いのが木村門下だ。コンクールなどにもコンスタントに生徒を送り込んでいて、だからこそこういったことを言われるのも時間の問題だろうとは思っていた。
「……学内選抜ですか」
プリントされた用紙に記載されている内容は、すでに知っている。しばらく前から掲示板などにも張り出されていたのを何度も確認したのだ。
とはいえ、それは一部の門下の、一部の生徒にしか関わりのないことだとみそらは考えていた。
「なんだと思っていたんだ?」
日本語で表現するなら、語尾は「だ?」だけれど、音にするなら「だい?」が近い。ここで「だい?」なんて語尾でさまになるのが、みそらの担当講師だ。みそらは若干尻込みしながらも正直に言った。
「学外のコンクールかと思ってました」
「ああ、それは来年だね」
来年出るのは決定なのか、と思ったが、先生はそこに突っ込む隙を与えてくれなかった。木村先生の声が、バリトンがもつ絶対的な支配者の響きを帯びる。
「みそらはどうして、自分が声をかけられないと思ったのかな」
「それは……」
みそらは少しためらった。言っていいものか、さすがに迷う。けれど、ここではぐらかしても先生にはばれるだろうと思った。先生という人種はなぜかもれなく生徒の嘘に敏い。
「学内選抜は飯田門下の独壇場かなと思ってたもので」
飯田門下とは、飯田教授を擁する声楽の一門のことだ。学内の声楽専攻では一家言を持つらしく、事実特待生から外部コンクールの入賞者まで実績は多岐にわたる。中でも某コンクールは飯田門下ではないと一次通過も難しいと学生の間ではもっぱらの噂で、声楽専攻の唯一嫌なところは、この門下至上主義だとみそらはこっそり思っている。
ためらった割に素直なみそらの言葉に、しかし木村先生はふむとうなずいた。
「きみの考えもわからなくはないが、せっかく舞台に立てる機会があるというのに、敵前逃亡なんてみっともないと思わないか」
「敵前逃亡って」
みそらはちょっと呆れた。
「先生でも日本人ぽいこと言うんですね」
どこか斜め上なみそらの感想に、けれど担当講師は涼しい顔だった。
「何を言うんだ。僕はいつだって日本人だよ」
「……ご冗談を」
「冗談ではないよ。僕らはいつだって、日本人の心を歌っている。日本人はイタリア語のオペラ・アリアを歌えるが、イタリア人は日本歌曲を歌えない。そういうことだよ」
みそらは瞬いた。冗談で返されると思ったのに、――先生は本当にわたしにこれを受けさせようとしているんだ。
みそらが口をつぐんでじっと自分を見ているのを認めると、担当講師はゆったりと微笑んだ。五十歳を間近に控えた、余裕ある大人の笑みだった。
「申込みは後期が始まってからだから、それまでに決めればいい。僕としては『ミミ』あたりが妥当だと思っているけど」
先月までやっていたプッチーニのオペラに出てくるアリア『私の名前はミミ』のことで、当時はそう言われなかったもののこれを見越しての課題だったのだろう。みそらはもう一度プリントに視線を落とした。
前期も終わりに差し掛かかるとちらほらと講義の変更があり、この時、伴奏担当の諸田(もろた)は一緒に来ていなかった。
「……念のため、諸田さんにも確認をしたいんですが」
「ああ、そうだね、あちらも選抜に出るなどがあれば、伴奏者の変更なども考えないといけないし。とりあえずは日本歌曲の前に、まだまだイタリア・オペラが待っているよ」
にこやかに言うと、先生は立ち上がって、じゃあ今日は僕が伴奏だねと嬉しそうにピアノの前に移動した
「……学内選抜ですか」
プリントされた用紙に記載されている内容は、すでに知っている。しばらく前から掲示板などにも張り出されていたのを何度も確認したのだ。
とはいえ、それは一部の門下の、一部の生徒にしか関わりのないことだとみそらは考えていた。
「なんだと思っていたんだ?」
日本語で表現するなら、語尾は「だ?」だけれど、音にするなら「だい?」が近い。ここで「だい?」なんて語尾でさまになるのが、みそらの担当講師だ。みそらは若干尻込みしながらも正直に言った。
「学外のコンクールかと思ってました」
「ああ、それは来年だね」
来年出るのは決定なのか、と思ったが、先生はそこに突っ込む隙を与えてくれなかった。木村先生の声が、バリトンがもつ絶対的な支配者の響きを帯びる。
「みそらはどうして、自分が声をかけられないと思ったのかな」
「それは……」
みそらは少しためらった。言っていいものか、さすがに迷う。けれど、ここではぐらかしても先生にはばれるだろうと思った。先生という人種はなぜかもれなく生徒の嘘に敏い。
「学内選抜は飯田門下の独壇場かなと思ってたもので」
飯田門下とは、飯田教授を擁する声楽の一門のことだ。学内の声楽専攻では一家言を持つらしく、事実特待生から外部コンクールの入賞者まで実績は多岐にわたる。中でも某コンクールは飯田門下ではないと一次通過も難しいと学生の間ではもっぱらの噂で、声楽専攻の唯一嫌なところは、この門下至上主義だとみそらはこっそり思っている。
ためらった割に素直なみそらの言葉に、しかし木村先生はふむとうなずいた。
「きみの考えもわからなくはないが、せっかく舞台に立てる機会があるというのに、敵前逃亡なんてみっともないと思わないか」
「敵前逃亡って」
みそらはちょっと呆れた。
「先生でも日本人ぽいこと言うんですね」
どこか斜め上なみそらの感想に、けれど担当講師は涼しい顔だった。
「何を言うんだ。僕はいつだって日本人だよ」
「……ご冗談を」
「冗談ではないよ。僕らはいつだって、日本人の心を歌っている。日本人はイタリア語のオペラ・アリアを歌えるが、イタリア人は日本歌曲を歌えない。そういうことだよ」
みそらは瞬いた。冗談で返されると思ったのに、――先生は本当にわたしにこれを受けさせようとしているんだ。
みそらが口をつぐんでじっと自分を見ているのを認めると、担当講師はゆったりと微笑んだ。五十歳を間近に控えた、余裕ある大人の笑みだった。
「申込みは後期が始まってからだから、それまでに決めればいい。僕としては『ミミ』あたりが妥当だと思っているけど」
先月までやっていたプッチーニのオペラに出てくるアリア『私の名前はミミ』のことで、当時はそう言われなかったもののこれを見越しての課題だったのだろう。みそらはもう一度プリントに視線を落とした。
前期も終わりに差し掛かかるとちらほらと講義の変更があり、この時、伴奏担当の諸田(もろた)は一緒に来ていなかった。
「……念のため、諸田さんにも確認をしたいんですが」
「ああ、そうだね、あちらも選抜に出るなどがあれば、伴奏者の変更なども考えないといけないし。とりあえずは日本歌曲の前に、まだまだイタリア・オペラが待っているよ」
にこやかに言うと、先生は立ち上がって、じゃあ今日は僕が伴奏だねと嬉しそうにピアノの前に移動した
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