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アンドロイドと心中しようか 3
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恵が家に来てくれてから、もう2年も経つ。この日、幸次は足早に帰宅した。夕飯を共に食べた後、デートする予定があるからだった。
恵はローストビーフを作ってくれていた。日は完全に落ちている。
「一緒に行きたい店があるんだ」
食事を終えて一息ついてから幸次が言った。恵は微笑みを返してから着替えに行った。
その店は路地の奥にひっそりとある。外壁は煉瓦でつくられていて、物静かだった。看板も無く、ただ木製の扉にOPENと書かれた白いプレートが掛けられている。
幸次が扉を開けて、恵に入店を促した。店内はランプの光で橙色に明るい。正面右奥にレジカウンターがあって、周囲の壁にはいくつもの絵が飾られていた。壁に掛けられた絵も、棚に平積みされた絵もサイバーパンクの現代アートがほとんどだった。
中にはアンドロイドが描いたと分かるものもある。アンドロイドやAIが作った作品はそのように作中に明記しなければならなかった。
「おもしろいわ」
見渡しながら恵が言った。人間でいうトコロの脳に搭載された、検索機能を使って作家たちを調べている様子だった。
「紹介したい絵があるんだ」
2人は腕を絡ませながら、オーナーの居るカウンターへ向かった。
「いらっしゃい」
白髪に白いひげを貯えた老人が穏やかに言った。
「こんばんは。例の複製画、届いていますか?」
幸次がそう尋ねると、老紳士風のオーナーは無言でカウンターの下から額縁に入った絵を取り出して見せた。縦30㎝、横40㎝程の絵画である。
額縁の中では中央にブロンド髪の女性が立ち、彼女の背後が鏡になっていた。女性の後ろ姿が鏡に映っている。鑑賞者も思わず自分の背後を見てしまう様な作品だと幸次は思った。
恵が尋ねる。
「この絵は……」
「こちらはマネの『フォリー・ベルジェールのバー』。その複製画です」
恵が検索機能を働かせようとしたのを幸次は感じた。
「待って」
幸次が言うと恵はすぐに検索しようとするのを止めた。
「どう? この絵」
恵は人間がするように、左手を唇に当てながら考え始めた。
「そうね。この絵は……。とても繊細に描かれていると思うわ。細部まで手を抜いていないって分かるもの。それに……。何か苦しみを感じるわ。この女性の表情か、それともこの服の黒色が私にそう思わせているのかも」
「この絵はマネが晩年に描いた作品なんだ。この頃の彼は左脚を悪くしていたし、それで君は苦しみを読み取ったのかも」
実際にマネがどう思って描いたのかは分からない。ただこの会話のやり取りに価値があると幸次は思った。
「飾るならどこかな?」
「ダイニングなんてどう?」
2人のやり取りを優しげな眼で老紳士のオーナーが見つめていた。
「買わせていただきます」
幸次は一昔前まで一般的に使われていた財布を出した。紙幣でのやり取りには趣がある。この老紳士は休日にでも銀行へ行って紙幣を電子化するのだろう。
幸次が老紳士を見る。彼は笑っていた。
「いえ……。なんだか懐かしく思いましてね」
2人は絵を受け取り暗い夜の中、店を出て家路につこうとしていた。
「あれ? 目黒さん?」
突然声を掛けられた。声の主の正体はすぐに分かった。
幸次より少し年下のヤマモトという男だ。幸次が営業部に居た頃の同僚である。
「あっ……。と……。ヤマモトくんか……」
歯切れの悪い幸次に恵が助け舟を出す形で話しかけた。
「こんばんは。妻の恵です。夜遅くにお一人で……。お帰りの途中でしたか?」
「えっ? いやぁ、アレですよ。アレ。男の楽しみってヤツです。ハハハ……。奥さんを前にお恥ずかしい」
ヤマモトは昔から独身生活を謳歌していた。女遊びの噂が絶えない男だった。根が善良なのは知っている。それに同僚だった頃は数少ない人間の話し相手の1人だった。分け隔てなく人に接する人間である事を幸次は良く知っている。
しかしタイミングが悪い。職場の人間には結婚しているなどとは言っていない。いや言えないのだ。
「アレ? アレってなんのことですか?」
「い、いやだなぁ奥さん。そうイジワルしないでくださいよ。オレ、独身ですし」
ヤマモトは自虐的に言ったが、恵には本当に何のことだか分かっていなかった。
アレという言葉が抽象的で、冗談としても捉えることができていなかった。この状況でアレ、と言えば”相手用”のアンドロイドから性的なサービスを受けていたのだと、大人ならばすぐに分かる。
しかし恵の顔には困惑の色が浮かぶばかりだった。
恵の顔を不思議そうに見るヤマモト。人間との会話が上手くいかなかった経験などヤマモトにはほとんどない。何か違和感がある。逡巡の後、彼は1つの答えに行きついた。
「違うんだ。ヤマモトくん」
口から出たのは、妻を否定しかねない悪意を含んでしまった言葉だった。
「待ってください。大丈夫、大丈夫です。目黒さん」
当惑し、酔いの冷めた様子でヤマモトが言った。彼は掌を胸のあたりに当て、自分を落ち着かせようと試みていた。
恵だけが状況を飲み込めていなかった。
「その……なんて言えばいいか」
「大丈夫です。目黒さん。ホント、ホントに。俺は……。なんて言うか目黒さんと働いてた時、気持ちが楽でした。悪い意味じゃなくて、アンドロイドと上手くやろうとする目黒さんが新鮮だったし……。なんと言うか目黒さんが優しくて、だから」
暫く沈黙が続いた。
「だから、今日の事は忘れます。目黒さん……。俺はあなたを否定するつもりはありません。今までもそうでしたし、これからも」
ヤマモトは背を向けてこの場を去った。呆然とする幸次の隣で、ようやく恵は理解した。
その晩、幸次は眠れなかった。買った絵は紙袋に入ったままソファーの上に捨て置かれている。
ヤマモトは他人に何かを言い触らす様な男ではない。だから大丈夫。そう思ってから暫くすると、いや誰かに言い触らすのではないか、社内で噂になってしまうのではないかと不安になった。
アンドロイドと交際していることが発覚すれば、犯罪者予備軍として扱われるのではないか。いや自分と恵の関係は交際の域を超えている。実際は夫婦として暮らしているのだ。世間にバレたらどうなるか。
何度ベッドの上で寝返りを打っても不安は消えない。大丈夫。いや駄目だ。交互に行き来する2つの感情が幸次の心にのしかかる。するとあの悪魔の囁きが耳に蘇る。
”死んだらどうだ?”
心臓が凍り付くと同時に目を見開いた。
あの頃の感覚だ。誰にも理解されず、孤独で、周囲が全て敵になるような将来しか描けない状態。とたんに人生が恐ろしくなった。
軽いノックの音がした。
「大丈夫ですか?」
寝室の扉がゆっくりと開く。
パジャマ姿の恵だった。帰るなり全てを差し置いて、幸次はベッドへ逃げ込んでいた。それを恵が追いかけて来てくれた。
しかし安心と同時に、この妻が最大の泣き所でもあると思い直した。
幸次の黒い目に一瞬だけ、わずかながら憎しみの色が浮かんでしまった。恵は少しうつむいて、悲しい表情を見せた。
「ごめん」
幸次は憎しみの感情を脳内から引き剥がした。それから上半身を起こして妻を見た。
「私では駄目なのでしょうか。やっぱりアンドロイドと一緒に居るのは……」
ベッドの傍に立つ機械仕掛けの妻は、いまにも涙を流しそうだった。
「検索すると出るんです」
「なにが?」
極めて落ち着いた風を装って、幸次は聞き返す。
「私達と付き合ったり、結婚する人間は犯罪者予備軍だって。凶悪事件の犯人はみんなそうだって。でも幸次さんはそんな人じゃない。だから私が……。私が周りにそう思わせているのかも。今日会ったヤマモトさんだって」
幸次は下半身に掛かっている布団を跳ね除けて立ち上がり、恵に抱き着いた。幸次は右肩に冷たい雫の滴りを感じた。
「悪いのは僕だ。いや……。いや、きっと僕たちだけが悪くないんだ」
世間と自分たちの間に乖離がある。自分たちは自分たちだけで生きるしかない。悲壮な環境に身を置いて暮らしていることを、幸次は今夜思い知った。
「2人で居よう」
幸次は恵をベッドに誘った。2人が身を寄せ合って窮屈そうに寝る。
あの右肩に感じた雫は涙だったのだろうか。幸次は眠りに落ちる前に考えた。
アンドロイドに涙を流す機能はないはずだ。
シンギュラリティ。最近ホロ・ウォッチを賑わせているホットワードだ。アンドロイドが人間の想定を超えて進化するのではないか。そう言った議論が最近になって再度、活発化している。アンドロイド黎明期から40年経つ今になってなぜそんな議論が起こるのか。その理由は、ヨーロッパでのアンドロイドによる人間への暴行事件であり、南米でのアンドロイド脱走事件だった。
またこれらの事件が意図的に報道されていないのではないか、という陰謀論めいた噂もある。
アンドロイドは人間に対してどう考えているのだろうか。もし敵対的な感情をひっそりと抱いているとしたら。
幸次はそこまで考えて、思考を放棄した。結局のところ恵は恵であって他のアンドロイドと同じ考えを持っているかどうかは分からない。
幸次はそう結論付けて、恵と共に眠りに就いた。海中に沈む様な、深い睡眠だった。
恵はローストビーフを作ってくれていた。日は完全に落ちている。
「一緒に行きたい店があるんだ」
食事を終えて一息ついてから幸次が言った。恵は微笑みを返してから着替えに行った。
その店は路地の奥にひっそりとある。外壁は煉瓦でつくられていて、物静かだった。看板も無く、ただ木製の扉にOPENと書かれた白いプレートが掛けられている。
幸次が扉を開けて、恵に入店を促した。店内はランプの光で橙色に明るい。正面右奥にレジカウンターがあって、周囲の壁にはいくつもの絵が飾られていた。壁に掛けられた絵も、棚に平積みされた絵もサイバーパンクの現代アートがほとんどだった。
中にはアンドロイドが描いたと分かるものもある。アンドロイドやAIが作った作品はそのように作中に明記しなければならなかった。
「おもしろいわ」
見渡しながら恵が言った。人間でいうトコロの脳に搭載された、検索機能を使って作家たちを調べている様子だった。
「紹介したい絵があるんだ」
2人は腕を絡ませながら、オーナーの居るカウンターへ向かった。
「いらっしゃい」
白髪に白いひげを貯えた老人が穏やかに言った。
「こんばんは。例の複製画、届いていますか?」
幸次がそう尋ねると、老紳士風のオーナーは無言でカウンターの下から額縁に入った絵を取り出して見せた。縦30㎝、横40㎝程の絵画である。
額縁の中では中央にブロンド髪の女性が立ち、彼女の背後が鏡になっていた。女性の後ろ姿が鏡に映っている。鑑賞者も思わず自分の背後を見てしまう様な作品だと幸次は思った。
恵が尋ねる。
「この絵は……」
「こちらはマネの『フォリー・ベルジェールのバー』。その複製画です」
恵が検索機能を働かせようとしたのを幸次は感じた。
「待って」
幸次が言うと恵はすぐに検索しようとするのを止めた。
「どう? この絵」
恵は人間がするように、左手を唇に当てながら考え始めた。
「そうね。この絵は……。とても繊細に描かれていると思うわ。細部まで手を抜いていないって分かるもの。それに……。何か苦しみを感じるわ。この女性の表情か、それともこの服の黒色が私にそう思わせているのかも」
「この絵はマネが晩年に描いた作品なんだ。この頃の彼は左脚を悪くしていたし、それで君は苦しみを読み取ったのかも」
実際にマネがどう思って描いたのかは分からない。ただこの会話のやり取りに価値があると幸次は思った。
「飾るならどこかな?」
「ダイニングなんてどう?」
2人のやり取りを優しげな眼で老紳士のオーナーが見つめていた。
「買わせていただきます」
幸次は一昔前まで一般的に使われていた財布を出した。紙幣でのやり取りには趣がある。この老紳士は休日にでも銀行へ行って紙幣を電子化するのだろう。
幸次が老紳士を見る。彼は笑っていた。
「いえ……。なんだか懐かしく思いましてね」
2人は絵を受け取り暗い夜の中、店を出て家路につこうとしていた。
「あれ? 目黒さん?」
突然声を掛けられた。声の主の正体はすぐに分かった。
幸次より少し年下のヤマモトという男だ。幸次が営業部に居た頃の同僚である。
「あっ……。と……。ヤマモトくんか……」
歯切れの悪い幸次に恵が助け舟を出す形で話しかけた。
「こんばんは。妻の恵です。夜遅くにお一人で……。お帰りの途中でしたか?」
「えっ? いやぁ、アレですよ。アレ。男の楽しみってヤツです。ハハハ……。奥さんを前にお恥ずかしい」
ヤマモトは昔から独身生活を謳歌していた。女遊びの噂が絶えない男だった。根が善良なのは知っている。それに同僚だった頃は数少ない人間の話し相手の1人だった。分け隔てなく人に接する人間である事を幸次は良く知っている。
しかしタイミングが悪い。職場の人間には結婚しているなどとは言っていない。いや言えないのだ。
「アレ? アレってなんのことですか?」
「い、いやだなぁ奥さん。そうイジワルしないでくださいよ。オレ、独身ですし」
ヤマモトは自虐的に言ったが、恵には本当に何のことだか分かっていなかった。
アレという言葉が抽象的で、冗談としても捉えることができていなかった。この状況でアレ、と言えば”相手用”のアンドロイドから性的なサービスを受けていたのだと、大人ならばすぐに分かる。
しかし恵の顔には困惑の色が浮かぶばかりだった。
恵の顔を不思議そうに見るヤマモト。人間との会話が上手くいかなかった経験などヤマモトにはほとんどない。何か違和感がある。逡巡の後、彼は1つの答えに行きついた。
「違うんだ。ヤマモトくん」
口から出たのは、妻を否定しかねない悪意を含んでしまった言葉だった。
「待ってください。大丈夫、大丈夫です。目黒さん」
当惑し、酔いの冷めた様子でヤマモトが言った。彼は掌を胸のあたりに当て、自分を落ち着かせようと試みていた。
恵だけが状況を飲み込めていなかった。
「その……なんて言えばいいか」
「大丈夫です。目黒さん。ホント、ホントに。俺は……。なんて言うか目黒さんと働いてた時、気持ちが楽でした。悪い意味じゃなくて、アンドロイドと上手くやろうとする目黒さんが新鮮だったし……。なんと言うか目黒さんが優しくて、だから」
暫く沈黙が続いた。
「だから、今日の事は忘れます。目黒さん……。俺はあなたを否定するつもりはありません。今までもそうでしたし、これからも」
ヤマモトは背を向けてこの場を去った。呆然とする幸次の隣で、ようやく恵は理解した。
その晩、幸次は眠れなかった。買った絵は紙袋に入ったままソファーの上に捨て置かれている。
ヤマモトは他人に何かを言い触らす様な男ではない。だから大丈夫。そう思ってから暫くすると、いや誰かに言い触らすのではないか、社内で噂になってしまうのではないかと不安になった。
アンドロイドと交際していることが発覚すれば、犯罪者予備軍として扱われるのではないか。いや自分と恵の関係は交際の域を超えている。実際は夫婦として暮らしているのだ。世間にバレたらどうなるか。
何度ベッドの上で寝返りを打っても不安は消えない。大丈夫。いや駄目だ。交互に行き来する2つの感情が幸次の心にのしかかる。するとあの悪魔の囁きが耳に蘇る。
”死んだらどうだ?”
心臓が凍り付くと同時に目を見開いた。
あの頃の感覚だ。誰にも理解されず、孤独で、周囲が全て敵になるような将来しか描けない状態。とたんに人生が恐ろしくなった。
軽いノックの音がした。
「大丈夫ですか?」
寝室の扉がゆっくりと開く。
パジャマ姿の恵だった。帰るなり全てを差し置いて、幸次はベッドへ逃げ込んでいた。それを恵が追いかけて来てくれた。
しかし安心と同時に、この妻が最大の泣き所でもあると思い直した。
幸次の黒い目に一瞬だけ、わずかながら憎しみの色が浮かんでしまった。恵は少しうつむいて、悲しい表情を見せた。
「ごめん」
幸次は憎しみの感情を脳内から引き剥がした。それから上半身を起こして妻を見た。
「私では駄目なのでしょうか。やっぱりアンドロイドと一緒に居るのは……」
ベッドの傍に立つ機械仕掛けの妻は、いまにも涙を流しそうだった。
「検索すると出るんです」
「なにが?」
極めて落ち着いた風を装って、幸次は聞き返す。
「私達と付き合ったり、結婚する人間は犯罪者予備軍だって。凶悪事件の犯人はみんなそうだって。でも幸次さんはそんな人じゃない。だから私が……。私が周りにそう思わせているのかも。今日会ったヤマモトさんだって」
幸次は下半身に掛かっている布団を跳ね除けて立ち上がり、恵に抱き着いた。幸次は右肩に冷たい雫の滴りを感じた。
「悪いのは僕だ。いや……。いや、きっと僕たちだけが悪くないんだ」
世間と自分たちの間に乖離がある。自分たちは自分たちだけで生きるしかない。悲壮な環境に身を置いて暮らしていることを、幸次は今夜思い知った。
「2人で居よう」
幸次は恵をベッドに誘った。2人が身を寄せ合って窮屈そうに寝る。
あの右肩に感じた雫は涙だったのだろうか。幸次は眠りに落ちる前に考えた。
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またこれらの事件が意図的に報道されていないのではないか、という陰謀論めいた噂もある。
アンドロイドは人間に対してどう考えているのだろうか。もし敵対的な感情をひっそりと抱いているとしたら。
幸次はそこまで考えて、思考を放棄した。結局のところ恵は恵であって他のアンドロイドと同じ考えを持っているかどうかは分からない。
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