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アンドロイドと心中しようか 1
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美しい妻だ。と目黒幸次は心の中で呟きながら、妻の手料理を口に運んだ。こんがりと焼けたトーストに、目玉焼きとベーコン、それからシーザーサラダ。幸次の咀嚼音が妻と2人だけの家庭に響く。
「おいしいよ」
「どれがおいしいの?」
やや具体性を欠いた感想だったらしい。幸次はそう思って言い直す。
「シーザーサラダにかかってるドレッシングが美味しいんだ」
「よかったわ。自家製なの」
窓の外からは日が入って来ていない。ここ数日、雲の灰色が太陽を隠してしまっていた。この部屋で感じる光は蛍光灯のそれだけである。
「もう行かなくちゃ」
憂鬱だった。右手の腕時計は8時30分を指している。今から行けば9時30分ごろに着いて遅刻は30分程で済む。幸次は整った顔の妻を見て、一息ついた後、ダイニングチェアから立った。
身だしなみを整えて、玄関まで行くと、妻が産毛一本生えていない手でネクタイを締めてくれた。
「ありがと」
幸次が言うと、彼より3㎝ほど背の低い妻がつま先を伸ばしてキスをした。
「愛しているよ。恵」
「私も愛してますよ」
11月の朝、唇は冷たかった。
幸次は小さく右手を振る恵に見送られて、外へ出た。鈍いトコロはあっても、幸次にとっては最高の妻だった。
最寄り駅まで歩く道中、希少な若い女性とすれ違った。女性の髪は青く、レザーのジャケットを着て黒いロングブーツを履いていた。
幸次はアンディーファッションを見て、心地の良い気分にはならなかった。世代による感性の違いを前に自分が老いた事を実感するからだろうか。
幸次は足早に駅へと向かった。
30年も前にアンドロイドが誕生したと言うのに、未だに日本の満員電車は解消されていないと聞く。しかも乗っている”人間”は老人ばかりらしい。
そんな電車内の風景を見なくて済んでよかった。と、幸次は空席の目立つ車内で思った。朝9時に出勤の為の電車に乗る者は少ない。目の前をいくつもの広告が流れていく。有名企業のモノばかりだ。
目黒不動産のものもある。どこの業界も大企業一社が事業を占有する時代になっていた。
広告もどこか紋切り型でつまらない。口には出さないが、幸次は現代社会に息苦しさを感じていた。
駅から出た幸次は人を避けるように、憂鬱に沈んだ足を動かして歩き始めた。若者が少なくなった現代でも、都内だと人出が多い。
いや、人間に見える人影のほとんどはアンドロイドだろう。人間とアンドロイドの区別はもはや見た目では判別できないところまで進んでいるのだ。
「おはようございます皆様。最新型のアンドロイドはいかがでしょう?」
可愛らしい声がした。アンドロイドショップの前だった。
声の主は20代の女性らしい。彼女がアンドロイドかどうか幸次には区別がつかなかった。彼女はアンディーファッションをしていない。会社の制服を着ているだけだ。
アンドロイドはアンディーファッションを着たりしない。つまりアンディーファッションを着た子、今朝すれ違った子は人間で、目の前のショップ店員はアンドロイドなのかもしれない。
「会社帰りに是非、お立ち寄りください。業務用、介護用、お相手用、各種取り揃えております」
笑顔のステキな女の子だ。しかし彼女はアンドロイドだろうと幸次は思った。
”お相手用”なんて破廉恥な言葉を街中で堂々と口にする人間はまず居ない。そもそもこの国に笑顔のステキな若い女の子なんてほとんど居ないはずだ。
落胆しつつも幸次はショーケースをちらりと見る。人の形をしたアンドロイドが3体。いずれも女性の型だった。目に付くところには女性型を置け、とフィリップ本社から通達でも来ているのだろうか。大手アンドロイド販売会社のフィリップ社は社風でさえアンドロイド的で、トップの命令は1日にして末端の社員にまで行き届くという噂だった。
値札に視線を移すと最新のL2型は500万円もした。K型はどうだろう。ショーケースには無い。
幸次はあの声の主、20代女性型アンドロイドに聞いてみた。
「K型ですと100万程度でお買い求めになられますよ」
アンドロイドは店内の隅に居るK型を指差した。
K13型と腕に刻まれている。社会に出るアンドロイドは型番を消す機能を使って人間社会に溶け込んでいた。つまり腕の刻印は売れ残りの証でもある。仮にその事を知ったら、あのK13型はどう思うのだろう。
幸次は無駄な想像だと思いながらも腹立たしくなった。
「いや、いいんだ」
「ご来店、おまちしております」
アンドロイドが変わらない笑顔で言った。幸次は殴りつけるような速さで背を向けて立ち去った。
大沢フーズのチェーン店、牛丼屋や中華料理屋、それからシャッター街と化した通りを横目に幸次は社に着いた。社屋には平易なフォントでMEGUROとある。
看板に始まってフォント、デザイン、最近のアートまで、全てのものが冷たく、のっぺらぼうになってしまったのではないか。
頭の中にため込んだ過去の傑出した芸術作品と比べて、幸次は日々そう思っていた。無論、看板や広告、芸術に個性があった時代に幸次は生まれていない。だから比較対象は、希少な書籍から得た知識で創った幸次の幻想だ。
諦めるかのように溜息を吐いて、幸次は目黒不動産のX支店へと入って行った。
「おはようございます」
挨拶だけは欠かしたことが無かった。しかし幸次の挨拶に応える人間は1人として居ない。そもそも30分遅刻していた。
「おはようございます。目黒幸次さん」
受付の男だけが反応をした。他の社員は無言でエントランスを横切り、虹彩認証を済ませ、エレベーターに乗りビルの上階を目指して行った。
「君だけだよ。僕の挨拶に返事をくれるのは」
「そのとおりかもしれません。しかし目黒幸次さんが遅刻せずに来社し、尊敬される様な働きをみせれば、社の皆さんの反応もよりよくなる事が予想できますよ」
「ハァ……」
容赦のない正論だった。しかし勤務態度については幸次にも言いたいことがある。
「僕はね。フロア3で働いているんだ。重要な仕事なんて降りてこないの。遅刻してもしなくても……。影響ないんだ。僕の仕事」
フロア3で働く者は新人研修で来ている若手か、使い物にならないと判断された落ちこぼればかりだった。その中でも幸次に割り当てられたのは書類整備の仕事だった。この時代に重要な書類なんてほとんどない。
「だから遅刻しても……」
「いけません。目黒幸次さん。社に籍を置く以上しっかり勤めませんと」
そう言ってくれる人、いやアンドロイドが居るだけでも救いがある。そう思いつつ幸次は「君、J型だろ? 今度AIだけでも新しくしてもらったらどう? 思考が人間に近づくらしいぜ」と茶化してみた。
「AI変更の権限は管理責任者が持っていますので」
幸次は嫌な思い出を振り払うように、苦笑いしてから近くのエレベーターの方へ足を向けた。
「じゃあ、また」
受付アンドロイドに言ってから歩き出し、エレベーター横で虹彩認証を済ませる。アンドロイドと長話、それも世間話をしていたからなのか、他の社員が幸次の方をじろじろと見た。
多くの人間にとってアンドロイドは自分の仕事を奪うかもしれない敵なのだ。軽蔑すべき敵となれ合うなんて考えられない。
不審な人間を見る目が幸次に集まる。何歳になっても何年勤めても、こういう時の人間の目には慣れない。
「いってらっしゃいませ。目黒幸次さん」
エレベーターに乗った時、あの受付アンドロイドが良く通る声でそう言った。心の底から嬉しかったが、同乗した他の大勢の社員に押しつぶされるような形で、幸次は答えることができなかった。乗り合わせたのは人間ばかりだ。
アンドロイドと話している時には感じない孤独を、人間に押しつぶされながら、強烈に感じていた。
ハンコを押す、右へ置く。ハンコを押す、右へ置く。この動作を2時間ほど、座りっぱなしで続けていた。それでも、使われなくなったタブレット端末の上にはまだ資料が残っている。
幸次は無言で作業に取り組んでいた。目黒不動産会長、目黒吉勝の次男というだけでハンコを押す仕事をなんとか割り振られていた。
今時ハンコを使った資料なんて、どこで使うんだ?
「幸次さん、これよろしく」
若い女性社員が、山積みになった紙を置いていく。あの研修生、どこからこんなにデッドメディアを拾って来たんだろうか。
幸次は女性と目を合わせず、小さくほとんど聞こえないような声で、「はい」と言った。
研修生は聞き取れなかったのか、イラつきを帯びた目で幸次を一瞥してから立ち去った。
「なんなんですか? あの人」
さっき資料を置いて言った若い女性研修生が、フロアの端でお局に対して言っていた。雑用に励むアンドロイドたちの環境音では誤魔化せない敵意に似た感情があった。
「シっ、あの人はああ見えて、ウチの会長の次男なんだよ」
「えっ、ヤバっ。でもそんな人が何でフロア3であんな仕事……」
「まぁ賢兄愚弟ってコトね。昔、取引先のアンドロイドと商談を進めていたんだけど、肝心の人間とは全く話せなかったらしくてね。アンドロイドのAI交換のタイミングで今までのお話が全部パァ」
「それって……。気味が悪いですね。なんでアンドロイドなんかとばかり話すんだろ?」
「そうよねぇ。しかもウチってアンドロイド反対の企業じゃない。今だってアンドロイドには重要度の低い仕事しかさせてないでしょ。そんな事もあって、会長はアンドロイド関係でミスした次男に怒り心頭ってワケ。まぁ優秀なお兄様がいる事だし、次男の事なんてどうでもよくなったってのが本音かもしれないけどね」
昔から幸次の耳は悪い話ばかり拾ってくる。これだけ環境音と距離ががあるのに、一言一句漏らさず、幸次の耳に入ってしまった。しかし幸次に出来ることはない。何か言ってやる勇気も気力も、もう無いのだ。幸次はまたハンコを押して右に置く作業を再開した。
「幸次さんってもしかしてアンドロイドなんじゃないですか」
ニヤついた声で女性研修生が言っても聞こえないフリをした。どうせ彼女は1週間もすれば上のフロアへ行って輝かしい日常生活を送るのだ。
幸次はかれこれ13年近くもこんな職場で働いていた。父も左遷した自分の事など忘れているのかもしれない。それでも15時30分までには仕事を済ませ、「おつかれさまでした」といってからフロア3を出て行った。
午後3時半にスーツで外をうろつく人間は少ない。幸次はどうしても引け目を感じて、ベンチしかない公園で経済関連のニュースを見たり、喫茶店で考え事をしているフリをして時間を潰した。彼のホロ・ウォッチの履歴には似たようなタイトルの映像ばかり残っている。
18時になる頃、彼は右手首のホロ・ウォッチから空中に映し出される映像を消し去って、忙しそうに喫茶店を出た。気疲れして仕方がない。堂々と窓際部署で給料泥棒できるほど、図々しくできていないのだ。早く帰って恵に会いたい。恵と過ごす時間の為に生きている。最近になって幸次はそう思っていた。自分には恵しかない。
30階建てマンションの9階。自宅の玄関を開けると幸次の声に反応して、すぐに恵が出迎えた。
「おかえりなさい。あなた」
広いおでこと、黒い髪、何度見ても美しいと幸次は思う。
「ご飯にしますか?」
言い終わらないうちに唇は塞がれた。冷たい肌の妻。アンドロイドK13型の冷たい肌だ。
「おいしいよ」
「どれがおいしいの?」
やや具体性を欠いた感想だったらしい。幸次はそう思って言い直す。
「シーザーサラダにかかってるドレッシングが美味しいんだ」
「よかったわ。自家製なの」
窓の外からは日が入って来ていない。ここ数日、雲の灰色が太陽を隠してしまっていた。この部屋で感じる光は蛍光灯のそれだけである。
「もう行かなくちゃ」
憂鬱だった。右手の腕時計は8時30分を指している。今から行けば9時30分ごろに着いて遅刻は30分程で済む。幸次は整った顔の妻を見て、一息ついた後、ダイニングチェアから立った。
身だしなみを整えて、玄関まで行くと、妻が産毛一本生えていない手でネクタイを締めてくれた。
「ありがと」
幸次が言うと、彼より3㎝ほど背の低い妻がつま先を伸ばしてキスをした。
「愛しているよ。恵」
「私も愛してますよ」
11月の朝、唇は冷たかった。
幸次は小さく右手を振る恵に見送られて、外へ出た。鈍いトコロはあっても、幸次にとっては最高の妻だった。
最寄り駅まで歩く道中、希少な若い女性とすれ違った。女性の髪は青く、レザーのジャケットを着て黒いロングブーツを履いていた。
幸次はアンディーファッションを見て、心地の良い気分にはならなかった。世代による感性の違いを前に自分が老いた事を実感するからだろうか。
幸次は足早に駅へと向かった。
30年も前にアンドロイドが誕生したと言うのに、未だに日本の満員電車は解消されていないと聞く。しかも乗っている”人間”は老人ばかりらしい。
そんな電車内の風景を見なくて済んでよかった。と、幸次は空席の目立つ車内で思った。朝9時に出勤の為の電車に乗る者は少ない。目の前をいくつもの広告が流れていく。有名企業のモノばかりだ。
目黒不動産のものもある。どこの業界も大企業一社が事業を占有する時代になっていた。
広告もどこか紋切り型でつまらない。口には出さないが、幸次は現代社会に息苦しさを感じていた。
駅から出た幸次は人を避けるように、憂鬱に沈んだ足を動かして歩き始めた。若者が少なくなった現代でも、都内だと人出が多い。
いや、人間に見える人影のほとんどはアンドロイドだろう。人間とアンドロイドの区別はもはや見た目では判別できないところまで進んでいるのだ。
「おはようございます皆様。最新型のアンドロイドはいかがでしょう?」
可愛らしい声がした。アンドロイドショップの前だった。
声の主は20代の女性らしい。彼女がアンドロイドかどうか幸次には区別がつかなかった。彼女はアンディーファッションをしていない。会社の制服を着ているだけだ。
アンドロイドはアンディーファッションを着たりしない。つまりアンディーファッションを着た子、今朝すれ違った子は人間で、目の前のショップ店員はアンドロイドなのかもしれない。
「会社帰りに是非、お立ち寄りください。業務用、介護用、お相手用、各種取り揃えております」
笑顔のステキな女の子だ。しかし彼女はアンドロイドだろうと幸次は思った。
”お相手用”なんて破廉恥な言葉を街中で堂々と口にする人間はまず居ない。そもそもこの国に笑顔のステキな若い女の子なんてほとんど居ないはずだ。
落胆しつつも幸次はショーケースをちらりと見る。人の形をしたアンドロイドが3体。いずれも女性の型だった。目に付くところには女性型を置け、とフィリップ本社から通達でも来ているのだろうか。大手アンドロイド販売会社のフィリップ社は社風でさえアンドロイド的で、トップの命令は1日にして末端の社員にまで行き届くという噂だった。
値札に視線を移すと最新のL2型は500万円もした。K型はどうだろう。ショーケースには無い。
幸次はあの声の主、20代女性型アンドロイドに聞いてみた。
「K型ですと100万程度でお買い求めになられますよ」
アンドロイドは店内の隅に居るK型を指差した。
K13型と腕に刻まれている。社会に出るアンドロイドは型番を消す機能を使って人間社会に溶け込んでいた。つまり腕の刻印は売れ残りの証でもある。仮にその事を知ったら、あのK13型はどう思うのだろう。
幸次は無駄な想像だと思いながらも腹立たしくなった。
「いや、いいんだ」
「ご来店、おまちしております」
アンドロイドが変わらない笑顔で言った。幸次は殴りつけるような速さで背を向けて立ち去った。
大沢フーズのチェーン店、牛丼屋や中華料理屋、それからシャッター街と化した通りを横目に幸次は社に着いた。社屋には平易なフォントでMEGUROとある。
看板に始まってフォント、デザイン、最近のアートまで、全てのものが冷たく、のっぺらぼうになってしまったのではないか。
頭の中にため込んだ過去の傑出した芸術作品と比べて、幸次は日々そう思っていた。無論、看板や広告、芸術に個性があった時代に幸次は生まれていない。だから比較対象は、希少な書籍から得た知識で創った幸次の幻想だ。
諦めるかのように溜息を吐いて、幸次は目黒不動産のX支店へと入って行った。
「おはようございます」
挨拶だけは欠かしたことが無かった。しかし幸次の挨拶に応える人間は1人として居ない。そもそも30分遅刻していた。
「おはようございます。目黒幸次さん」
受付の男だけが反応をした。他の社員は無言でエントランスを横切り、虹彩認証を済ませ、エレベーターに乗りビルの上階を目指して行った。
「君だけだよ。僕の挨拶に返事をくれるのは」
「そのとおりかもしれません。しかし目黒幸次さんが遅刻せずに来社し、尊敬される様な働きをみせれば、社の皆さんの反応もよりよくなる事が予想できますよ」
「ハァ……」
容赦のない正論だった。しかし勤務態度については幸次にも言いたいことがある。
「僕はね。フロア3で働いているんだ。重要な仕事なんて降りてこないの。遅刻してもしなくても……。影響ないんだ。僕の仕事」
フロア3で働く者は新人研修で来ている若手か、使い物にならないと判断された落ちこぼればかりだった。その中でも幸次に割り当てられたのは書類整備の仕事だった。この時代に重要な書類なんてほとんどない。
「だから遅刻しても……」
「いけません。目黒幸次さん。社に籍を置く以上しっかり勤めませんと」
そう言ってくれる人、いやアンドロイドが居るだけでも救いがある。そう思いつつ幸次は「君、J型だろ? 今度AIだけでも新しくしてもらったらどう? 思考が人間に近づくらしいぜ」と茶化してみた。
「AI変更の権限は管理責任者が持っていますので」
幸次は嫌な思い出を振り払うように、苦笑いしてから近くのエレベーターの方へ足を向けた。
「じゃあ、また」
受付アンドロイドに言ってから歩き出し、エレベーター横で虹彩認証を済ませる。アンドロイドと長話、それも世間話をしていたからなのか、他の社員が幸次の方をじろじろと見た。
多くの人間にとってアンドロイドは自分の仕事を奪うかもしれない敵なのだ。軽蔑すべき敵となれ合うなんて考えられない。
不審な人間を見る目が幸次に集まる。何歳になっても何年勤めても、こういう時の人間の目には慣れない。
「いってらっしゃいませ。目黒幸次さん」
エレベーターに乗った時、あの受付アンドロイドが良く通る声でそう言った。心の底から嬉しかったが、同乗した他の大勢の社員に押しつぶされるような形で、幸次は答えることができなかった。乗り合わせたのは人間ばかりだ。
アンドロイドと話している時には感じない孤独を、人間に押しつぶされながら、強烈に感じていた。
ハンコを押す、右へ置く。ハンコを押す、右へ置く。この動作を2時間ほど、座りっぱなしで続けていた。それでも、使われなくなったタブレット端末の上にはまだ資料が残っている。
幸次は無言で作業に取り組んでいた。目黒不動産会長、目黒吉勝の次男というだけでハンコを押す仕事をなんとか割り振られていた。
今時ハンコを使った資料なんて、どこで使うんだ?
「幸次さん、これよろしく」
若い女性社員が、山積みになった紙を置いていく。あの研修生、どこからこんなにデッドメディアを拾って来たんだろうか。
幸次は女性と目を合わせず、小さくほとんど聞こえないような声で、「はい」と言った。
研修生は聞き取れなかったのか、イラつきを帯びた目で幸次を一瞥してから立ち去った。
「なんなんですか? あの人」
さっき資料を置いて言った若い女性研修生が、フロアの端でお局に対して言っていた。雑用に励むアンドロイドたちの環境音では誤魔化せない敵意に似た感情があった。
「シっ、あの人はああ見えて、ウチの会長の次男なんだよ」
「えっ、ヤバっ。でもそんな人が何でフロア3であんな仕事……」
「まぁ賢兄愚弟ってコトね。昔、取引先のアンドロイドと商談を進めていたんだけど、肝心の人間とは全く話せなかったらしくてね。アンドロイドのAI交換のタイミングで今までのお話が全部パァ」
「それって……。気味が悪いですね。なんでアンドロイドなんかとばかり話すんだろ?」
「そうよねぇ。しかもウチってアンドロイド反対の企業じゃない。今だってアンドロイドには重要度の低い仕事しかさせてないでしょ。そんな事もあって、会長はアンドロイド関係でミスした次男に怒り心頭ってワケ。まぁ優秀なお兄様がいる事だし、次男の事なんてどうでもよくなったってのが本音かもしれないけどね」
昔から幸次の耳は悪い話ばかり拾ってくる。これだけ環境音と距離ががあるのに、一言一句漏らさず、幸次の耳に入ってしまった。しかし幸次に出来ることはない。何か言ってやる勇気も気力も、もう無いのだ。幸次はまたハンコを押して右に置く作業を再開した。
「幸次さんってもしかしてアンドロイドなんじゃないですか」
ニヤついた声で女性研修生が言っても聞こえないフリをした。どうせ彼女は1週間もすれば上のフロアへ行って輝かしい日常生活を送るのだ。
幸次はかれこれ13年近くもこんな職場で働いていた。父も左遷した自分の事など忘れているのかもしれない。それでも15時30分までには仕事を済ませ、「おつかれさまでした」といってからフロア3を出て行った。
午後3時半にスーツで外をうろつく人間は少ない。幸次はどうしても引け目を感じて、ベンチしかない公園で経済関連のニュースを見たり、喫茶店で考え事をしているフリをして時間を潰した。彼のホロ・ウォッチの履歴には似たようなタイトルの映像ばかり残っている。
18時になる頃、彼は右手首のホロ・ウォッチから空中に映し出される映像を消し去って、忙しそうに喫茶店を出た。気疲れして仕方がない。堂々と窓際部署で給料泥棒できるほど、図々しくできていないのだ。早く帰って恵に会いたい。恵と過ごす時間の為に生きている。最近になって幸次はそう思っていた。自分には恵しかない。
30階建てマンションの9階。自宅の玄関を開けると幸次の声に反応して、すぐに恵が出迎えた。
「おかえりなさい。あなた」
広いおでこと、黒い髪、何度見ても美しいと幸次は思う。
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