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ガーゴイル
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栄一朗(さかえ・いちろう)は小学校に入る前からマンガが大好きでマンガばかり読んでいた。小学校に入ってもやっぱりマンガを読んでいて、学校に漫画を持ってきてはダメだと言われるとノートに自分で漫画を描いて自分でマンガを読んでいた。
「マンガばかり読んでいるとバカになるぞ」
とは親からも先生からも散々言われた。しかし一朗にはなんでそんなことを言われなければならないのか意味がわからなかった。
一朗から見れば、マンガの中には無限の世界が広がっていた。「だってマンガの中の登場人物はマンガの外にいる人間たちよりも生き生きとしているじゃないか」。マンガの中で動いている人間や動物は一朗にとっては命を持っている生き物だった。絵の中で生きる彼らと、絵の外で生きる自分たちにどれだけの差があるというのか。一朗にはその差がわからない。
そんな考えをしていたからだろうか。自分でマンガを描くようになった一朗の身には不思議なことが起こるようになった。自分で書いたキャラクターが自分自身に語りかえてくるのだ。もっともそんな不思議な出来事も、一朗は平然と受け止めていた。何しろ一朗にとって絵の中にいる彼らは生きているのだから。だいたい彼らは絵にする前から一朗の頭の中でうるさくしゃべり続けているのだ。たいしたことではない、と一朗は思っている。
そうやって描いたキャラクターが勝手にしゃべりかけてくるものだから、やがて一朗はわざわざマンガを描かずに絵だけを描くようになった。それだけで絵の中の彼らはいきいきと動きだすのだから。彼らと語り合うために毎日毎日絵ばかり描いているうちに、一朗は自分の画力に疑問を覚えるようになった。しっかりと絵の勉強をするべきだ、と決心したのは高校の頃のことだった。
ところで一朗には友がいる。マンガを描いていた頃から、一朗の絵をずっと見続けてきた唯一の人間だ。名前は次郎。別に一朗と兄弟なわけではない。
「本格的に絵の勉強しようと思うんだ」
一朗はまずそれを次郎に相談した。
「すればいいよ。それでまた俺に新しい絵を見せてくれよ」
次郎は優しい人間だった。一朗の決断に即座に同意した。そしてけして一朗の才能の有無を口にしなかった。かくして一朗は美大に進んだ。親や教師の反対を全て押し切った。
次郎はそのころから体調を崩し、長く入院していた。一朗は美大に合格したときに、
「なんかペンネーム考えてよ」
と、病床にいる次郎に頼んだ。まる一日考えた後、次郎は一朗に、
「理杏(リアン)」
という名前を与えた。「一朗」などというありきたりなものとはまったく違う名前を一朗改め理杏は喜んでうけとった。実はこの名前は次郎が好きな映画「エイリアン」から採られているのだが、次郎はそれを理杏の前で口にしたことはない。
マンガにルーツがあるせいか、美大に進んでも理杏はメルヘンチックな絵を好んで描いた。自然を自然のままに描くことも、醜いものや不気味なものを描くのは嫌いだった。そして次郎は次郎で理杏の描く夢のある絵がお気に入りだった。
ある日理杏が次郎の見舞いに病院を訪れると、次郎はカバーの厚い重たそうな本を眺めているところだった。
「何読んでるの?」
理杏は訪ねた。
「理杏はあんまり興味ないかもしれないな。建築の本だよ」
「そんなこと言うなよ。建築だって美術の一環だろ?」
と言ったが、実際理杏に建築趣味はなかった。彼は二次元が大好きだ。
「この写真見てみろよ」
と言って次郎が示したのは、高い二本の塔が、緑色の光に照らされて夜空に聳え立っている写真だった。塔と言っても東京タワーのような貧弱そうな鉄骨づくりではない。太い幅を持った石造りの双子の塔だ。そのあまりに堂々とした姿に、建築趣味はないはずの理杏ですら、思わず息を呑んだ。
「ケルン大聖堂だよ」
次郎は言った。言われて気がついたが、塔の影に家のようなものがくっついているのが見えた。家といったが、周りに立ち並ぶ建物より高さが5倍くらいはありそうな巨大な家だ。
「好きなんだよなあゴシック建築ってやつが」
ゴシック建築という名前は理杏も聞いたことがある。よく覚えていないが、西洋建築の様式の一つだったはずだ。
「一度行ってみたかったんだけどな。この聖堂に」
次郎は過去形で語った。もう海外に行くことなどないと次郎は諦めてしまっているようだった。次郎の病気は進行していた。短期的に退院することはあっても、すぐに病院に逆戻りするような生活が続いていた。おそらくもう長くはない。理杏にもわかっていた。次郎もわかっている。そして次郎はそれを受け入れつつある。ただ、理杏はそれを受け入れられない。
「行けばいいよ。退院したら格安旅行でも見つけて一緒に行こう。学校なら一週間くらいサボっても大丈夫だからさ」
顔を引きつらせながら理杏は言った。嘘はつけない性格だ。次郎は薄く笑ってからしばらく口をとじたまま下を向いていた。居心地の悪い沈黙に理杏は戸惑ってしまったが、理杏が何か言い始めるよりも早く、次郎のほうが口を開き始めた。
「俺の退院を待つことはない。お前一人で行ってこいよ。ケルンに」
「……あのさあ、僕一人で行ってもしょうがないでしょ?」
「わかってるだろ。俺を待ってたらいつまでたってもそんなとこいけやしないって」
「いや、だから、そんなことは」
「俺は行けない。だからお前が行って来い」
「だって僕は別にあんまり興味ないし」
「俺は見たいんだよ。生で見れないなら、せめてお前がその目で見てその手で描いたケルン大聖堂の姿が……」
ドイツ鉄道の車窓から、ひたすら空を眺めていた。晴天に白雲を載せたその空は日本では見られないような形をしていた。まさに西洋絵画だ、と理杏は思った。足元においてあったスケッチブックを取り出して美しい光景を少しでも残そうとするのだが、ICE(特急列車)が進むのは早く、鉛筆を動かしたと思うと、外は既に違う光景になっている。それでもなんとか描き取ろうと数分は頑張ってみたのだが、やがてあきらめマンガみたいなネコのラクガキを描き出した。
「こんな美しい景色を前にしてもったいないねぇ」
ラクガキのネコが理杏に語りかける。むっとしながら理杏は答える。
「いいんだ。本当に美しいものは心の中に留めておけばいいんだ」
それは理杏がつねづね思っていることではあったが、負け惜しみには変わりが無かった。
やがて列車は大きく迂回しながらケルンの街に入っていく。街のシンボルともいえる高い双子の塔が見えてくる。おぼろげな塔の姿をスケッチブックに描きとめながら理杏は胸をときめかせた。
ケルン市街にはドイツ鉄道の駅が2つある。理杏はその内の大きいほう――ケルン中央駅という――で列車を降りた。広くて人の多い駅構内を抜けて外へ出たとき、理杏は言葉をなくしてしまった。巨大な聖堂が目の前にそびえたっていたのである。
「でかいなあ」
というミもフタも無い感想が理杏の心うちを占める。理杏は自称芸術家ではあっても建築にはうとい。それが故に「でかい」という感想しか持てなかったのかもしれない。
ケルン大聖堂。キリスト教にてイエス・キリストが生まれたときにやってきた東方の三博士を祭るために立てられたゴシック様式の教会である。その高さは157メートル。完成には六百年以上もの歳月がかかったというドイツ最大級の建築である。
だが理杏にはそんなことへの感傷はない。聖堂の扉に近づくとその形をデッサンしだした。一言に扉といってもその装飾も並のものではない。扉自身に文様がちりばめられているだけでなく、その周りにも大小の聖人の像がちりばめられている。あまりにも像の量が多いためかえって不気味に見えるくらいである。もっとも不気味なのはゴシック建築全般に言えることであるが。
「ようこそ。よく来たね」
デッサンの中の聖人像が言った。
「君がここに来るのを待っていたよ」
全てを見透かしたような言い方に理杏はムッとする。
「別にあなたたちのために来たわけじゃないよ。招待された覚えもないし」
「それは失礼した」
聖人像は小馬鹿にしたように笑った。
観光客用の扉を抜けて聖堂の中に入る。暗い。神の家を標榜するには、その中はあまりに暗くて冷えびえとする。壁や天井が重苦しい灰色をしているせいかもしれない。それか光の量が少ない。縦長のステンドグラスから差し込む日光と信者が置いたろうそくの灯り。それから通路の奥、一段高くなった場所にはスポットライトのような光が降り注いでいる。そこだけが地獄の中の楽園みたいで救いが見て取れるが、そうするとそこ以外はすべて地獄ということか? ひどい聖堂もあったものである。
中央に大きな通路。その脇に長いすが並んでいる様子は規模は違うものの結婚式で使われるエセチャペルと変わらない。イスの外側にはやはり薄灰色の太い柱が立ち並ぶ。ギリシャのエンタシスの柱を思い起こす柱の上部には草花の彫刻が施されていた。
恐る恐る中央の通路を歩く。咎めるものは誰もいない。歩きながら目についたものをスケッチをしていく。それもとがめられることはない。周りでいろんな国から来た観光客がパシャパシャ写真を撮っているのだから絵を描きとめるくらいでとやかく言われるはずがない。
理杏は正直聖堂内をスケッチしていても楽しく感じられなかった。何しろこの空間は暗すぎて、楽しくない。むしろ理杏の嫌う不気味な雰囲気を携えてすらいる。だが、正面の、光の降り注ぐ空間を目にしたときだけ、その憂鬱な気持ちも張れる。そこだけはやはり天国のような雰囲気に満ちている。その空間だけは柱の彫刻も金色に光、磨かれた床も輝いたように見える。そして理杏はその空間の中央に立った。楽園の中心に置かれているのは黄金色の箱。表面意びっしりと彫刻がなされているきらびやかな箱。聖櫃(せいひつ)という。キリスト教徒にとって大事なもののしまわれた宝箱だ。理杏もこればかりは気合いを入れて精密に写生した。側面に刻まれた三体の人間の姿を精密に描き写す。
「どうかな? 気に入ってもらえたかなこの聖堂を」
彫刻の一人が言った。
「立派なものだろう。数々の国からこの聖堂と、そして聖櫃を拝みに多くの人たちが集まってくる」
「確かにすごいと思うよ」
仏頂面で理杏は言い返した。
「外から見たときはさすがに度肝を抜かれたけどね。さすがはアルプス以北最大級のゴシック建築」
飛行機の中で読んだガイドブックに描かれていた文言である。
「でもあくまでも最大じゃなくて最大級なんだよね」
ケルン大聖堂は最大級という呼称はされても最大と言われることはまずない。何をもって最大とするかにもよるが、高さで言えば161.6メートルの高さを誇る同国ドイツのウルムにある大聖堂に及ばない。最大とするだけの決め手には欠けている。
「手厳しいことを言う」
さきほどとは違う彫刻が言った。
「しかし、それであっても、この聖堂が威厳を失うことはない。それはこうして訪れる人間の数を見てもわかるはずだ。」
「でも僕は嫌いだ」
理杏ははっきりと言った。
「中に入ってがっかりしたよ。この金ぴかの箱にはびっくりしたけどね。ただそれがガラスケースに入ってるのは好きになれない」
理杏の言うとおり聖櫃は観光客が触れないようにガラスケースに包まれている。それが美術館の展示か何かを思い出させて、神聖な威厳を半減させてしまっていた。
「それだけじゃないよ。何よりもこの中は不気味だ。こんな聖堂で人が救われるとは思えないしあなたたちに人が救えるとも思えない」
聖櫃に向かって暴言もいいところだが、理杏がしゃべっている相手は聖櫃そのものではなく、理杏自身が描いた絵なので、なんとでも言えてしまう。
「神は皆に等しく愛を与え、その愛は無限である」
三体目の彫刻が口を開いた。
「救いを求める者があれば神は等しく救いを与えるだろう。《求めよさらば与えられん》。その者は神の国へと辿り着くことができるだろう」
小難しいことを言う。
「きれいごとばかり言わないで欲しいな。それなら日本で苦しんでる友達がいるから救ってくれよ」
「その者が救いを求めているのなら、彼は天国へと召されるだろう」
「死んじゃったら意味がないだろ!」
そう叫んで理杏はスケッチブックを引き裂いた。そして破った紙をくしゃくしゃにして捨て……ようと思ったが聖堂の中にゴミを捨てるのははばかられたのでポケットの中に突っ込んだ。
そんな聖堂内を見て回るのはそれくらいにして、理杏は出口の脇にある「EINGANG(入り口)」と描かれた部屋に入った。そこは正確には部屋ではなく塔である。車窓からも良く見えた双子の塔の方割れだ。入ってすぐにあるカウンターの親父に入場料を払って理杏は階段を登る。上へ上へと登り続ける螺旋階段を。
世に名高いケルン大聖堂の塔である。理杏はなにか描くべきものがあることを期待してスケッチブックを構えながら一段一段登っていく。だが、彼は登り始めてすぐにある種の失望を感じた。神秘的なものを期待してやってきたこの塔の内部は観光客によるラクガキで汚れていた。その一方で内部に理杏を驚かせてくれるような芸術的な絵画も彫刻もなく、無機質な壁と階段が続くだけだった。
途中鐘撞き堂への入り口が壁に開いていたが、それを無視して理杏は先へ進んだ。降りてくる観光客とすれちがううち、ようやく階段は終わりをつげ、広い空間へと出ることができた。塔の頂上……ではない。その空間は以前として壁に囲まれているし、部屋の中央にはさらに上へと登るための階段が立っている。しかし天井らしい天井はなく、骨組みのごとき装飾をされた部品が、塔の更なる上部を支えていた。骨組みの隙間からは空が良く見えた。その装飾と空のコントラストに理杏は感動を覚えた。
塔はまだ続く。理杏は中央にあった螺旋階段を登っている。今度の階段さきほどのように壁に囲まれた閉鎖的なものでなく、外部の様子と塔にあつらえられた装飾が良く見えるものだったので、理杏は上機嫌になった。もちろんラクガキもここにはない。
ゴシック建築というのはなぜかとげとげしい装飾を好む。現にこの塔の要所にもいたるところに細かい十字架がびっしり取り付けられていて、遠目にはとげが生えているように見える。とげとげしいのはそれだけではない。小さな十字架に混じって、等身大の人間の像も生えている。
「うわぁ……」
その像を見て理杏は気持ち悪そうな声を上げた。無理も無い。その像は苦悶の表情でのた打ち回る人間の姿を写し取ったものだったから。そんなものが塔の壁から生えているのだからなおさら気持ち悪い。理杏にグロテスクな芸術派趣味はない。が、その像のあまりの迫力に、思わずスケッチブックに鉛筆を走らせた。自分の背後を観光客が通りづらそうに抜けていくのも気にせずに、理杏は像の表情を書き取った。そして、
「何がそんなに苦しいのさ」
と絵の中の彼に聞いた。
「そんなに苦しそうに見えるかい?」
彼は答えた。
「そうでなかったら絵に描いたりしないよ」
「苦しそうに見えたから俺を絵にしたのかい? なら俺は実物よりも苦しそうに描かれてるかもしれないなぁ」
「そんなことないよ。むしろ苦しさを表現できなくて自己嫌悪になるくらいだものね」
「あんたさあ、勘違いしてるよ」
「なにが?」
「別に俺は苦しさを抱えてるわけじゃない。見た目苦しそうな格好してるからあんたがそう思っただけのことさ。よく見てみな。あそこに生えている俺は苦しんでいるじゃなくて、苦しみから救われて喚起にむせび泣いているように見えないかい」
「……」
「でもそれも、そう見えるってだけのことかもしれないな。俺が本当にうれし泣きしてるのかはわからないな。ともかくここにいる俺はあそこに生えている俺とは違うってことだけは断言してやるよ」
「……うるさいな」
理杏は像の絵をを引き裂くと、紙片をくちゃくちゃにしてポケットの中につっこんだ。「ギャ」という声が聞こえた気もするが、気に留めないことにした。壁から生えていた彼は、聖人像が言う〝上にいる彼〟ではなかったようだ。
さらに上へと進む。階段もようやく終わりが見えた。そこはやはり前のような広い空間で、周りが壁に囲まれているところまで一緒だった。だが、骨組みの天井の上にもはや空以外に何もない。ついに塔の最上部まで辿り着いたらしい。壁には出口がを二つ。一つには「AUSGAG(出口)」というプレートが掲げられている。ちょっとのぞいてみると、下へ向かう階段が見えた。帰りはこっちから降りろということだろう。
何も書かれていない出口を抜けると、塔の周りをとりかこむように通路が延びていた。柵の向こうにケルンの町並みが一望できる。展望台になっているようだ。四角い箱のような建物の並ぶケルンの街。その中に時折立派な教会が混じる。左手に見える大きな河は父なる河ラインだ。南向きの位置から西向きの位置へと通路を移動する。その途中柵の変わりに塔の子分みたいな石造りの装飾の付いている部分があった。なんだろうとか思いながらも西方のケルンの町並みに目を移した。足元に見えるのは観光客の集う聖堂前広場であり、その先には石畳の続く古い町並み。そしてやがて近代的な街並みに変化していき、ずっと先にはテレビ等がそびえてっているのが見える。見る方角が違うだけで街の印象も変化する。不思議なものだ。理杏は例によって鉛筆を動かしていた。
景色を書いているうちに、塔の子分が視界に入った。この装飾も入れたほうが構図としてはおもしろいかもしれない、と遊び心を出しながら見たままに塔の子分をスケッチしていく。やがて、目と鉛筆の先が、不穏なものに引っかかった。塔の子分から生えた像。今度は人間ではなく、悪魔の像だった。まがまがしい角と翼、猛禽類のようなくちばしと爪を持つその姿はまさに悪魔だった。顔は凶暴そうに歪んでおり、目はケルンの町並みを憎々しげに睨みつけている。
恐ろしいその姿を、理杏は描き続けた。描くのを止めることができなかった。町並みよりも精密に正確に、壁から生えた悪魔の姿を写し取っていく。悪魔の姿を描き終えたとき、絵の中の悪魔が目をケルン市から理杏へと移した。憎々しげなまなざしをそのままにして。
「ようこそ」
扉の周りにいた聖人像と同じことを言う。
「せっかく来たのだ。そう怯えるな」
悪魔の言葉どおり、理杏は激しく怯えていた。悪魔の恐ろしい姿に怯えたのではない。自分にこんなにも精密な絵を描かせた存在感に怯えた。
「……なんで教会のてっぺんに悪魔が生えてるわけ?」
「そんなに我がここにいることが不思議か?」
「だって、教会って神様にお祈りするところだろ。そんなところに悪魔がいていいわけがないじゃないか」
「では暇つぶしに答えてやろうか。我がここにいるのは神が無力だからだよ」
「無力?」
「そう。全知全能を謳いながらも神は紙一枚動かすことのできない存在だ。お前は神から何か力添えを受けた覚えはあるか?」
理杏は首を横にふった。
「そうだろう。神がもたらしてくれるのは魂の救済だけだ。そのほかは何もしてくれない」
理杏は神に対して辛らつな悪魔な言葉を黙って聴いていた。
「それゆえ神への信仰は暴力に対して非常に脆い。勘違いしてほしくないのは脆いのであって弱いわけではないということだ。信仰心が強ければ、人は暴力に屈しはしない。だがそれも魂の話。肉体は別だ。どんなに人が暴力に屈せずとも、暴力を受け続ければ肉体は壊れる。」
「……」
「暴力だけではない。病気や災害についても同じことが言えるな」
「!」
「いや皮肉にも、そうした避けようのない苦しみに出会ったときこそ神の本領が発揮される、と言えるだろうな」
「なんだって」
今まさに病気に苦しむ友を持つ身として聞き捨てならなかった。
「なんだよそれ。病気のときこそ神の本領発揮? 奇跡でもおこしてくれるわけ?」
「違う。奇跡などない。だからこそ神の出番なのだ」
「?」
「死に行く者に必要なのは肉体の救済ではなく魂の救済だろう? それこそ神の得意とするものではないか」
理安の耳に、聖人像の言った「その者が救いを求めているのなら、彼は天国へと召されるだろう」という言葉が蘇った。奇跡などないならば、死を受け入れるしかない。苦しみながら死ぬよりは安らかに死のう。そういうことだ。
「さて、神は魂を救うのが得意なわけだが、それだけではとてもとても信仰は維持できない。さっきから言うように、暴力や疫病、災害で死に行く人間を死から救うことはできないのだから」
「いまいち話が見えないんだけど」
「いくら魂が救われようと、信仰する人間が死に絶えれば信仰は途絶える。簡単なことだな。だから人間は他の力ある存在を必要としたわけだ。魂を救う神とは違い、俗世を守る力を持った存在を」
「それがあんたって言いたいの?」
「そういうことだ。だからこそ我はこのようにしっかりとした形を与えられ、この街を見張っているのだよ。俗世に害をなす魔を払うための魔。それこそが我だ」
悪魔は誇らしげに語った。だが理杏はその醜悪な姿に、神聖なものが持つ醜い部分を見せ付けられた気がした。
「それでも僕はあんたを好きにはなれないよ。あんたが言ってるのは暴力には暴力で反抗しろって言ってるようなものだろ」
「そうだな。だが人間などそんなものだ。魂だけ救われて殺されてもいいというのならばこの世はそれこそ悪魔のみが住む地獄と変わりない世界になる」
「そんな暴力や天災に負けるほど人間は弱いものじゃないと僕は信じてるよ。悪魔に対抗するには悪魔になるしかないなんて悲しいじゃないか」
「そうだ。世界は悲しいものだ。所詮信仰など脆いもの。優しさだけでは何も救えんよ」
悪魔はそういい終わると、もう二度と口を開かなかった。
日本に戻ってきた理杏は早速次郎の病室へと向かった。もちろんスケッチブックを持って。
「お帰り。待ってたよ」
次郎は嬉しそうに理安を出迎えた。
「どうだった、 ケルンは?」
「う~ん、思ったよりも雑多なところだったよ。なんかでかい聖堂があるっていうからもっとこうキレイなところなのかと思ってたんだけど」
「ま、観光地だしな」
そんな会話をしたあと、理杏は次郎にスケッチブックを渡した。
「一回破いたやつとかあって汚いけどごめんね」
「いいよ別に」
スケッチブックには聖人像や苦しむ人間像の絵も張りなおしてあった。あのときはムカッときて、衝動的に破ってしまったが、あとで、ポケットの中からくしゃくしゃになった絵を取り出して張っておいた。悪魔の話を聞いた後では、彼らの話も少し理解できる気がする。
「うわあなんだよこれ」
そう呟いた次郎が見ていたのはくしゃくしゃになっている苦しむ人間像の絵だった。
「なんか大聖堂の塔に生えてたから描いといた」
「へえ、さすがゴシックだな」
わかったようなことを言う。そして、
「なんか言ってたか?」
と理杏に訊いた。理杏は口ごもったあげく、
「ねえ次郎。死ぬのは怖い?」
と逆に次郎に尋ねた。
「なんだよ急に?」
次郎は顔をしかめていた。あまり出して欲しい話題ではないのだろう。
「その像が言ったんだ。苦しみで泣いているんじゃない。苦しみから救われる嬉しさに泣いているんだって」
「……ふうん」
その場に沈黙が降りた。次郎に尋ねるには酷な質問であったのは確かだ。しかし、
「なんだか納得いかないよ。死ぬのが救いだなんて。僕は次郎に生きる希望を持っていき続けて欲しい」
ぽつりぽつりと理杏は言葉をこぼした。
「死ぬのはもう覚悟してる」
次郎は言った。
「覚悟はしてるけどさ、やっぱり俺まだ死にたくないよ」
そう言いながら笑った。しかし理杏はそんな次郎に何もしてあげることはできないのだった。
「マンガばかり読んでいるとバカになるぞ」
とは親からも先生からも散々言われた。しかし一朗にはなんでそんなことを言われなければならないのか意味がわからなかった。
一朗から見れば、マンガの中には無限の世界が広がっていた。「だってマンガの中の登場人物はマンガの外にいる人間たちよりも生き生きとしているじゃないか」。マンガの中で動いている人間や動物は一朗にとっては命を持っている生き物だった。絵の中で生きる彼らと、絵の外で生きる自分たちにどれだけの差があるというのか。一朗にはその差がわからない。
そんな考えをしていたからだろうか。自分でマンガを描くようになった一朗の身には不思議なことが起こるようになった。自分で書いたキャラクターが自分自身に語りかえてくるのだ。もっともそんな不思議な出来事も、一朗は平然と受け止めていた。何しろ一朗にとって絵の中にいる彼らは生きているのだから。だいたい彼らは絵にする前から一朗の頭の中でうるさくしゃべり続けているのだ。たいしたことではない、と一朗は思っている。
そうやって描いたキャラクターが勝手にしゃべりかけてくるものだから、やがて一朗はわざわざマンガを描かずに絵だけを描くようになった。それだけで絵の中の彼らはいきいきと動きだすのだから。彼らと語り合うために毎日毎日絵ばかり描いているうちに、一朗は自分の画力に疑問を覚えるようになった。しっかりと絵の勉強をするべきだ、と決心したのは高校の頃のことだった。
ところで一朗には友がいる。マンガを描いていた頃から、一朗の絵をずっと見続けてきた唯一の人間だ。名前は次郎。別に一朗と兄弟なわけではない。
「本格的に絵の勉強しようと思うんだ」
一朗はまずそれを次郎に相談した。
「すればいいよ。それでまた俺に新しい絵を見せてくれよ」
次郎は優しい人間だった。一朗の決断に即座に同意した。そしてけして一朗の才能の有無を口にしなかった。かくして一朗は美大に進んだ。親や教師の反対を全て押し切った。
次郎はそのころから体調を崩し、長く入院していた。一朗は美大に合格したときに、
「なんかペンネーム考えてよ」
と、病床にいる次郎に頼んだ。まる一日考えた後、次郎は一朗に、
「理杏(リアン)」
という名前を与えた。「一朗」などというありきたりなものとはまったく違う名前を一朗改め理杏は喜んでうけとった。実はこの名前は次郎が好きな映画「エイリアン」から採られているのだが、次郎はそれを理杏の前で口にしたことはない。
マンガにルーツがあるせいか、美大に進んでも理杏はメルヘンチックな絵を好んで描いた。自然を自然のままに描くことも、醜いものや不気味なものを描くのは嫌いだった。そして次郎は次郎で理杏の描く夢のある絵がお気に入りだった。
ある日理杏が次郎の見舞いに病院を訪れると、次郎はカバーの厚い重たそうな本を眺めているところだった。
「何読んでるの?」
理杏は訪ねた。
「理杏はあんまり興味ないかもしれないな。建築の本だよ」
「そんなこと言うなよ。建築だって美術の一環だろ?」
と言ったが、実際理杏に建築趣味はなかった。彼は二次元が大好きだ。
「この写真見てみろよ」
と言って次郎が示したのは、高い二本の塔が、緑色の光に照らされて夜空に聳え立っている写真だった。塔と言っても東京タワーのような貧弱そうな鉄骨づくりではない。太い幅を持った石造りの双子の塔だ。そのあまりに堂々とした姿に、建築趣味はないはずの理杏ですら、思わず息を呑んだ。
「ケルン大聖堂だよ」
次郎は言った。言われて気がついたが、塔の影に家のようなものがくっついているのが見えた。家といったが、周りに立ち並ぶ建物より高さが5倍くらいはありそうな巨大な家だ。
「好きなんだよなあゴシック建築ってやつが」
ゴシック建築という名前は理杏も聞いたことがある。よく覚えていないが、西洋建築の様式の一つだったはずだ。
「一度行ってみたかったんだけどな。この聖堂に」
次郎は過去形で語った。もう海外に行くことなどないと次郎は諦めてしまっているようだった。次郎の病気は進行していた。短期的に退院することはあっても、すぐに病院に逆戻りするような生活が続いていた。おそらくもう長くはない。理杏にもわかっていた。次郎もわかっている。そして次郎はそれを受け入れつつある。ただ、理杏はそれを受け入れられない。
「行けばいいよ。退院したら格安旅行でも見つけて一緒に行こう。学校なら一週間くらいサボっても大丈夫だからさ」
顔を引きつらせながら理杏は言った。嘘はつけない性格だ。次郎は薄く笑ってからしばらく口をとじたまま下を向いていた。居心地の悪い沈黙に理杏は戸惑ってしまったが、理杏が何か言い始めるよりも早く、次郎のほうが口を開き始めた。
「俺の退院を待つことはない。お前一人で行ってこいよ。ケルンに」
「……あのさあ、僕一人で行ってもしょうがないでしょ?」
「わかってるだろ。俺を待ってたらいつまでたってもそんなとこいけやしないって」
「いや、だから、そんなことは」
「俺は行けない。だからお前が行って来い」
「だって僕は別にあんまり興味ないし」
「俺は見たいんだよ。生で見れないなら、せめてお前がその目で見てその手で描いたケルン大聖堂の姿が……」
ドイツ鉄道の車窓から、ひたすら空を眺めていた。晴天に白雲を載せたその空は日本では見られないような形をしていた。まさに西洋絵画だ、と理杏は思った。足元においてあったスケッチブックを取り出して美しい光景を少しでも残そうとするのだが、ICE(特急列車)が進むのは早く、鉛筆を動かしたと思うと、外は既に違う光景になっている。それでもなんとか描き取ろうと数分は頑張ってみたのだが、やがてあきらめマンガみたいなネコのラクガキを描き出した。
「こんな美しい景色を前にしてもったいないねぇ」
ラクガキのネコが理杏に語りかける。むっとしながら理杏は答える。
「いいんだ。本当に美しいものは心の中に留めておけばいいんだ」
それは理杏がつねづね思っていることではあったが、負け惜しみには変わりが無かった。
やがて列車は大きく迂回しながらケルンの街に入っていく。街のシンボルともいえる高い双子の塔が見えてくる。おぼろげな塔の姿をスケッチブックに描きとめながら理杏は胸をときめかせた。
ケルン市街にはドイツ鉄道の駅が2つある。理杏はその内の大きいほう――ケルン中央駅という――で列車を降りた。広くて人の多い駅構内を抜けて外へ出たとき、理杏は言葉をなくしてしまった。巨大な聖堂が目の前にそびえたっていたのである。
「でかいなあ」
というミもフタも無い感想が理杏の心うちを占める。理杏は自称芸術家ではあっても建築にはうとい。それが故に「でかい」という感想しか持てなかったのかもしれない。
ケルン大聖堂。キリスト教にてイエス・キリストが生まれたときにやってきた東方の三博士を祭るために立てられたゴシック様式の教会である。その高さは157メートル。完成には六百年以上もの歳月がかかったというドイツ最大級の建築である。
だが理杏にはそんなことへの感傷はない。聖堂の扉に近づくとその形をデッサンしだした。一言に扉といってもその装飾も並のものではない。扉自身に文様がちりばめられているだけでなく、その周りにも大小の聖人の像がちりばめられている。あまりにも像の量が多いためかえって不気味に見えるくらいである。もっとも不気味なのはゴシック建築全般に言えることであるが。
「ようこそ。よく来たね」
デッサンの中の聖人像が言った。
「君がここに来るのを待っていたよ」
全てを見透かしたような言い方に理杏はムッとする。
「別にあなたたちのために来たわけじゃないよ。招待された覚えもないし」
「それは失礼した」
聖人像は小馬鹿にしたように笑った。
観光客用の扉を抜けて聖堂の中に入る。暗い。神の家を標榜するには、その中はあまりに暗くて冷えびえとする。壁や天井が重苦しい灰色をしているせいかもしれない。それか光の量が少ない。縦長のステンドグラスから差し込む日光と信者が置いたろうそくの灯り。それから通路の奥、一段高くなった場所にはスポットライトのような光が降り注いでいる。そこだけが地獄の中の楽園みたいで救いが見て取れるが、そうするとそこ以外はすべて地獄ということか? ひどい聖堂もあったものである。
中央に大きな通路。その脇に長いすが並んでいる様子は規模は違うものの結婚式で使われるエセチャペルと変わらない。イスの外側にはやはり薄灰色の太い柱が立ち並ぶ。ギリシャのエンタシスの柱を思い起こす柱の上部には草花の彫刻が施されていた。
恐る恐る中央の通路を歩く。咎めるものは誰もいない。歩きながら目についたものをスケッチをしていく。それもとがめられることはない。周りでいろんな国から来た観光客がパシャパシャ写真を撮っているのだから絵を描きとめるくらいでとやかく言われるはずがない。
理杏は正直聖堂内をスケッチしていても楽しく感じられなかった。何しろこの空間は暗すぎて、楽しくない。むしろ理杏の嫌う不気味な雰囲気を携えてすらいる。だが、正面の、光の降り注ぐ空間を目にしたときだけ、その憂鬱な気持ちも張れる。そこだけはやはり天国のような雰囲気に満ちている。その空間だけは柱の彫刻も金色に光、磨かれた床も輝いたように見える。そして理杏はその空間の中央に立った。楽園の中心に置かれているのは黄金色の箱。表面意びっしりと彫刻がなされているきらびやかな箱。聖櫃(せいひつ)という。キリスト教徒にとって大事なもののしまわれた宝箱だ。理杏もこればかりは気合いを入れて精密に写生した。側面に刻まれた三体の人間の姿を精密に描き写す。
「どうかな? 気に入ってもらえたかなこの聖堂を」
彫刻の一人が言った。
「立派なものだろう。数々の国からこの聖堂と、そして聖櫃を拝みに多くの人たちが集まってくる」
「確かにすごいと思うよ」
仏頂面で理杏は言い返した。
「外から見たときはさすがに度肝を抜かれたけどね。さすがはアルプス以北最大級のゴシック建築」
飛行機の中で読んだガイドブックに描かれていた文言である。
「でもあくまでも最大じゃなくて最大級なんだよね」
ケルン大聖堂は最大級という呼称はされても最大と言われることはまずない。何をもって最大とするかにもよるが、高さで言えば161.6メートルの高さを誇る同国ドイツのウルムにある大聖堂に及ばない。最大とするだけの決め手には欠けている。
「手厳しいことを言う」
さきほどとは違う彫刻が言った。
「しかし、それであっても、この聖堂が威厳を失うことはない。それはこうして訪れる人間の数を見てもわかるはずだ。」
「でも僕は嫌いだ」
理杏ははっきりと言った。
「中に入ってがっかりしたよ。この金ぴかの箱にはびっくりしたけどね。ただそれがガラスケースに入ってるのは好きになれない」
理杏の言うとおり聖櫃は観光客が触れないようにガラスケースに包まれている。それが美術館の展示か何かを思い出させて、神聖な威厳を半減させてしまっていた。
「それだけじゃないよ。何よりもこの中は不気味だ。こんな聖堂で人が救われるとは思えないしあなたたちに人が救えるとも思えない」
聖櫃に向かって暴言もいいところだが、理杏がしゃべっている相手は聖櫃そのものではなく、理杏自身が描いた絵なので、なんとでも言えてしまう。
「神は皆に等しく愛を与え、その愛は無限である」
三体目の彫刻が口を開いた。
「救いを求める者があれば神は等しく救いを与えるだろう。《求めよさらば与えられん》。その者は神の国へと辿り着くことができるだろう」
小難しいことを言う。
「きれいごとばかり言わないで欲しいな。それなら日本で苦しんでる友達がいるから救ってくれよ」
「その者が救いを求めているのなら、彼は天国へと召されるだろう」
「死んじゃったら意味がないだろ!」
そう叫んで理杏はスケッチブックを引き裂いた。そして破った紙をくしゃくしゃにして捨て……ようと思ったが聖堂の中にゴミを捨てるのははばかられたのでポケットの中に突っ込んだ。
そんな聖堂内を見て回るのはそれくらいにして、理杏は出口の脇にある「EINGANG(入り口)」と描かれた部屋に入った。そこは正確には部屋ではなく塔である。車窓からも良く見えた双子の塔の方割れだ。入ってすぐにあるカウンターの親父に入場料を払って理杏は階段を登る。上へ上へと登り続ける螺旋階段を。
世に名高いケルン大聖堂の塔である。理杏はなにか描くべきものがあることを期待してスケッチブックを構えながら一段一段登っていく。だが、彼は登り始めてすぐにある種の失望を感じた。神秘的なものを期待してやってきたこの塔の内部は観光客によるラクガキで汚れていた。その一方で内部に理杏を驚かせてくれるような芸術的な絵画も彫刻もなく、無機質な壁と階段が続くだけだった。
途中鐘撞き堂への入り口が壁に開いていたが、それを無視して理杏は先へ進んだ。降りてくる観光客とすれちがううち、ようやく階段は終わりをつげ、広い空間へと出ることができた。塔の頂上……ではない。その空間は以前として壁に囲まれているし、部屋の中央にはさらに上へと登るための階段が立っている。しかし天井らしい天井はなく、骨組みのごとき装飾をされた部品が、塔の更なる上部を支えていた。骨組みの隙間からは空が良く見えた。その装飾と空のコントラストに理杏は感動を覚えた。
塔はまだ続く。理杏は中央にあった螺旋階段を登っている。今度の階段さきほどのように壁に囲まれた閉鎖的なものでなく、外部の様子と塔にあつらえられた装飾が良く見えるものだったので、理杏は上機嫌になった。もちろんラクガキもここにはない。
ゴシック建築というのはなぜかとげとげしい装飾を好む。現にこの塔の要所にもいたるところに細かい十字架がびっしり取り付けられていて、遠目にはとげが生えているように見える。とげとげしいのはそれだけではない。小さな十字架に混じって、等身大の人間の像も生えている。
「うわぁ……」
その像を見て理杏は気持ち悪そうな声を上げた。無理も無い。その像は苦悶の表情でのた打ち回る人間の姿を写し取ったものだったから。そんなものが塔の壁から生えているのだからなおさら気持ち悪い。理杏にグロテスクな芸術派趣味はない。が、その像のあまりの迫力に、思わずスケッチブックに鉛筆を走らせた。自分の背後を観光客が通りづらそうに抜けていくのも気にせずに、理杏は像の表情を書き取った。そして、
「何がそんなに苦しいのさ」
と絵の中の彼に聞いた。
「そんなに苦しそうに見えるかい?」
彼は答えた。
「そうでなかったら絵に描いたりしないよ」
「苦しそうに見えたから俺を絵にしたのかい? なら俺は実物よりも苦しそうに描かれてるかもしれないなぁ」
「そんなことないよ。むしろ苦しさを表現できなくて自己嫌悪になるくらいだものね」
「あんたさあ、勘違いしてるよ」
「なにが?」
「別に俺は苦しさを抱えてるわけじゃない。見た目苦しそうな格好してるからあんたがそう思っただけのことさ。よく見てみな。あそこに生えている俺は苦しんでいるじゃなくて、苦しみから救われて喚起にむせび泣いているように見えないかい」
「……」
「でもそれも、そう見えるってだけのことかもしれないな。俺が本当にうれし泣きしてるのかはわからないな。ともかくここにいる俺はあそこに生えている俺とは違うってことだけは断言してやるよ」
「……うるさいな」
理杏は像の絵をを引き裂くと、紙片をくちゃくちゃにしてポケットの中につっこんだ。「ギャ」という声が聞こえた気もするが、気に留めないことにした。壁から生えていた彼は、聖人像が言う〝上にいる彼〟ではなかったようだ。
さらに上へと進む。階段もようやく終わりが見えた。そこはやはり前のような広い空間で、周りが壁に囲まれているところまで一緒だった。だが、骨組みの天井の上にもはや空以外に何もない。ついに塔の最上部まで辿り着いたらしい。壁には出口がを二つ。一つには「AUSGAG(出口)」というプレートが掲げられている。ちょっとのぞいてみると、下へ向かう階段が見えた。帰りはこっちから降りろということだろう。
何も書かれていない出口を抜けると、塔の周りをとりかこむように通路が延びていた。柵の向こうにケルンの町並みが一望できる。展望台になっているようだ。四角い箱のような建物の並ぶケルンの街。その中に時折立派な教会が混じる。左手に見える大きな河は父なる河ラインだ。南向きの位置から西向きの位置へと通路を移動する。その途中柵の変わりに塔の子分みたいな石造りの装飾の付いている部分があった。なんだろうとか思いながらも西方のケルンの町並みに目を移した。足元に見えるのは観光客の集う聖堂前広場であり、その先には石畳の続く古い町並み。そしてやがて近代的な街並みに変化していき、ずっと先にはテレビ等がそびえてっているのが見える。見る方角が違うだけで街の印象も変化する。不思議なものだ。理杏は例によって鉛筆を動かしていた。
景色を書いているうちに、塔の子分が視界に入った。この装飾も入れたほうが構図としてはおもしろいかもしれない、と遊び心を出しながら見たままに塔の子分をスケッチしていく。やがて、目と鉛筆の先が、不穏なものに引っかかった。塔の子分から生えた像。今度は人間ではなく、悪魔の像だった。まがまがしい角と翼、猛禽類のようなくちばしと爪を持つその姿はまさに悪魔だった。顔は凶暴そうに歪んでおり、目はケルンの町並みを憎々しげに睨みつけている。
恐ろしいその姿を、理杏は描き続けた。描くのを止めることができなかった。町並みよりも精密に正確に、壁から生えた悪魔の姿を写し取っていく。悪魔の姿を描き終えたとき、絵の中の悪魔が目をケルン市から理杏へと移した。憎々しげなまなざしをそのままにして。
「ようこそ」
扉の周りにいた聖人像と同じことを言う。
「せっかく来たのだ。そう怯えるな」
悪魔の言葉どおり、理杏は激しく怯えていた。悪魔の恐ろしい姿に怯えたのではない。自分にこんなにも精密な絵を描かせた存在感に怯えた。
「……なんで教会のてっぺんに悪魔が生えてるわけ?」
「そんなに我がここにいることが不思議か?」
「だって、教会って神様にお祈りするところだろ。そんなところに悪魔がいていいわけがないじゃないか」
「では暇つぶしに答えてやろうか。我がここにいるのは神が無力だからだよ」
「無力?」
「そう。全知全能を謳いながらも神は紙一枚動かすことのできない存在だ。お前は神から何か力添えを受けた覚えはあるか?」
理杏は首を横にふった。
「そうだろう。神がもたらしてくれるのは魂の救済だけだ。そのほかは何もしてくれない」
理杏は神に対して辛らつな悪魔な言葉を黙って聴いていた。
「それゆえ神への信仰は暴力に対して非常に脆い。勘違いしてほしくないのは脆いのであって弱いわけではないということだ。信仰心が強ければ、人は暴力に屈しはしない。だがそれも魂の話。肉体は別だ。どんなに人が暴力に屈せずとも、暴力を受け続ければ肉体は壊れる。」
「……」
「暴力だけではない。病気や災害についても同じことが言えるな」
「!」
「いや皮肉にも、そうした避けようのない苦しみに出会ったときこそ神の本領が発揮される、と言えるだろうな」
「なんだって」
今まさに病気に苦しむ友を持つ身として聞き捨てならなかった。
「なんだよそれ。病気のときこそ神の本領発揮? 奇跡でもおこしてくれるわけ?」
「違う。奇跡などない。だからこそ神の出番なのだ」
「?」
「死に行く者に必要なのは肉体の救済ではなく魂の救済だろう? それこそ神の得意とするものではないか」
理安の耳に、聖人像の言った「その者が救いを求めているのなら、彼は天国へと召されるだろう」という言葉が蘇った。奇跡などないならば、死を受け入れるしかない。苦しみながら死ぬよりは安らかに死のう。そういうことだ。
「さて、神は魂を救うのが得意なわけだが、それだけではとてもとても信仰は維持できない。さっきから言うように、暴力や疫病、災害で死に行く人間を死から救うことはできないのだから」
「いまいち話が見えないんだけど」
「いくら魂が救われようと、信仰する人間が死に絶えれば信仰は途絶える。簡単なことだな。だから人間は他の力ある存在を必要としたわけだ。魂を救う神とは違い、俗世を守る力を持った存在を」
「それがあんたって言いたいの?」
「そういうことだ。だからこそ我はこのようにしっかりとした形を与えられ、この街を見張っているのだよ。俗世に害をなす魔を払うための魔。それこそが我だ」
悪魔は誇らしげに語った。だが理杏はその醜悪な姿に、神聖なものが持つ醜い部分を見せ付けられた気がした。
「それでも僕はあんたを好きにはなれないよ。あんたが言ってるのは暴力には暴力で反抗しろって言ってるようなものだろ」
「そうだな。だが人間などそんなものだ。魂だけ救われて殺されてもいいというのならばこの世はそれこそ悪魔のみが住む地獄と変わりない世界になる」
「そんな暴力や天災に負けるほど人間は弱いものじゃないと僕は信じてるよ。悪魔に対抗するには悪魔になるしかないなんて悲しいじゃないか」
「そうだ。世界は悲しいものだ。所詮信仰など脆いもの。優しさだけでは何も救えんよ」
悪魔はそういい終わると、もう二度と口を開かなかった。
日本に戻ってきた理杏は早速次郎の病室へと向かった。もちろんスケッチブックを持って。
「お帰り。待ってたよ」
次郎は嬉しそうに理安を出迎えた。
「どうだった、 ケルンは?」
「う~ん、思ったよりも雑多なところだったよ。なんかでかい聖堂があるっていうからもっとこうキレイなところなのかと思ってたんだけど」
「ま、観光地だしな」
そんな会話をしたあと、理杏は次郎にスケッチブックを渡した。
「一回破いたやつとかあって汚いけどごめんね」
「いいよ別に」
スケッチブックには聖人像や苦しむ人間像の絵も張りなおしてあった。あのときはムカッときて、衝動的に破ってしまったが、あとで、ポケットの中からくしゃくしゃになった絵を取り出して張っておいた。悪魔の話を聞いた後では、彼らの話も少し理解できる気がする。
「うわあなんだよこれ」
そう呟いた次郎が見ていたのはくしゃくしゃになっている苦しむ人間像の絵だった。
「なんか大聖堂の塔に生えてたから描いといた」
「へえ、さすがゴシックだな」
わかったようなことを言う。そして、
「なんか言ってたか?」
と理杏に訊いた。理杏は口ごもったあげく、
「ねえ次郎。死ぬのは怖い?」
と逆に次郎に尋ねた。
「なんだよ急に?」
次郎は顔をしかめていた。あまり出して欲しい話題ではないのだろう。
「その像が言ったんだ。苦しみで泣いているんじゃない。苦しみから救われる嬉しさに泣いているんだって」
「……ふうん」
その場に沈黙が降りた。次郎に尋ねるには酷な質問であったのは確かだ。しかし、
「なんだか納得いかないよ。死ぬのが救いだなんて。僕は次郎に生きる希望を持っていき続けて欲しい」
ぽつりぽつりと理杏は言葉をこぼした。
「死ぬのはもう覚悟してる」
次郎は言った。
「覚悟はしてるけどさ、やっぱり俺まだ死にたくないよ」
そう言いながら笑った。しかし理杏はそんな次郎に何もしてあげることはできないのだった。
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