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逃げられない日々
しおりを挟む身を切るような思いで決意して、数日。僕は戸惑っていた。
「おはよう!」
「おはよー祐真君」
爽やかに登校してきた彼――祐真は、近くのクラスメイト達ににこやかに挨拶し、僕の隣の席につく。チラリと視線を向けてきた祐真は、にっこり笑う。
「おはよ」
「……おはよう」
そして、スッと視線をカバンへと移し、授業の準備を始める。それだけ。
拍子抜けするくらいに、祐真は僕に近づいてこなかった。挨拶を交わす程度の浅い関係。なんだ、やっぱり自意識過剰。僕はこっそり自嘲すると、手元の本に視線を戻した。
――その様子を、一瞬も見逃さないとばかりに横目で伺がう鋭い瞳に気付くことなく。
夕焼けに空が紅く染まる時分、僕は足早に目的地へと向かっていた。本来、授業が終わるや否や、そそくさと教室を後にした僕だったのが、運悪く担任教師に捕まって手伝いをさせられこの時間である。
「ああもう、間に合わなかったら二度と手伝わない、あの教師っ」
悪態付きつつ、チラリと時計に視線を落とし、なんとか間に合いそうだとホッとする。暫く歩き、動物病院が見えた事で足をようやく緩める事が出来た。学校にほど近いこの動物病院には、例の白茶虎の子猫を預けていた。悠真に庇われたとは言え、事故に遭ったので念のためと連れてきたのだ。幸い、パニックに陥っただけで怪我もなく、今は野良の子猫という事で一時預かりになっているのだ。
「こんにちは」
「こんにちは……あ!柊羽君!今日もお見舞いね」
「はい。何度もすみません」
足早に中に入り、すっかり顔なじみになった看護師に頭を下げる。笑顔でちょっと待っててね、と奥に引っ込んでいく背中を見送りつつカバンをおろしてソファに座る。
「本当は飼ってあげたいんだけど……」
ぼそりと呟くも、頭を振る。その時。
「あれ?柊羽?」
「!?」
自動ドアが音もなく開いたかと思うと、ひょいと見覚えのある顔が覗き、僕は飛び上がった。ジワリと滲む汗を感じつつ、そろりと顔を上げると爽やかな笑みを浮かべた祐真がそこに立っていた。
「奇遇だね。もしかして、あの子のお見舞い?」
「あ、いや、別に……かえ」
「お待たせ、柊羽君!あら、祐真君もお見舞いかな?」
「こんにちは。はい、その子と仲よくなりたいので」
そそくさと逃げようとするものの、タイミング悪く看護師が子猫を連れてきてしまう。逃げるタイミングを逸して固まったが、その手の中で小さく丸まっていた子が、顔を上げて柊羽を見た瞬間に逃げる事を諦めた。悠真も既に看護師と顔見知りのようで、親し気に挨拶を交わしている。みぃみぃと鳴いてもがく子猫を僕に渡し、看護師はさっさと去っていった。
「……ひさしぶり」
「え、ちょっと、ずるい。俺にはひっかこうとするのに、なんで柊羽には甘えてんの」
そっと小さな頭を撫でると、子猫は気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らす。不満そうに唇を尖らせた祐真が、ひょいとその様子を覗き込んでくる。余りに近いその距離に、再び僕は硬直した。ともすれば、その体温が伝わってくるくらいに近くに座り、顔をよせている。この子を見たいだけ、この子を見たいだけ、と言い聞かせるがふわりと鼻孔を擽る甘い匂いに、目眩がした。
「いって。ああもう、何でコイツそんなに俺が嫌いなの?!ねぇ、ちょっとどう思う?」
「……どうって、祐真のせいで怖い目にあったとか思ったんじゃないの」
「冷たい!そもそも俺助けた側!」
「大きい声出さないでよ。怖がるでしょ」
「恐ろしい程に容赦ない。俺そんなに怖い?」
ショボン、と項垂れる様はまるで叱られた大型犬で。うっかり可愛いと思ってしまい、僕は狼狽えた。そもそも、そこまで親しくないのについあしらう様な事を言ってしまい、だから僕は可愛げがないのだと唇を噛む。すっと立ち上がるとそのまま近くの看護師に声を掛ける。
「すみません、ありがとうございました」
「あら、もう帰るの?」
「はい、また来ます」
本当はもっと一緒に居たいけれど。そんな本音は無理やり飲み下し、離れたくないとばかりに爪を立てる子猫を引き渡す。その時、ついと伸びた逞しい腕が子猫の小さな頭をやや乱暴に掻き回す。
「また明日な。柊羽と来るからいい子で待ってろよ」
「は?ちょっと、何勝手に」
「いいじゃねぇか。どうせ会いに来るのは同じなんだし、一緒に来た方が迷惑じゃないだろ?」
「いや、まぁそれはそうだけど」
しれっと返され、言葉に詰まる。どうしよう、と焦るが策が思い浮かばず、僕を置いてけぼりに祐真は看護師と約束を交わしている。振り返った祐真は、してやったりと言わんばかりの笑顔で。僕は苦々し気に睨みつける事しか出来なかった。
――嬉しい、と囁く声を封じ込める様に。
「じゃあ、これでホームルームは終了。気を付けて帰るように」
次の日。僕はホームルームが終わるな否や、カバンを持って勢いよく立ち上がった。その勢いにあおられ、仰け反る友人の姿は見てみぬふりをして、そそくさと教室を去ろうとする。約束してしまった以上、子猫に会いに行かないという選択肢はない。知らぬことだと、行かないという手もあるが、こればかりは自分の律儀な性格を恨むしかない。そうなれば、さっさと一人で行って、適当に誤魔化して逃げるしかない。そう思ったのだが。
「ちょっとちょっとちょっと。おいてかないでよ」
「っ!?」
祐真の脇をすり抜けようとした瞬間に、器用にもカバンを取り上げられてたたらをふむ。慌てて取り返そうとするものの、のらりくらりと躱され、その端正な顔を睨みつける。
「何なに?二人って仲いいの?」
「実はそうなんだよねー」
「ちょっと!嘘つかないで」
「あらら、早速バレちゃった。正確には懐いてもらおうと努力中ー」
「僕は動物か何かか!」
「そうそう、毛を逆立てた子猫とか」
「あ、なんかわかるかもー」
やいのやいの、とはやし立てて集まってくるクラスメイトを押しのけて行くことも出来ず、僕は頭を抱えた。その隙に、祐真はささっと支度を整え、ニヤリと笑って僕の手を取った。
「ってことで、仲よくなってくるからそこ退いてね」
「何処か行くの?じゃあ皆で遊びに行かない?」
「だーめ。それじゃあ子猫ちゃんに逃げられちゃう」
「誰が子猫か!」
「え、じゃあ逃げない?」
「誰が逃げるか……っ!」
ついうっかり言い返してしまい、しまったと口を押さえるが後の祭り。満面の笑みを浮かべた祐真に、僕は項垂れた。
「ごめんねー。実は俺が事故った時に助けてくれたのが柊羽でさ。その御礼もしたいから、皆と遊ぶのはまた今度ね」
キラキラとした笑顔でやんわりと断わる祐真。残念そうにしつつも、それならと不満なく散っていくクラスメイトを見て、僕はため息をついた。
「相変わらず、人たらし何だから……」
「え?相変わらずって何?まぁとりあえず行こうよ」
ああ、やっぱりこの笑顔は嫌いだ。
だって、この笑顔でお願いされること、全部叶えたくなってしまうから。
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