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傘を二つさす男
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今週はずっと雨らしい。
僕はビニール傘をたたく雨の音を聞きながら、大きな公園を横切っていた。時刻は朝七時。あいにくの天候にもかかわらず多くの人が行き交っている。僕と同じように、この公園を通学や通勤に使っている人々だろう。名前も住所も知らないが、顔だけはよく見知った顔とちらほらすれ違う。
通い慣れた道で、ふと僕は足を止めた。
二つ、傘をさしている男がいた。
一つは自分に、もう一つは公園のベンチに向けていた。ベンチは空っぽだった。
僕は不思議に思ったが、そう間は置かずに歩き出した。学校に着く頃には、朝見た男のことなどすっかり忘れていた。
下校時刻になった。僕はまた、同じ道で足を止めた。
二つの傘を差す男は、まだそこにいた。左手に握った傘をベンチにかざしたまま、男はじっと、ベンチに向かって立っていた。
僕は朝より少し長く彼を眺めたが、また家へと向かって歩き出した。今度は家に着いてからも、しばらく男の背中を覚えていた。それでも、眠る頃には忘れていた。
次の朝、傘の柄を握りながら、僕はふと昨日二度見た光景を思い出した。まさか、と思ったが、例の男はその日も二つの傘をさしてベンチの前にいた。
僕はいよいよ興味を惹かれた。朝夕、雨の降りしきる公園を横切るたび男を横目に観察した。男の歳は三十か、四十か。痩せ気味で、その背は少し丸まっている。僕が見かけてから三日目まではスーツを着ていたが、四日目からはカジュアルな服装をしていた。
彼を観察するうち、僕はなんとなく「彼はベンチと会話をしているのでは」と思い始めた。一度、ゴミを拾うふりをして彼とベンチに近づいたとき、何やら話し声が聞こえた気がしたのである。
好奇心は猫を殺す。あまり近づき過ぎてもあやしまれるだろう、と僕はやきもきした思いで、いつも少し遠くから彼を見ていた。
男を初めて見てから七日が経った。一週間降り続けていた雨がやっと止んだ。
久々に傘を持たずに公園に向かった僕は、またくだんの男を見かけた。
けれども、男は傘をさしていなかった。立ってもいなかった。代わりに、傘を二本膝に載せて例のベンチに座っていた。
僕は一瞬ぎょっとした。思わず目をそらして、早足に通り過ぎようとした。けれどもしばらくたって、僕は足を止めた。
それから振り返って、男の元へ駆け寄った。
「あの」
ベンチに座ってぼうっと前を眺めていた男の肩がびくっと跳ねた。驚いた表情で僕を見て、はあ、と息を吐いた。なぜだか落胆しているようだった。
僕は思いきって、男に訊いてみた。
「ここ一週間ぐらい、毎朝ここであなたを見かけたんです。傘を二つ、差していましたよね。どうしてそんなことをしていたのですか」
我ながら下世話な問いだと思った。それでもなぜだかひどく気になって、いてもたってもいられなかった。
男は少し目を丸くして、それからぎこちなく笑顔を作った。「見られていましたか」と、か細く笑った。
「透明人間の女性が、このベンチに座っていらっしゃいましてね」
男は続けた。
「彼女は未来から来たそうでした。未来の世界では、みんな透明人間になってしまうのだと言っていました。老いや若さ、美しさや醜さ。性別や人種すら、気にせず自由に生きられるから未来の人々は透明になったそうです」
僕は不思議と、すんなり彼の言葉を受け入れた。
「透明人間に、よく気がつきましたね」
「ええ、まあ」
男は軽く頷いた。
「ざんざんぶりの雨の中、ぽっかりと濡れていなかったのですよ。このベンチの上が。それを見て不思議に思いましてね、近寄ったら急に声が聞こえたんです。『私の姿が見えるのですか』、と」
それが“彼女”の声でした、と男は懐かしむように言った。
「“彼女”は僕が『見えていない』と答えると、ひどくがっかりしたようでした。なんでも、“人間の表情”が見たくて未来の世界からやってきたそうで、自分の表情も『見られるものならば見てみたい』と言っていました」
未来からきた“彼女”は書物でかつて人間は透明でなかった事実を知り、顔の動きで感情をあらわしていたことに強く興味を惹かれたそうだ。やっとの思いで過去の世界に来たはいいものの、どうすればよいか分からず、とりあえず目にとまったベンチに腰をかけていたらしい。
「結果的に、ベンチから公園を見るのは彼女にとって正解だったようです。『ここに座っていれば、通り過ぎてゆく人の顔をゆっくりと眺められる』、と。そこまで“彼女”の話を聞いて、僕は急いでもう一本傘を取りに帰りました。それから彼女の上だろう場所に傘を差しました。そうしたら、喜んでくれたんです。『ありがとう。雨が目にかかって少し見えづらかったから、すごく助かる』って」
男は、それから毎日朝から晩まで彼女に傘を差し続けた。
“彼女”は寝たり起きたり、ものを食べたりするのか。衣類やアクセサリーを身につけているとしたら、それも透明なのか。男は疑問に思ったが、ついぞ“彼女”に訊けはしなかった、と恥ずかしそうに笑った。
「それを女性に尋ねるのは、なんだか失礼な気がして」
四日目から服装を変えたのは、“彼女”たっての希望だったらしい。
「『違う格好のあなたが見たいわ』、と言ってくれて。その日はいつもより早く彼女の元を離れて、服屋に飛び込みました。店員さんにききながら服を何そろいか買ったんです」
照れくさそうに着ていたポロシャツをつまんで、男は頭をかいた。
「なんせ、恋人なんかできたことがないもので。初めてだったんですよ、女性と会うために服を買ったのは」
“彼女”の邪魔をしないよう、男は最初ほとんど“彼女”に話しかけなかったらしい。しかしだんだんと、“彼女”から男に声をかけるようになり、最後は日がな一日二人で他愛もない会話を交わしたそうだ。
「『あなたの表情をたくさん見たいわ』なんて言って、“彼女”、色んな話をしてくれたんです。怖い話だったり、悲しい話だったり、笑える話だったり。それも上手に話すんですよ。僕も久々に笑って泣いて、素敵な映画を見ているようでした」
話し終えて、男はゆっくりと口を閉じた。
「あの」
少しの間ながれた沈黙を破って、僕は彼に問いかける。
「その女性は、今どこに?」
一呼吸置いて、男はまた口を開いた。その顔は、寂しくほほ笑んでいた。
「帰ってしまいました、未来に」
“彼女”は昨日の晩、突然男の傘から出ていった、と男は言う。
「『もう帰らなくちゃいけないの』って、急に立ち上がったようで。傘に頭をぶつけながら外へ出て行きました。雨で、街灯のあかりもぼんやりとけぶっていて」
ただでさえ見えづらい視界に、“彼女”は透明人間。
「目で追おうにも、夜の暗闇ばかりが目に入って。ああ、これでお別れなのか、と思った瞬間でした」
“彼女”が、男の手を取った。それからその手を“彼女”の顔に何度か沿わせた。
「彼女、たしかに笑っていました。『ありがとう』って、笑顔で言ってくれました」
『さようなら』が聞こえた頃には、男の手は空を切っていたという。
また沈黙がながれた。今度は、男がその沈黙を破った。
「僕はね、彼女がこの世界にいられるあいだ、ずっと雨が降っていてよかったとしみじみ思うんです」
雨が降っていたから、“彼女”は誰もいないベンチに座ることができた。ゆっくりと往来を眺めることができた。そして男は、そんな“彼女”に気がつけた。
二つの傘の下は、二人だけの空間だった。
「そういえば“彼女”に会った日から、七日ぐらい経ちましたかね。あはは、一度も会社に行っていない。毎日あんなに必死に働いていたのにな」
まあ、いいか。男は細い肩を揺らして、笑って言った。
僕はビニール傘をたたく雨の音を聞きながら、大きな公園を横切っていた。時刻は朝七時。あいにくの天候にもかかわらず多くの人が行き交っている。僕と同じように、この公園を通学や通勤に使っている人々だろう。名前も住所も知らないが、顔だけはよく見知った顔とちらほらすれ違う。
通い慣れた道で、ふと僕は足を止めた。
二つ、傘をさしている男がいた。
一つは自分に、もう一つは公園のベンチに向けていた。ベンチは空っぽだった。
僕は不思議に思ったが、そう間は置かずに歩き出した。学校に着く頃には、朝見た男のことなどすっかり忘れていた。
下校時刻になった。僕はまた、同じ道で足を止めた。
二つの傘を差す男は、まだそこにいた。左手に握った傘をベンチにかざしたまま、男はじっと、ベンチに向かって立っていた。
僕は朝より少し長く彼を眺めたが、また家へと向かって歩き出した。今度は家に着いてからも、しばらく男の背中を覚えていた。それでも、眠る頃には忘れていた。
次の朝、傘の柄を握りながら、僕はふと昨日二度見た光景を思い出した。まさか、と思ったが、例の男はその日も二つの傘をさしてベンチの前にいた。
僕はいよいよ興味を惹かれた。朝夕、雨の降りしきる公園を横切るたび男を横目に観察した。男の歳は三十か、四十か。痩せ気味で、その背は少し丸まっている。僕が見かけてから三日目まではスーツを着ていたが、四日目からはカジュアルな服装をしていた。
彼を観察するうち、僕はなんとなく「彼はベンチと会話をしているのでは」と思い始めた。一度、ゴミを拾うふりをして彼とベンチに近づいたとき、何やら話し声が聞こえた気がしたのである。
好奇心は猫を殺す。あまり近づき過ぎてもあやしまれるだろう、と僕はやきもきした思いで、いつも少し遠くから彼を見ていた。
男を初めて見てから七日が経った。一週間降り続けていた雨がやっと止んだ。
久々に傘を持たずに公園に向かった僕は、またくだんの男を見かけた。
けれども、男は傘をさしていなかった。立ってもいなかった。代わりに、傘を二本膝に載せて例のベンチに座っていた。
僕は一瞬ぎょっとした。思わず目をそらして、早足に通り過ぎようとした。けれどもしばらくたって、僕は足を止めた。
それから振り返って、男の元へ駆け寄った。
「あの」
ベンチに座ってぼうっと前を眺めていた男の肩がびくっと跳ねた。驚いた表情で僕を見て、はあ、と息を吐いた。なぜだか落胆しているようだった。
僕は思いきって、男に訊いてみた。
「ここ一週間ぐらい、毎朝ここであなたを見かけたんです。傘を二つ、差していましたよね。どうしてそんなことをしていたのですか」
我ながら下世話な問いだと思った。それでもなぜだかひどく気になって、いてもたってもいられなかった。
男は少し目を丸くして、それからぎこちなく笑顔を作った。「見られていましたか」と、か細く笑った。
「透明人間の女性が、このベンチに座っていらっしゃいましてね」
男は続けた。
「彼女は未来から来たそうでした。未来の世界では、みんな透明人間になってしまうのだと言っていました。老いや若さ、美しさや醜さ。性別や人種すら、気にせず自由に生きられるから未来の人々は透明になったそうです」
僕は不思議と、すんなり彼の言葉を受け入れた。
「透明人間に、よく気がつきましたね」
「ええ、まあ」
男は軽く頷いた。
「ざんざんぶりの雨の中、ぽっかりと濡れていなかったのですよ。このベンチの上が。それを見て不思議に思いましてね、近寄ったら急に声が聞こえたんです。『私の姿が見えるのですか』、と」
それが“彼女”の声でした、と男は懐かしむように言った。
「“彼女”は僕が『見えていない』と答えると、ひどくがっかりしたようでした。なんでも、“人間の表情”が見たくて未来の世界からやってきたそうで、自分の表情も『見られるものならば見てみたい』と言っていました」
未来からきた“彼女”は書物でかつて人間は透明でなかった事実を知り、顔の動きで感情をあらわしていたことに強く興味を惹かれたそうだ。やっとの思いで過去の世界に来たはいいものの、どうすればよいか分からず、とりあえず目にとまったベンチに腰をかけていたらしい。
「結果的に、ベンチから公園を見るのは彼女にとって正解だったようです。『ここに座っていれば、通り過ぎてゆく人の顔をゆっくりと眺められる』、と。そこまで“彼女”の話を聞いて、僕は急いでもう一本傘を取りに帰りました。それから彼女の上だろう場所に傘を差しました。そうしたら、喜んでくれたんです。『ありがとう。雨が目にかかって少し見えづらかったから、すごく助かる』って」
男は、それから毎日朝から晩まで彼女に傘を差し続けた。
“彼女”は寝たり起きたり、ものを食べたりするのか。衣類やアクセサリーを身につけているとしたら、それも透明なのか。男は疑問に思ったが、ついぞ“彼女”に訊けはしなかった、と恥ずかしそうに笑った。
「それを女性に尋ねるのは、なんだか失礼な気がして」
四日目から服装を変えたのは、“彼女”たっての希望だったらしい。
「『違う格好のあなたが見たいわ』、と言ってくれて。その日はいつもより早く彼女の元を離れて、服屋に飛び込みました。店員さんにききながら服を何そろいか買ったんです」
照れくさそうに着ていたポロシャツをつまんで、男は頭をかいた。
「なんせ、恋人なんかできたことがないもので。初めてだったんですよ、女性と会うために服を買ったのは」
“彼女”の邪魔をしないよう、男は最初ほとんど“彼女”に話しかけなかったらしい。しかしだんだんと、“彼女”から男に声をかけるようになり、最後は日がな一日二人で他愛もない会話を交わしたそうだ。
「『あなたの表情をたくさん見たいわ』なんて言って、“彼女”、色んな話をしてくれたんです。怖い話だったり、悲しい話だったり、笑える話だったり。それも上手に話すんですよ。僕も久々に笑って泣いて、素敵な映画を見ているようでした」
話し終えて、男はゆっくりと口を閉じた。
「あの」
少しの間ながれた沈黙を破って、僕は彼に問いかける。
「その女性は、今どこに?」
一呼吸置いて、男はまた口を開いた。その顔は、寂しくほほ笑んでいた。
「帰ってしまいました、未来に」
“彼女”は昨日の晩、突然男の傘から出ていった、と男は言う。
「『もう帰らなくちゃいけないの』って、急に立ち上がったようで。傘に頭をぶつけながら外へ出て行きました。雨で、街灯のあかりもぼんやりとけぶっていて」
ただでさえ見えづらい視界に、“彼女”は透明人間。
「目で追おうにも、夜の暗闇ばかりが目に入って。ああ、これでお別れなのか、と思った瞬間でした」
“彼女”が、男の手を取った。それからその手を“彼女”の顔に何度か沿わせた。
「彼女、たしかに笑っていました。『ありがとう』って、笑顔で言ってくれました」
『さようなら』が聞こえた頃には、男の手は空を切っていたという。
また沈黙がながれた。今度は、男がその沈黙を破った。
「僕はね、彼女がこの世界にいられるあいだ、ずっと雨が降っていてよかったとしみじみ思うんです」
雨が降っていたから、“彼女”は誰もいないベンチに座ることができた。ゆっくりと往来を眺めることができた。そして男は、そんな“彼女”に気がつけた。
二つの傘の下は、二人だけの空間だった。
「そういえば“彼女”に会った日から、七日ぐらい経ちましたかね。あはは、一度も会社に行っていない。毎日あんなに必死に働いていたのにな」
まあ、いいか。男は細い肩を揺らして、笑って言った。
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