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Episode〈8〉白刃 ⑹
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結局、私は夜になるまでぐずぐずと鼻を啜っていた。
膝を抱え込んで顔を伏せたまま泣く私の前で、風馬はじっと座り込んでいた。いつものように、自室に引きこもる気はないようだった。
私がやっと泣き止んだタイミングを見計らって、優しい声がかけられる。
「夕飯、食べたいものある?」
少しの沈黙ののち、私は口を開いた。
「……食べたくないものなら、ある」
「それは何?」
「……カレー」
そっか、と短く相づちを打って、風馬はまた優しい声で私に訊いた。
「それが、カタナとの思い出の味?」
“カタナとの思い出の味”───その言葉は、すとんと胸に落ち着いた。
かつては“家族との思い出の味”だったカレー。それが、今は“カタナとの思い出の味”になっている。かつて感じた“幸せの味”に、重ねて思い出す人がいる。
気がつけば、何度も首を縦に振っていた。
確かめるように、自分自身に知らしめるように。私は、カタナと過ごして───“幸せ”だったのだと。
「星子は、“カタナ”が好きなんだね」
顔を上げると、風馬は柔らかくほほ笑んでいた。
「……うん、好き」
その視線があんまりにも優しくて、ずっと喉の奥につっかえていた言葉がぽろりとこぼれ落ちる。
「好き、大好き。カタナのことが、大好き」
言ってはいけない、“私”が言っていい言葉ではない。そうやって、押し込めてきた素直な自分の思いが今、堰を切ったようにあふれ出る。
「うん、うん」
また涙を流して嗚咽にむせび始めた私を見つめながら、風馬はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、星子。話してくれないかな」
涙に濡れたまま、私も風馬を見つめ返した。
「星子が“カタナ”とどんな生活を送ってきたか。“カタナ”の、どんなところに惹かれたのか。病院では話しきれなかったことを、すべて教えて欲しいんだ」
ちょっと待っててね、と言って風馬はタオルとグラスに注いだ麦茶を持ってきた。
それを私に渡して、すぐに彼は手を引っ込めた。
───そう。風馬は、こういう優しい気遣いが自然とできる人。
そして、かつての私は風馬のそんなところに惹かれたのだ。
───カタナのどんなところに惹かれたの、か。
そう今一度問われると、要領を得ない言葉しか浮かばない。風馬を好きになった理由なら、一つ一つ確かに言葉に出来たのに。
───強いて言うなら、“全部”、とか。
あまりに恋にうつつを抜かしています、と言わんばかりの回答が頭をよぎって思わず顔が熱くなる。それを見た風馬が、ふふ、と穏やかに笑った。
「聞かせてよ星子の恋の話」
柔和な笑顔に促されて、私はぽつりぽつりと話し始めた。
“美空”として生きることを決めた日のこと、小さな結婚式をあげたこと、湯河原へ新婚旅行にでかけたこと、カタナが怪我をして帰って来た日から3日間ずっと一緒にいたこと、カレーを食べたこと、次の日の朝はカレーうどんを食べたこと、それから文字通り寝食を共にするようになったこと、たくさん映画をみたこと、映画館に出かけたこと。
彼と離れるまで、経験したすべての出来事と感情を思い出せる限り、すべて風馬に話した───それはもう、カタナとの性的な営みに至るまで。
「……なかなか予想以上に、赤裸々に話してくれたね」
話を聞き終えた風馬は、眉尻を下げて少し気まずそうに笑いながらそう言った。私も、他人から同じような話を聞けば同じような反応をしたと思う。
───それでも、話しておきたかった。
カタナが私に触れる指先の体温を、見つめる瞳の優しさを、昂ぶって印す赤い痕を。
カタナが私を抱く度、快楽に加えて感じるようになった喜びを。切なさを。愛おしさを。
カタナと過ごしたすべての時間が、私の中でひどく大切なものになっていることを。
風馬は少し考え込んだ様子でしばらく天井を見上げていたが、ふと視線を私に戻して口を開いた。
「ねえ、星子。もしかしたら“カタナ”も、星子とおんなじ気持ちかもしれないよ」
「え?」
突拍子もない発言に、驚きが口をついて出た。風馬は自分の思いつきに自分で何度も頷きながら、ぽつりと独りごちる。
「星子とおんなじ気持ちだから、“カタナ”がいまだに動いていないんだとすれば、説明がつく」
要領を得ない風馬の発言に首をかしげていると、不意に彼が私を見た。
「……ねえ、星子。“カタナ”に会いたい?“カタナ”と一緒にいたい?」
直球的な質問に、素直に首を縦に振る。
そうか、と小さく相づちを打って、風馬は今一度私に向き直った。
「これから俺がする提案に、成功する保証はない。ほとんど賭けだ。もしかしたら、星子をもっと傷つけてしまうかもしれない。だけど、多分───星子にも俺にも、もうこの手しか残されていないと思うんだ」
風馬の真剣な眼差しが、じっと私を見つめている。
「俺の話を、聞いてくれる?」
彼の目を見て、私は直感的に悟った。
───最後の引き金を引くのは、今この時だ、と。
「教えて、風馬。私が、何をすればいいのか。どうすれば、カタナにまた会えるのか」
渡された言葉の拳銃を受け取って、自分の頭に据える。あとは、知るだけだ。
最後の引き金の、その引き方を。
膝を抱え込んで顔を伏せたまま泣く私の前で、風馬はじっと座り込んでいた。いつものように、自室に引きこもる気はないようだった。
私がやっと泣き止んだタイミングを見計らって、優しい声がかけられる。
「夕飯、食べたいものある?」
少しの沈黙ののち、私は口を開いた。
「……食べたくないものなら、ある」
「それは何?」
「……カレー」
そっか、と短く相づちを打って、風馬はまた優しい声で私に訊いた。
「それが、カタナとの思い出の味?」
“カタナとの思い出の味”───その言葉は、すとんと胸に落ち着いた。
かつては“家族との思い出の味”だったカレー。それが、今は“カタナとの思い出の味”になっている。かつて感じた“幸せの味”に、重ねて思い出す人がいる。
気がつけば、何度も首を縦に振っていた。
確かめるように、自分自身に知らしめるように。私は、カタナと過ごして───“幸せ”だったのだと。
「星子は、“カタナ”が好きなんだね」
顔を上げると、風馬は柔らかくほほ笑んでいた。
「……うん、好き」
その視線があんまりにも優しくて、ずっと喉の奥につっかえていた言葉がぽろりとこぼれ落ちる。
「好き、大好き。カタナのことが、大好き」
言ってはいけない、“私”が言っていい言葉ではない。そうやって、押し込めてきた素直な自分の思いが今、堰を切ったようにあふれ出る。
「うん、うん」
また涙を流して嗚咽にむせび始めた私を見つめながら、風馬はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、星子。話してくれないかな」
涙に濡れたまま、私も風馬を見つめ返した。
「星子が“カタナ”とどんな生活を送ってきたか。“カタナ”の、どんなところに惹かれたのか。病院では話しきれなかったことを、すべて教えて欲しいんだ」
ちょっと待っててね、と言って風馬はタオルとグラスに注いだ麦茶を持ってきた。
それを私に渡して、すぐに彼は手を引っ込めた。
───そう。風馬は、こういう優しい気遣いが自然とできる人。
そして、かつての私は風馬のそんなところに惹かれたのだ。
───カタナのどんなところに惹かれたの、か。
そう今一度問われると、要領を得ない言葉しか浮かばない。風馬を好きになった理由なら、一つ一つ確かに言葉に出来たのに。
───強いて言うなら、“全部”、とか。
あまりに恋にうつつを抜かしています、と言わんばかりの回答が頭をよぎって思わず顔が熱くなる。それを見た風馬が、ふふ、と穏やかに笑った。
「聞かせてよ星子の恋の話」
柔和な笑顔に促されて、私はぽつりぽつりと話し始めた。
“美空”として生きることを決めた日のこと、小さな結婚式をあげたこと、湯河原へ新婚旅行にでかけたこと、カタナが怪我をして帰って来た日から3日間ずっと一緒にいたこと、カレーを食べたこと、次の日の朝はカレーうどんを食べたこと、それから文字通り寝食を共にするようになったこと、たくさん映画をみたこと、映画館に出かけたこと。
彼と離れるまで、経験したすべての出来事と感情を思い出せる限り、すべて風馬に話した───それはもう、カタナとの性的な営みに至るまで。
「……なかなか予想以上に、赤裸々に話してくれたね」
話を聞き終えた風馬は、眉尻を下げて少し気まずそうに笑いながらそう言った。私も、他人から同じような話を聞けば同じような反応をしたと思う。
───それでも、話しておきたかった。
カタナが私に触れる指先の体温を、見つめる瞳の優しさを、昂ぶって印す赤い痕を。
カタナが私を抱く度、快楽に加えて感じるようになった喜びを。切なさを。愛おしさを。
カタナと過ごしたすべての時間が、私の中でひどく大切なものになっていることを。
風馬は少し考え込んだ様子でしばらく天井を見上げていたが、ふと視線を私に戻して口を開いた。
「ねえ、星子。もしかしたら“カタナ”も、星子とおんなじ気持ちかもしれないよ」
「え?」
突拍子もない発言に、驚きが口をついて出た。風馬は自分の思いつきに自分で何度も頷きながら、ぽつりと独りごちる。
「星子とおんなじ気持ちだから、“カタナ”がいまだに動いていないんだとすれば、説明がつく」
要領を得ない風馬の発言に首をかしげていると、不意に彼が私を見た。
「……ねえ、星子。“カタナ”に会いたい?“カタナ”と一緒にいたい?」
直球的な質問に、素直に首を縦に振る。
そうか、と小さく相づちを打って、風馬は今一度私に向き直った。
「これから俺がする提案に、成功する保証はない。ほとんど賭けだ。もしかしたら、星子をもっと傷つけてしまうかもしれない。だけど、多分───星子にも俺にも、もうこの手しか残されていないと思うんだ」
風馬の真剣な眼差しが、じっと私を見つめている。
「俺の話を、聞いてくれる?」
彼の目を見て、私は直感的に悟った。
───最後の引き金を引くのは、今この時だ、と。
「教えて、風馬。私が、何をすればいいのか。どうすれば、カタナにまた会えるのか」
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最後の引き金の、その引き方を。
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