刃に縋りて弾丸を喰む

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Episode〈6〉漣波 ⑺

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 「……まさか、こんなところで星子に会うとはね」
 脱衣所で髪を拭きながら、光さんは軽快に笑った。
 「私のセリフですよ。まさか、引っ越していたなんて」
 なんでも、光さんはひと月ほど前に『くずの家』を閉めて、この土地に越してきたそうだった。
 「……まあ、色々あってね。星子も来てくれなくなっちゃったし~」
 「あはは……」
 なぜ・・『くずの家』を訪れなくなったのか、上手い言い訳が浮かばず笑ってごまかした。
 「アンタ、今夜はどうするの?せっかくだから、うちの店に飲みに来なさいよ」
 どうやら彼女はこちらでも居酒屋を経営しているそうで、この温泉から歩いて行ける距離にあるとのことだった。
 「うーん……行きたいのはやまやまなんです、けど」
 光さんの作るおつまみにビールを一杯、というのは大変に魅力的なお誘いである。しかし、きっと……。
 カタナが、いい顔をしないだろう。
 「……すみません、今日は宿で夕食を取る予定なので」
 「そう?っていうかアンタ、誰か連れが───…」

 ───「あ、やっぱりまだいた!」

 脱衣所の入り口から聞こえた、少し幼さの残る声に、二人そろって振り返る。
 「今日は酒屋さんが来るから早めに店に戻ってねって言ったじゃん、お母さん!」
 声の主は、光さんに向かって詰め寄った。
 「あれ、飛鳥ちゃん……?」
 見覚えのある顔に、心当たりのある名前が口からついて出る。くるりとこちらを振り返った少女は、あっと驚いた顔をした。
 「星子さん!お久しぶりです」

 「もうね、この通り。あたしよりしっかり商売をやってくれてるよ、この子は」
 光さんが傍らに立つ少女の背をぽん、と叩く。
 黒いTシャツにGパン姿、長い髪を光さんと同じように後ろでひっつめた少女の名は“飛鳥”といった。光さんの一人娘だそうだ。
 『くずの家』に通っていた頃から彼女の存在は知っていたが、滅多に店に出てくることはなかった。時折、飛鳥の方から「手伝おうか」と顔を見せることがあったが、大抵は光さん自身がが追い返していた。「ここで働いてもバイト代はでないよ」、と。
 それでも、店があまりに忙しい日はこの少女がホールに立った。かわいらしい顔立ちと持ち前の愛嬌で、出勤は少ないながらも彼女はちょっとした店のアイドルだった。
 聞けばこの春、高校を卒業して光さんが切り盛りする店の副店長になったそうだ。『くずの家』も、4月の間はよく手伝っていたらしい。
 「ほらほらお母さん、早く出て」
 「待ってよ。まだドライヤーを当ててない」
 目の前で繰り広げられる、微笑ましい母子のやりとりを眺めながらはっとした。時計を見ると、カタナと別れてからゆうに1時間は経っている。
 入浴前に、彼とどういう取り決めをしたというわけではないが、きっと温泉にゆったり浸かっているような性分ではないだろう。
 慌てて荷物をまとめ、光さんに挨拶をする。
 「すみません、待たせている人がいるので」
 「ああ、やっぱり連れがいるんだね。ちょっと待って……」
 光さんは自分の荷物棚から一枚の名刺を取り出した。
 「これ、こっちでやってるあたしの店。ランチもやってるからさ、よかったら明日にでも来てよ」
 サービスするよ、という一言を添えて渡された名刺を鞄の内ポケットにしまう。
 「ありがとうございます」
 私が“星子”であることを知っている人の元に訪れることをカタナが許すはずもないが、好意をその場で無碍にするわけにもいかない。
 できる限り深く頭を下げて、脱衣所を後にする。
 女湯の暖簾をくぐると、外はすっかり暗くなっていた。標高が高いせいか、少し肌寒く感じるほど気温が下がっているようだ。
 彼の姿は、探さずともすぐに分かった。温泉の出入り口で、白銀の髪が街灯のあかりを白く照り返していた。
 「ごめんなさい、カタナさん。待ちましたか?」
 「……」
 俯いたまま、カタナは動かない。機嫌を損ねるほど待たせてしまったか、と次の謝罪を考えあぐねる。
 すると不意に、身体が抱き寄せられた。
 「ちょ、ちょっと……!」
 またからかっているのか、と身体を軽く叩いてみたが、彼は何も言わない。
 ただ、どんどん身体を抱き寄せる腕に力が込められてゆく。
 「カタナ、さ、ん……?」
 息が苦しくなるほど、彼の腕に胸も腰も締め抱かれて、そうしてやっと、何か・・が異常であることに気がついた。
 ───「ねえ」
 耳元で、聞いたこともないほど低い声がする。

 「今の、?」

 温泉へ向かう人、温泉から帰る人。その誰もが、出入り口で熱い抱擁を交わす男女に一瞥をくれる。
 そばを通りすがる、ひそひそと声を潜めた会話は、きっと私たちに関するものだろう。時折、大きな声で冷やかすような野次すら飛んでくる。
 私たちを見た皆が思ったにちがいない。「公衆の面前で、仲睦まじさを見せつけるカップルだ」、と。
 ただ、私だけが。
 太い腕に締めつけられた私だけが、背中に冷たい汗を流していた。
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