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Episode〈4〉繭籠 ⑷
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「好きなもの、か……」
腰掛けたソファーは、音もたてずに私の体重を受けとめる。カタナが用意したこの家に暮らしていると、家具も電化製品の類いも、“これが一級品というものか”というちょっとした感動をおぼえる。
───“美空”が好きだったものって、なんだったんだろう。
18歳の女の子が好きな食べ物、と聞いたら、流行のスイーツや写真映えするカフェプレートをどうしても思い浮かべてしまう。
けれど、それは病人に出す食事としてはいかがなものか、という気持ちが拭えない。
「好きなもの、好きなもの……」
そして、“好きなもの”を繰り返し口に出すたび、よぎるものがある。
「……カレー」
私の両親は共働きだった。父の帰りは常に21時を回っていたが、母は大抵夕方に帰宅し、夕食を用意してくれた。しかしときどき、どうしてもその帰りが遅くなることがあった。
そんな日、母は前もってカレーを作ることが多かった。
そして私は、母の作るカレーが大好きだった。
野菜も肉もたくさん、ごろごろ入ったカレーライス。少し甘めの味付けがとても美味しくて、一人で夕食を取る寂しさを紛らわしてくれた。
そして何より、翌朝余ったカレーを使って母が作ってくれるカレーうどん。今思えば、朝には少々重いメニューだったのかもしれないが、家族三人そろってすするカレーうどんはまさに幸せの味だった。
「……よし」
ソファーから立ち上がって、ポケットのスマートフォンに手を伸ばす。
「……あ、もしもし。松元さんですか。その、また買っていただきたいものがあって」
冷蔵庫の中身を確かめながら、買い物リストを告げる私の心はひそかに弾んでいた。
「……これでいいですか」
「ありがとうございます、松元さん」
数時間前と同じ会話をしながら、同じスーパーマーケットの店名が印字されたビニール袋を受け取る。中身を確認してからちらりと彼の顔を見遣ると、やはり今朝と同じく何か言いたげな表情をしていた。
「あの、どうかされましたか?」
思い切って問いかけると、松元さんの太い眉尻が困ったように少し垂れた。厚い唇が内側に噛まれて、それからやっと開かれた。
「……飯、食べたんですか?カタナさん」
「え、ええ。ちゃんと食べました」
「そうですか……」
松元さんはそう言ったきり、口をつぐんでしまった。玄関から立ち去る様子も無い彼を置き去りにするわけにもいかず、私も黙って立ち尽くす。
次はどう切り出すのがいいものか、と考えていると、彼の方から口を開いた。
「それなら、よかったです。カタナさん、他人が作ったものを滅多に口にしないから」
え、と自分の喉から驚き混じりの声が出る。思わず松元さんの顔を見ると、いつもの仏頂面に少しだけ笑みが浮かんでいた。
「また、必要なものがあれば呼んでください」
律儀に頭を下げて扉から出ていった大きな背中を、私はただ呆然と見送った。
「『カレー』、でしょ」
寝室の扉を開けてすぐ、カタナはにんまり笑って私に言った。
「夕方からずっといい匂いがしてた。あんたはカレーが好きなんだ」
「はい。お口に合うといいんですけど」
サイドテーブルに盆を置き、カタナの背後にクッションに詰めている最中、昼間の松元さんの言葉が頭によぎった。
『カタナさん、他人が作ったものを滅多に口にしないから』
食事の支度を終えて、ふとカタナの方を見ると、すでに彼は口を開けて一口目を待っていた。
まるで親鳥の給餌を待つひな鳥のようだ、と少し口元が緩む。
「あ、いま鳥の雛みたいだとか思ったね」
「えっ」
すかさずカタナに考えを見透かされ、驚きがそのまま声に出た。
「言ったでしょう。あんたのことならなんでも分かるって」
ゆるく口角を持ち上げるカタナが指の動きで一口目をせかす。慌ててその口元にスプーンを運ぶと、彼はすぐさまかぷりとかぶりついた。
スプーンからカレーライスを奪い取ってから、それを飲み下すまで。彼は目を閉じて、静かに味わっているようだった。
「……ふうん、カレーは牛肉なんだ」
「え、ええ。母が関西の出身で。こちらでは、豚肉が主流なんでしたっけ」
はた、と目が合った。寝室にともされた間接照明の、柔らかな橙色にカタナの髪が染まっている。
「あんたと暮らしてみて、初めて分かることもいっぱいあるみたいだ」
ぽつりと口を開いた彼の、その眼差しがいやに真剣で。どくり、と心臓が跳ねた瞬間、そっと唇は重なった。
貪るように唇を食まれて、呼吸を奪われる。いつの間にか入って来た舌に口内を弄られて、体の芯が甘い期待に痺れ始めたときだった。
───「これ以上は、止めらんなくなる」
つ、と糸を引いて離れた唇は赤く濡れそぼっている。カタナは眉尻を下げて私の唇を指でなぞりながら、おどけたように笑った。
「ご飯もあんたも、食べたいものがいっぱいあって困るよ」
腰掛けたソファーは、音もたてずに私の体重を受けとめる。カタナが用意したこの家に暮らしていると、家具も電化製品の類いも、“これが一級品というものか”というちょっとした感動をおぼえる。
───“美空”が好きだったものって、なんだったんだろう。
18歳の女の子が好きな食べ物、と聞いたら、流行のスイーツや写真映えするカフェプレートをどうしても思い浮かべてしまう。
けれど、それは病人に出す食事としてはいかがなものか、という気持ちが拭えない。
「好きなもの、好きなもの……」
そして、“好きなもの”を繰り返し口に出すたび、よぎるものがある。
「……カレー」
私の両親は共働きだった。父の帰りは常に21時を回っていたが、母は大抵夕方に帰宅し、夕食を用意してくれた。しかしときどき、どうしてもその帰りが遅くなることがあった。
そんな日、母は前もってカレーを作ることが多かった。
そして私は、母の作るカレーが大好きだった。
野菜も肉もたくさん、ごろごろ入ったカレーライス。少し甘めの味付けがとても美味しくて、一人で夕食を取る寂しさを紛らわしてくれた。
そして何より、翌朝余ったカレーを使って母が作ってくれるカレーうどん。今思えば、朝には少々重いメニューだったのかもしれないが、家族三人そろってすするカレーうどんはまさに幸せの味だった。
「……よし」
ソファーから立ち上がって、ポケットのスマートフォンに手を伸ばす。
「……あ、もしもし。松元さんですか。その、また買っていただきたいものがあって」
冷蔵庫の中身を確かめながら、買い物リストを告げる私の心はひそかに弾んでいた。
「……これでいいですか」
「ありがとうございます、松元さん」
数時間前と同じ会話をしながら、同じスーパーマーケットの店名が印字されたビニール袋を受け取る。中身を確認してからちらりと彼の顔を見遣ると、やはり今朝と同じく何か言いたげな表情をしていた。
「あの、どうかされましたか?」
思い切って問いかけると、松元さんの太い眉尻が困ったように少し垂れた。厚い唇が内側に噛まれて、それからやっと開かれた。
「……飯、食べたんですか?カタナさん」
「え、ええ。ちゃんと食べました」
「そうですか……」
松元さんはそう言ったきり、口をつぐんでしまった。玄関から立ち去る様子も無い彼を置き去りにするわけにもいかず、私も黙って立ち尽くす。
次はどう切り出すのがいいものか、と考えていると、彼の方から口を開いた。
「それなら、よかったです。カタナさん、他人が作ったものを滅多に口にしないから」
え、と自分の喉から驚き混じりの声が出る。思わず松元さんの顔を見ると、いつもの仏頂面に少しだけ笑みが浮かんでいた。
「また、必要なものがあれば呼んでください」
律儀に頭を下げて扉から出ていった大きな背中を、私はただ呆然と見送った。
「『カレー』、でしょ」
寝室の扉を開けてすぐ、カタナはにんまり笑って私に言った。
「夕方からずっといい匂いがしてた。あんたはカレーが好きなんだ」
「はい。お口に合うといいんですけど」
サイドテーブルに盆を置き、カタナの背後にクッションに詰めている最中、昼間の松元さんの言葉が頭によぎった。
『カタナさん、他人が作ったものを滅多に口にしないから』
食事の支度を終えて、ふとカタナの方を見ると、すでに彼は口を開けて一口目を待っていた。
まるで親鳥の給餌を待つひな鳥のようだ、と少し口元が緩む。
「あ、いま鳥の雛みたいだとか思ったね」
「えっ」
すかさずカタナに考えを見透かされ、驚きがそのまま声に出た。
「言ったでしょう。あんたのことならなんでも分かるって」
ゆるく口角を持ち上げるカタナが指の動きで一口目をせかす。慌ててその口元にスプーンを運ぶと、彼はすぐさまかぷりとかぶりついた。
スプーンからカレーライスを奪い取ってから、それを飲み下すまで。彼は目を閉じて、静かに味わっているようだった。
「……ふうん、カレーは牛肉なんだ」
「え、ええ。母が関西の出身で。こちらでは、豚肉が主流なんでしたっけ」
はた、と目が合った。寝室にともされた間接照明の、柔らかな橙色にカタナの髪が染まっている。
「あんたと暮らしてみて、初めて分かることもいっぱいあるみたいだ」
ぽつりと口を開いた彼の、その眼差しがいやに真剣で。どくり、と心臓が跳ねた瞬間、そっと唇は重なった。
貪るように唇を食まれて、呼吸を奪われる。いつの間にか入って来た舌に口内を弄られて、体の芯が甘い期待に痺れ始めたときだった。
───「これ以上は、止めらんなくなる」
つ、と糸を引いて離れた唇は赤く濡れそぼっている。カタナは眉尻を下げて私の唇を指でなぞりながら、おどけたように笑った。
「ご飯もあんたも、食べたいものがいっぱいあって困るよ」
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