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3 あらあやし どこを向いても化けもの屋敷

3-3 八咫と九重

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 忠告に百合は素直にうなずいていた。
「そうですね、はい」
 ほかのところに入るつもりはなかった。
 いまいるデータ室でさえ、頻繁に場所が変わっているのだから、うかつにべつの部屋に入る気はない。迷ったら大変なことになる気がした。昼食に一度おもてに出るが、それ以外は退社までずっとオフィスにこもっている。
「でもここは……会社以外は、いったいなにがあるんですか?」
 外観からして大きな屋敷だ。
 瓦葺きの日本家屋の建つ敷地は広く、庭木はよく手入れされている。しかし玄関から続く廊下の距離は尋常でないし、家の大きさにそぐわないものだ。
 ここはこれまで百合が暮らした世界とは、常識が違うのだろう。
 それがここでのことなのか、九泉香料に勤めはじめたときからそうだったのか――こたえは出ないだろう。
「ここは」
 八咫は床を指さした。
 この屋敷は、とそういうことだろう。
「あちらとつながっている」
「あちら、ですか」
 それはなにか、と尋ねなくても察することができそうだ。
 ここには延々と続く廊下がある。データ室より奥に足を踏み入れたことはないが、行き着くところまで歩いたなら、そこにはなにがあるのだろう。
 待ち受けるものは、おそらく現世のものなどではない。
 八咫はひとが悪そうにも見える笑みを浮かべ、百合が尋ねていないことを口にする。
「生きた人間のいけない場所だ。あちらは死んだ人間と、人間じゃないものが暮らす」
 そうでしょうね、とこたえる代わりに、百合は肩で息を吐く。
「冥府、と呼び習わす」
「死んだひとと、人間じゃないひとがいる……」
「あちらに暮らすものを、こちらではあやかしと呼び習わす」
 それを教えてくれる八咫もまた、あちらのもの――あやかしなのだろう。
「人間を嫌うもののほうが安全だぞ。あやかしでも人間に興味があったり……人間だったことに執着があるものは、厄介なことが多い」
 百合は屋敷のなかを動く気配のことを思う。さわさわとなにか囁き、火急の用件などないようにゆったり移動しているものの気配。
「姿は見えないんですが、声となにかいる感じだけすることがあるんです。あのひとたちは私に興味がないから――安全?」
「興味があったとしても、敬畏のほうが強いんだろうな」
「敬畏?」
「九重に対する敬畏、だ。この部屋に百合がいるとみな知っている。それでもやたらと出入りしようとしないのは、九重が敬畏を持たれているからだ」
 九重――九泉香料の経営者一族だと思っていたが、ただの経営者たち、というわけではないのかもしれない。
 そこを知りたいとは思えず、百合は質問の向きを変えることにした。
「あの声の子は? 時々聞こえる」
「あれは九重になつき、だが敬畏には遠そうだな。そして百合、おまえに興味があるからちょっかいを出してきている」
 はあ、と気のない返事が出た。
 問いかけにこたえないように、と気をつけているが、ついうっかりこたえてしまうこともありそうだ。
 あの声に対して、ここに住むと応じたらどうなるのか。
「なによりも、子供の声に聞こえるからといって……子供とは限らないぞ」
 にやりと笑った八咫の目に、百合は鳥肌を立てていた。
 おそらく百合は、もっとはやくそう反応するべきだったのだろう。
 起きていることをもっと恐れ、鳥肌を立て、逃げ惑って九重に背を向けるべきだった。
 しかし百合はそうなっていない。
 状況を受け入れ、九泉香料を辞める発想はないのだ。
「そういう説明って、功巳さんからあるんだと思ってました」
「仕事のことでなにか困ってるのか?」
「いいえ、とくには」
「なら、功巳は役目をまっとうしてる。説明不足だと百合が思うなら、功巳に尋ねたらいい」
「八咫さんじゃなくて、ですか?」
 また八咫は笑った。今度は穏やかなもので、それは了解なのだろう。
 百合にはなによりも尋ねたいことがあった。
 ――どうして百合がこの屋敷に異動になったのか。
 起こることに対し、自分の反応があまりにも鈍い自覚はある。本来ならもっと恐怖したりするものだろう。
 ――それがないのはどうしてなのか。
 八咫に訊けば、彼は教えてくれる気がした。
 みずから告げないが、尋ねればこたえる。
 百合が尋ねずにいるのは、こたえを聞くのがなんだか怖かったからだ。
 起こる事象は慣れていくのに、そればかりはどうしても距離を置きたくなる末恐ろしさがあった。知ってしまったら、足を取られてその沼から立ち去ることが難しくなるような。
「ではそろそろ、仕事の邪魔は止めることにする。俺は散歩に出たあのちいさいのを、迎えにいってこよう。迷っていたら大変だ」
 立ち上がった八咫が歩くと音が立ち、彼の足下には影がある。自分の足下にも目を落とす。黒々とした影があり、百合はとても安心した。
 襖を開けた八咫の姿は、廊下に出るとすうっと消えていく。そして襖が自動ドアのようにしまった。
 それを見ても百合は驚かない。
 百合は席を立ち、仕事に戻ることにした。
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