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本編
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――それは混濁した意識下に居た。
光映が目を開けると、そこは、もと居た夕闇に包まれた公園の中だった。
(僕は、どうしてここに……?)
(逃げてきたんだ……)
(そうだ、写真を撮りに……)
(殺される……!)
様々な思惟が、頭の中で交錯する。
自身の思考。――なのにそれは、自分だけの思考ではなかった。
自身の思考の内側に“誰か”が居る。それも何人も。
(誰……?)
(僕は僕……“僕”と云う一つのモノ……)
(僕は一人だけ……他には誰も居ないのに……)
様々な方向から聞こえてくる声。
全て自分の声。
(なんだ……僕が何人も居るだけだ……なら、いいや……)
(そう、何も考えない方がいい……)
(そうか……それもいいかもしれないな……)
―――リン……!
その時、ふいに鈴の音が響いた。
(何……?)
(知っている音……?)
(聞いたことも無い……)
(確か僕は、この音を……!)
(聞いてはいけない……!)
―――リン……!
二度目の音は、何よりも強く、心に澄み切った波紋を投げた。
同時に、えもいわれぬ懐かしさを覚える。
その音に誘われたのか、途端、まさに閃いたかのようにして顕われてくる満開の桜の映像。
(ダメ……!)
(聞いてはダメ……!)
(考えてはダメだ……!)
うるさいくらいに響く警鐘。
しかし、心がざわめく。
その音に、何故か抗えないほどの魅力を感じている。
きっと、自分はどこかで、この鈴の音を耳にしたことがあったんだ。――それくらい、まるで耳馴染んだ音のようにさえ思える。
(ダメ…!)
(ダメ……!!)
感情と思考がバラバラな自分。
――何故なんだろう?
“僕”という存在は、一人しか居ないのに……!
ふいに景色が開かれた。
夕闇の公園。
自身の目の前に立つ、少年と少女、二人の姿。
――そう、これは“現実”の光景。
「――今よ!!」
そんな彼女の声が聞こえたと同時。
何かの力で自身が縛られたのを、光映は感じた。
まるで鎖…全身に重い枷を付けられたようだ。身体にきつく喰い込んでくる、重く硬い“力”。
そして、そんな自分を取り巻くように漂ってくる、甘く蕩けるような香。
初めて味わう香だと云うのに、以前どこかで嗅いだことがあっただろうか、と……そんな気にさえさせるような、甘い甘い、まさの頭のシンまでドロドロに蕩けさせてしまいそうな香。
それに中てられたか、ボーッとしてくる意識。心地好い倦怠感。
(――気持ちいい……)
しかし身体は、突然胸をかきむしりながら、その場に崩れ落ちたのだ。
「グッ…グガアアアアアアッッ……!!」
奥歯をぎりぎりと噛み締め、苦痛の呻き声を上げ、滝のような脂汗を滴らせている。
そんな自分の姿を光映は、香の所為でボーと揺らぐ意識の中、まるで他人事のように傍観していた。
(何が…起こっているんだろうか……)
「――今、とってあげるわね」
(え……?)
その彼女の言葉は、紛れも無い、この自分に対し向けられた言葉だった。――それが光映には理解できた。
彼女は少しだけ微笑んでみせると、やおら真顔に戻り。
ひとことだけ、無造作に呟いた。
「――やって」
ふいに全身から、縛されていた感覚が消え失せた。
ハッとして我に返ると、その瞬間、光映は自分が地面に倒れ伏していることを認識した。
ゆっくりと身体を起き上がらせ……そして気が付いた。
この身体は、もう自身の自由だということ。
自分の思った通りに動かせる身体。頭の中にも、もう他の声など聞こえない。自分の内のどこにも、何かの居る気配が無い。
――そこでフと、気配を感じた。
何気なく視線を上に向けてみる。
「なっ……!?」
そこに在ったのは、何だかよくわからない不透明な、そして人の形にも似た――そう、まさに“等身大”とでも呼べるべき大きさの、黒い影。
まさに“影”としか言いようが無いそれは、光映の目には如何とも形容しがたいものとして映った。まるで立ち籠める靄の如く、確固とした存在感すら有しておらず、模糊として漂うようにユラユラと揺らいでいる。
「何だ、これは……!?」
呟くなり他の言葉も出せず、ただ呆然とその場に固まるしか出来ない。
その“影”としか呼べないそれは、彼の視線の先に屹立する少年――続の手から伸びた鎖のようなもので捕縛されている。
それも“鎖”としか、光映には例えようがなかった。不可思議なまでに白く淡い光を放っているそれは、触れればシャラリと硬質な金属音を立てそうに見えながら、しかしまた上等な絹糸を縒り集めた柔らかい紐のようにも見え……そして、明らかに何らかの“力”に満ち溢れていた。
人知を超えた“力”の集合体。――それが強制的な拘束力として発現され、紐のように細長く連なったものの形状をとっているのならば……まさしく“鎖”、それ以外に例えられる何をも、光映は知らない。
その拘束から逃れようとしているのか“それ”は、苦しげに…だが激しく、全身をうねらせてもがいていた。
しかし、その“鎖”は少しの緩みさえ見せる気配もなく、無慈悲なまでに“それ”を捕らえ続けては放さない。のみならず、少しずつ徐々に、ではあるが、更に締め付ける力を増しているようにさえも見える。
「――見えてるの?」
いつの間にか彼女が光映の傍らに来ていて、身を起こすのに手を貸してくれていた。
ボンヤリと振り返り己を見上げた彼に手を差し伸べながら、そして語る。
「“あれ”に“同化”されていた後遺症でしょうね。一時的にとはいえ、身体を共有してしまっていたんですもの。その余韻が、まだ残っているんだわ」
「同化……?」
「そうよ。あの黒い影が、あなたの内に巣食っていたモノ。あなたから身体を奪おうとしたモノ。――ダメじゃない、自分から“あれ”の手を取ったりしては……」
「『手を取って』、って…、―――!!?」
――言われるやハッと思い出す。
自分が自分でなくなった…恐怖にも似た感触を覚えた、その、瞬間。
まるでフラッシュバックのように甦る記憶。
ハッキリとした意識が徐々に徐々に失われつつあったその時に。
確かに“彼女”の手を取ったことを憶えている。
差し伸べられた手に、自分から、その手を重ね合わせた―――。
「じゃあ、雛子は!? 彼女は一体っっ……!!」
咄嗟に勢い込んで尋ねた光映だったが、対する彼女は驚いた様子のカケラさえ見せず。
噛み付かんばかりの彼の表情を、ただ静かに穏やかに、見つめ返した。
「あなたの恋人、ね?」
一つ、こっくりと深く、光映は頷く。
彼女は、そこでふわりと軽く微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、あれは幻だから。身体を奪うため、あなたの心に入り込もうとした“あれ”が仕掛けた罠。あなたと共に在る彼女の思念を利用されたの。平たく言うなれば、彼女をエサにされたのよ」
「エサ……なんで、そんな……」
「だって、大切な恋人の姿をエサにされれば、言葉は悪いけど、食い付かない人は居ないでしょう? ――そうやって人の心を罠に陥れるのが、彼等の…妖の術なの」
言って、スッと彼女は立ち上がる。
「――あれは“妖魔”よ」
彼女の簡潔な、その言葉。
それだけで光映には、何故だか全てが理解できたように思えた。
――それも“同化”とやらの後遺症、なのだろうか……?
「“妖魔”。――それは人の心の闇を棲処とする、実態を持たない“影”……だからこそ、人間の肉体を“器”として纏うの」
彼女は続ける。
「妖力のある妖魔ほど、その傾向が強いわ。徒人以上の能力を有してはいても、鎧となる肉体が無ければ、――ほら、こんなにも外部からの刺激に弱いもの」
その言葉と共に、捕らわれた“それ”が悶えたような素振りを見せた。
――今、彼女が何かしたのだろうか?
光映には、そこまでは見ることが出来ないようだった。
彼は尋ねる。彼女の横顔へと向かって。
「君は、一体……?」
何者なのだ、と―――。
「私は、“妖魔を狩る者”よ」
前を見据えたまま答えた彼女は、そこで一旦言葉を切り、ふと光映を振り返った。
「…それが宿命なのよ、私の」
軽く笑みを浮かべたその表情は、しかしどことなく哀しげにさえも見えた。
だが、それに対する返答を待つでもなく、言った次にはもう、彼女は再び前を向いていた。
光映の目に映る、凛とした迷いの無い横顔。
前だけをただ見据え、彼女はきっぱりと言い放つ。
「決着くらい、ちゃんと着けるわ」
そして彼女は歩み出した。
眼前の“影”――捕らえられている“妖魔”へと向かって。
「――訊きたいことがあるの」
その言葉は、有無を言わせぬ迫力に満ち満ちていた。
瞬間、光映の背筋を冷たいものが走る抜ける。
「あなたと共に居た“もう一匹”が、『我が姫』と言ってたわね? ――その“姫”の名を……あなたの主人の名を、教えて頂戴」
彼女がそう問うたと同時。
“それ”を捕らえている続の手から、そよそよと風が流れ出したのを、光映は感じた。
その風が香を運ぶ。――ゆらゆらと…まるで煙のように立ち籠める甘い香。
周囲一帯にまで立ち籠めてきたその香は、光映の感覚を鋭敏にした。徐々にハッキリと、捕らわれた影の呻き声が聞き取れるようになってきたのだ。――これも、例の“後遺症”とやらの所為なのだろう。
香が強くなっていくにつれ、影の苦悶の声も増していくようだった。
呻く声が、徐々に唸りへと変わってゆく。
そんな荒い息遣いの中。――彼女が“姫”という語を出したからだろうか。
《ヒ、メ……ワレラガヒメ……ドコニ、オイデニナルノカ……ヒメ、ヒメサマ……!》
吐き出す言葉の内に、姫と名を呼ぶ、姫を乞う言葉が、聞き取れた。
“それ”は叫ぶ。まさに悲鳴にも等しき絶叫を。
《ワガ、ヒメ……!! ――サイカ、サマッ……!!》
「―――違う……」
今、確かに『さいか様』と……光映には、そう聞こえたように思ったが。
だが、それを耳にした彼女の、『違う』という呟き。
(どういうことだ……?)
ふと彼女の表情を盗み見た。
彼女は軽く眉をひそめ、苦しそうな辛そうな…でも一方では安心したような、そんな色を表情に浮かべていた。
強いて挙げるなら、“ガッカリ”という感情が、より多く表れ出ていたかもしれない。
(誰かを、捜しているのだろうか……?)
しかし彼女は、やおらその表情を笑みの中に隠した。
そして言う。
「そうなの……あなたは冴霞の部下だったのね……冴霞のことを、捜していたのね……だから幼い子供ばかり、手当たり次第に、必死に……!」
それは、まるで『さいか』という“姫”を知っているかのような口振りだった。
《サイカサマ……ヒメ…ヒメサマ……!!》
だが捕らわれの影は、彼女のその口振りにさえ気付かない。
苦しげな息遣いの合間に、姫のその名を、ただただ呼び、乞うていた。
――その終焉は、もう明白だった。
「冴霞は、もう居ないのよ……」
今度は悲嘆を浮かべた表情で、彼女は言った。
光映には、それが何を意味する言葉なのかは分からなかった。
けれど彼女の表情から、会いたい人に会わせてあげられない、同情にも似た悲しみと辛さを感じて……その言葉は真実なのだなと、それを悟った。
「私は、あなたたちを狩る者。そして、あなたたちと共に生きる者―――」
告げる彼女の右の掌から小さく光が現れたのを、光映は見た。
それは紡がれる彼女の言葉と共に、徐々に膨らみ、大きさを、そして輝きをも増してゆく。
「闇に生きる者よ。闇に還り、眠りなさい。私はその寝床となり、また新たなる目覚めを導く者」
彼女の掌上の光は、圧倒的な存在感をもって、確かに確実に、そこに在った。
やおら一条の光筋が天へ向けて伸び、そのまま次第に何かの形へと変じてゆく。
(――刀だ……!)
光映は思わず息を飲んだ。
確かにそれは“刀”だった。それ以外の何物でもなかった。
先に目にした、続の放った“鎖”と同質の……だが、それとは比べ物にならぬほどにさえ感じられる溢れんばかりの“力”の存在が、そこにありありと見てとれた。
宵闇の中、宝石の如きその白刃を眩いばかりに煌めかせる。
その煌めきに我知らず圧倒されている己自身を、まるで他人事のように光映は感じていた。
見る者すべてを自ずと平伏させずにはいられない、それほどの存在感。
それが、まさしく“刀”である形状をとって、一人の少女の手の中に握られている。
人知を超えた“何か”を支配する者。――それが、今の彼女だった。
「――おいでなさい、私のもとに」
その言葉で、不思議なことに“それ”の苦悶がピタリと止まった。
「あなたの名を教えて頂戴」
そして、あんなにも頑なであった“それ”は、彼女にいとも簡単に服従した。
「さあ、あなたの名は……?」
《カ…架氷……》
「そう、架氷……いい子ね、お眠りなさい」
――そして閃く白き刃。
その舞うような白刃の煌めきは、『架氷』と名乗った“それ”を、捕らえていた続の“鎖”もろとも一刀のもとに消し去った。
「架氷……あなたは、ただ会いたかったのよね……それだけだったのよね……」
暗い虚空へと向かい、どことなく呆然とした風で、彼女は呟く。
「だからといって、何も知らない人間を殺していい理由になんてならないわ。あなたが冴霞を捜して盲目になるあまり、何の罪も無い大勢の子供の命を奪ってしまったこと。それは決して赦されることじゃない。――でも……」
彼女の表情は、深い哀しみに彩られていた。
そう…光映がかつて、桜の下で目にした表情と同じ。
全てを捨て去ってしまったかのような、諦めにも似た深い深い哀しみの色―――。
彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
「――わかる、よ……」
後にはもう、何も遺されてはいなかった―――。
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