リョウタの話

安倍川きなこ

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リョウタの話前編

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 なんの変哲もない男子高校の放課後、に思われた。
 だがそれは一般生徒が何も知らないだけで、放課後のそこかしこで行われているのは女子のいない学校で持て余した男子たちの性欲処理である。
 そしてその一端がここでも繰り広げられていた。
 啼く男と、そして啼かせる男。リョウタにとっては日常であり、なんの痛痒も感じなかった。
 というのは大嘘で、リョウタは絶賛啼かされている最中である。
 それもそのはず、リョウタはこの狭い学校という籠の中で、『受け専』と呼ばれる立場であり、日々他の知らない男子から組み敷かれる役割だからだ。
 相手の男は満足したのか、リョウタからモノを引き抜くと、端金を乱雑に置いて去っていく。
(そんなに男とやるのがいいのかね?外で女でも見つけろっての…。)
 リョウタは置かれた金を見遣りながらそう思った。だが客がいなくなってはリョウタもおまんまの食い上げだ。本音は隠すに限る。
 まァ、客は生徒だけじゃないから、いいんだけど。
 そう、驚くことに、リョウタのような『受け専』を利用するのは生徒だけではない。
 腐った世の中だ。だがリョウタもそう言いながら、受け専をやめるつもりはなかった。
 なぜなら、受け専をしている間だけは、居場所が与えられる気がしていたから。
 リョウタは家庭にどうも馴染めなかった。それは幼い頃からの話で、三つ上の兄だけが唯一の理解者だったと言ってもいい。だがその兄も、大学に進学して家を出てしまい、リョウタはますます孤立した。そしてその孤独感がリョウタを受け専へとのめり込ませた。
 リョウタを抱く男どもは性欲を満たし、リョウタはその行為によって自らを傷つけることで満足感を得るようになっていた。一種の自傷行為だった。
 だが、リョウタを愛していない両親は、そんなリョウタの行為に気がつくわけがなかった。
 そんな生活が半年ほど続いただろうか。すべてがどうでも良くなっていたリョウタに転機が訪れる。それはあまりにも突然の出来事で、リョウタ自身でさえ咄嗟に理解できなかった程だ。
 いつものように、見知らぬ生徒ーいや、こいつは何度か見た覚えがあるがどうでもいいーに買われていると、突如密事が行われている教室のドアが開け放たれた。
(なんだ、まじめぶった先公にでもバレたのかな…。)
 リョウタははぁ、とため息をつき、乱入者をうろんげな瞳で見遣る。だがそこにいたのは、同じく制服を纏ったこの学校の生徒だった。逆光で顔は良く見えない。
(え、何何何?)
 事態を飲み込めないでいると、乱入した生徒はずかずかとこちらへ向かってきた。
(まさか三角関係で刺されたりしないよな…。)
 リョウタは命が惜しくなったわけではないが、そんなことを考える程には混乱していた。
 向かってきた乱入者は、リョウタの上に乗っかっている輩をいとも簡単に引っぺがすと、リョウタを起こし、その腕を引いて歩き始めた。リョウタは更に混乱の度合いを深めていた。
 なんとか死守したズボンだが、穿く暇も与えず腕を引く人物は廊下を歩き続ける。
(いや、流石に恥ずかしいんだけど…。)
 いくら人気の少ない放課後遅くとはいえ、下半身丸出しで廊下を歩くのは恥ずかしすぎる。リョウタにだって羞恥心くらいある。
 リョウタは腕を引く人物が誰なのか確かめようと顔を窺った。だが、脳内にヒットする人物はいない。つまり、この学校の生徒だけど、知らない人なのだ。
 ほどなくして、奇跡的に誰ともすれ違わず屋上へ続く階段の踊り場に着いた。
 ずっと断固として離さないという強い意志すら感じられるほど力強く腕を引いていた生徒がようやく腕を解放してくれる。
 振り向いた生徒の顔をやっと正面から見て、リョウタはハッとした。
(この人ー。)
 知っている訳ではないが、この学校ではあまりにも有名な存在。校内屈指のイケメンと名高い三年生の先輩だ。その上ものすごく頭がいいとか、裏の世界では難攻不落だとかで、ある意味どこへ行っても有名な人物だ。周囲の高校でも女子が放っておくはずもなく、モデルのスカウトなんかも来るらしい。だが、難攻不落なのだ。誰も彼の弛んだ姿を見たことがないと言われている。
(そんな完璧超人センパイがなんで…?)
 なんで自分の所へ来るのか。
 なんで自分の事を引っ張り出したのか。
 なんであの場所が正確に分かったのか。
 はてなだらけのリョウタに、ようやく先輩は口を開いた。
「なぁ。余計なお節介だったら悪いんだけど。」
 先輩はゆっくりとリョウタに語りかける。
「お前、なんか事情があるだろ。」
「え?」
 リョウタは驚きを隠せなかった。今までどれだけ痴態を晒そうとも、それに気づかれたことは一度たりともないからだ。
「なん…別に……。」
 なんで悟られた?リョウタが返答に詰まっていると、先輩はふぅ、と一息ついて、またリョウタに語り始める。
「なんで、とか思ってる?」
 リョウタはぎくりとした。何この人。人の心が読める機能とかついてるんじゃ…。そう思いつつ観念したようにリョウタは頷いた。
「お前ら、いつも実習棟の方でやってるだろ。その渡り廊下が見える位置にある階段、俺の昼寝の場所なんだよな。」
 こんな完璧に見える人が昼寝とかするんだ…という驚きはさておき、本当になんでもお見通しな事に恐れ入る。
「お前結構有名なんだぞ。断らない受け専、とかでさ。大抵のやつは選り好みするって話らしいぞ。」
 有名な受け専とか言われても恥ずかしいだけなのだが。確かに誰だろうと断った試しはない。
(だって、メチャクチャにしてくれるなら誰でもいい訳で…。)
 リョウタは、階段に座って俯きつつ、先輩の話をそんな事をぼんやり考えながら聞いていた。
「そんなお前だけなんだよな。いつも思いつめたカオしてさ。渡り廊下通っていくの。」
「え…。」
 そんな顔してたっけかな。リョウタは今まで自覚したことはなかった。そして誰からもそんなことを指摘されたこともなかったのだ。
「お昼寝してるんじゃないんですか…。」
 さっきそう言ったはず。なのに、なんで人間観察してるんだよ。という謎の反抗心から、少しだけむくれてリョウタは突っ込む。
「最初はただそれだけだったさ。でも、お前の様子が明らかにおかしかったから。そこから気になって、お前が通る時は、気にするようにしてた。」
 先輩は何事もないようにそう言ってのける。
(そんなにおかしかったのかな、俺。)
 リョウタは誰かに気にかけられたことなんて、ほとんどなくて、唯一兄だけが、少し心配してくれていたけど。両親ともうまくやれなくて、学校でも友達なんていなくて。自分の言動なんて、誰も気にしていないと思っていた。
「お前さ、受け専やめたら?」
 先輩はそう優しく諭してくれる。でもー
「俺は俺なりに受け専っていう立ち位置に満足してますし。あとお前じゃないです。リョウタです。」
(さっきからお前お前って。なんか失礼だろ。)
 そうすると、意外な答えが返ってきた。
「ごめん。そうだよな。でも、あったことほぼないやつからいきなり名前呼ばれるのもキモくね?って思っちゃってさ。ちゃんと知ってる、ごめんなリョウタ。」
 お名前調査済みだったー…。そりゃそっか。有名な受け専って把握してる時点で名前とかクラス学年くらいバレるよな…。少し引いたリョウタだったが、回り回ってみれば自分のせいである。そして先輩は更に続ける。
「でも受け専で満足、はどう考えても嘘だろ。じゃなきゃあんな顔しないと思うんだけど。」
 痛いところを突かれた。でもリョウタは受け専でいる以外に自分を保つ術を知らなかった。
「どうせ俺みたいなモブ男誰も気にしてないし、どこで何してようがいいじゃないですか。」
 リョウタは吐き捨てるように言った。本音だったし、本当にどうでもよかった。
 だが、先輩の答えはリョウタに衝撃を与えた。
「気にしてるだろ‼︎俺が‼︎」
 それまでとは打って変わって強い口調の先輩に、リョウタはかなりびっくりさせられた。
 そして、顔を上げてみると、真剣な眼差しでこちらを見ている先輩の姿があった。
 あとさりげなく階段の壁で壁ドンされている。
 流石校内屈指のイケメンの目力は半端なかった。見つめられていると、だんだんこっちが気恥ずかしくなってくる。そんなことはお構いなしに、先輩は更に続ける。
「なんか悩みがあるなら誰かに相談するとかあるだろ。ほら、今なら俺が聞くし。あんな思い詰めた顔して、いつかどっかいなくなるんじゃないかって不安にさせんなよ…。」
 先輩は本当に心配そうにしていた。
(いや、いつか本当に消えるつもりではあったけど…。)
 それは高校卒業の時。大学に行ったところで将来の夢があるでなし、大学なんて行こうものなら高校時代のこの副業のことを持ち出されて、強請られたりするかもしれない。
 何しろリョウタにとっては何もかもが悪い方向へとしか考えられない状態にあった。
 でもー
 リョウタは一旦先輩に全てを打ち明けてみようと思った。今までこんなに真剣に、薄い関わりしかない人が一生懸命に、リョウタを心配したり、諭してくれることは経験になかったから。
 
 
 リョウタの話を聞き終わった先輩は、静かに頭を撫でてくれた。そしてこう言った。
「辛かったな、リョウタ。でも、その話を聞いて確信したことが二つある。」
「確信したこと…?」
 先輩は元の優しく静かな口調に戻っていた。
「まず。受け専はやめろ。リョウタの為にだ。もう少し自分を大事にしろ。」
(自分を大事に…か。考えたこともなかったな……。)
 リョウタは自分を傷つけることでしか、自分を認識できなかった。それを止めるべきと言っているのだ。一朝一夕にやめられるのだろうか。もちろんそれはリョウタの意志の強さにもよるが、今まで断らなかったせいで、一定数客がついてしまっているということもある。突然やめますと言って、やめられる話ではなかった。
(納得してくれなさそうな面倒な客、いそうだな…。)
 リョウタは決して腕に自信のある方ではない。暴力に訴えられたら、勝てる見込みは低い。
 そして一旦暴力でねじ伏せられると思われたら、一巻の終わりなのではないか。今までは抵抗したことがないから、そんなことはなかったが、もしそうやって強制的に続けさせられたらどうしろというのか。
 そんな不安を胸に、もう一度先輩の方を見る。
 先輩はそんなリョウタを知ってか知らずか、でも一切の迷いのない目をしていた。
「もし。もしやめたいって言ったら…。」
 リョウタは先輩の反応を窺う。
「俺はやめるべきだと思う。そしてリョウタがもしそう決めたなら、やめられるよう一緒に努力していくつもりだ。もちろん、後片付けの件も含めて、な。」
 先輩はやっぱりなんでもお見通しなんだなあ。リョウタはもう驚かなくなってしまっていた。
 頭のいい人っていうのは、何か違う生き物なのかしら。そう思った程だった。
 でもそこで一つだけ疑問が残った。
 先輩は頭のいい人で、背もそこそこ高いけれど、どう見ても喧嘩とかに強そうな、いわゆるガタイのいい人、ではなかった。
(イケメンパワーでなんとかするのだろうか…。)
 リョウタがとても頭の悪いことを考えていると、先輩は安心しろ、と言ってくれた。
「俺も暴力は苦手な方だ。だが、ものは使いようという事だ。」
 またリョウタの頭の上をはてなが飛んだが、スーパーイケメンには何か策があるということだろうと無理矢理納得した。
「あ~~、てかさ。」
 突然先輩の口調が変わる。
「対外的な物言いにも疲れたわ。リョウタの前では俺、素でもいいかな。」
 もちろんです、と返事をしたところで、先輩からツッコミが返ってきた。
「リョウタも。素でいいよ、先輩後輩とか抜き。な?」
 そう言われたリョウタは、自分でも訳がわからないうちに泣いていた。意識していないのに、涙がなぜだか溢れて止まらないのだ。優しさが身に染みた、というやつだろうか。そんなリョウタを先輩は抱き寄せ、涙が止まるまで付き合ってくれた。
(なんで俺にこんなによくしてくれるんだろ…。)
 見ず知らずのリョウタを気にかけ、自分のためでなく、リョウタの為にと諭してくれる。
 こんな良い人間を、リョウタは知らない。兄でさえ、仕方ないとはいえ、自分の都合のために家を後にしたのだから。決して兄がリョウタを愛していなかったと言っているのではない。
 ただ、兄から受けるよりももっと手厚い愛を受けている気がした。勘違いだったら恥ずかしい。でも、先輩の言葉は真摯なものだった。
 そうこうしているうちに、日も暮れかかり、リョウタは先輩と別れて家路につく。とても名残惜しかったが、先輩にだって先輩の生活がある。それくらいリョウタは理解していた。
 家に帰ると、すっかりリョウタには興味を失った両親の冷たい目を無視し、一人自室で今日あった出来事を反芻していた。
(怒涛の一日だったなー…。)
 リョウタは先輩の優しさを一人噛み締めながら、眠りについた。
 
 
    ー翌日ー
「おはよ、リョウタ。」
 登校していると、早速先輩が声をかけてくれた。おはよ、と挨拶を返し、学校への道すがら雑談しながら歩いていく。すると、校門のところに昨日リョウタと楽しむはずだったのを邪魔され、引っぺがされて地面に打ち捨てられたあいつが立っていた。
(あれ、絶対待ち構えてるよな…どうしよ……。)
 できれば回れ右してどこかの公園でも行ってしまいたかった。家には帰りたくなかったし。
「いくぞ、リョウタ!」
 気がつくと先輩とあいつの目がガッチリ合っている。向こうも痩身痩躯で、ガタイのいい人ではないが、朝っぱらから校門で喧嘩はまずい。どうするんだろう、先輩は。リョウタは不安と緊張で吐きそうだった。でも、先輩の先の一言で、前に踏み出そうと決心できた。
(そうだ、俺はもう一人じゃない。)
 リョウタは校門へ向かって一歩一歩先輩と一緒に歩く。そして件のあいつの前に立った。
「やぁ、リョウタ。昨日はひどいじゃないか。僕のこと捨ててそこの有名人くんといなくなるなんてさ。」
 相手は嫌味たっぷりにリョウタと、そして先輩目がけて言葉を放つ。リョウタはどう言っていいかわからず、思わず黙ってしまう。
 そんな様子を見てとった先輩が、今度はお返しとばかりにこう言い放った。
「当然だろ。俺の方が、お前よりリョウタのイイトコ知ってんだよ。」
(なんか意味深な発言だな~…。)
 もはやリョウタが入る隙もなく、先輩と昨日の輩はバチバチ火花を散らしているようだ。
 輩は、睨み合っても先輩には勝てないと思ったのか、フン、と鼻を鳴らして去って行く。
 去り際の輩に、先輩はあることを耳打ちした。
「リョウタは俺がもらった。今までリョウタに世話になってた奴らに顔がきくなら皆にそう伝えろ」
 と。
 その噂は、学校の裏側では風が吹くより早く瞬く間に広まった。
 
 ーえ、リョウタが?
 ー嘘、しかもあの難攻不落とかよ⁉︎
 ーリョウタのやつ、どうやってあいつを!
 ーうらやましい、あの難攻不落に振り向いてもらえるなんて。
 
 ・校内屈指の受け専が卒業か?
 ・難攻不落、ついに落ちるー
 
 二大スキャンダルが校内を吹き荒れた。
 
「さぁて、忙しくなりそうだな、なっ、リョウタ。」
 先輩は放課後の屋上へ続く階段の踊り場で、楽しそうにそう言った。
「なんでそんなに楽しそうなの…。奴ら馬鹿だから、束になってかかってきそうで嫌なんですけど…。」
 リョウタの予想は的中した。
「いたぞ、あそこだー‼︎」
「難攻不落をとっちめろ!リョウタは俺たちのもんだ!」
「リョウタ、イイ子だからこっちへ帰っておいで~~」
「うるさい!リョウタとやら、難攻不落を汚した罪は重いぞ!覚悟しろ‼︎」
 もはやまとまりすらない、馬鹿の集団にリョウタは辟易した。
「リョウタ、こっちだ!」
 なぜか楽しげな先輩はリョウタの腕を引いて屋上方向へ上がっていく。
「追え!屋上なら逃げ場はねぇ!きっちり落とし前つけてもらうぜ!」
(こっちだ。隠れろ、リョウタ!)
 二人は、屋上の扉の裏に隠れて、集団が屋上に入っていくのを見届けてから、静かにドアを閉め、鍵をかけた。
 ぱたん、ガチャ。
「ああ~~~~~~~~ッ‼︎」
 卑怯だのなんだのと喚いているが、自業自得である。
 そこに先輩が静かに語りかける。
「代表者を出せ。」
 すごすごと何人かが扉付近に歩み出た気配を感じ取り、先輩は話を始めた。
「これからもしリョウタに手を出すようなことがあってみろ。すぐに風紀委員会に通告してやるぞ。」
 風紀委員と聞いた代表者たちが震え上がるのを感じた。
 ー風紀委員会。この学校、もとい実習棟でやり取りしている連中にはもっとも恐るべき存在。
 彼らは教師ですら取り締まり、風紀を乱すものを絶対に許さないことを信条としている集団だ。リョウタは未だ遭遇したことはないのだが、どこからか情報を掴んできては、お楽しみの連中を取り締まり対象として裁き、停学、もっと悪ければ退学に追い込むと聞いている。
「忠告はしたからな。」
 先輩はそれだけを言うと、鍵を開けて彼らを解放した。
 帰っていく輩たちは横目で先輩を見遣り、打つ手がないことを痛感して舌打ちしながら去っていった。
 なぜなら、『難攻不落』の出来の良さは誰もが知るところであり、彼らにとっては風紀委員の次に敵に回したくない相手だからだ。
 これ以上リョウタに関わるということは、難攻不落と風紀委員会の両方を敵に回すことを意味する。
 そこまでしてリョウタにこだわる輩はいるにはいるだろうが、結局勝敗は見えている。
 あまりにも分の悪い戦いになるとその場にいた全員が理解したことだろう。
 最後に、リョウタではなく、難攻不落《・・・・》お目当てだった輩が、リョウタを恨めしそうに見遣り、なんでお前なんかが、という憎々しげな顔をしてから去っていった。
 
 
 それからはリョウタに平和が訪れた。
 放課後は自傷の時間でなく、先輩と共に勉学に励むようになった。
 とはいえ、リョウタには少し不安な事があった。
 それは、先輩が卒業した後の二年間。
 リョウタは自分だけで自分の身を守れるか不安に感じていた。
 しかし、その不安さえも先輩は溶かしてくれた。
「心配するな、毎日迎えに来るよ。」と。
 リョウタにとってその言葉がどれほど嬉しかったかは、きっとリョウタにしかわからない感情だった。
 そして、リョウタは決意を新たにした。
 ー先輩と同じ大学に入る、と。
 そこからリョウタはこれまでにないくらい、勉学にのめり込むようになった。
 何せ、先輩が進学しようとしている大学は、最難関と言われる、東《あずま》大学なのだ。今のリョウタではまだ力不足だった。
 だが、力は芽吹きつつあった。元々数ある教科のなかでは、割と数学が得意だったリョウタは、すぐに理数系の才能を開花させた。
 問題が難しければ難しいほど解き甲斐があると楽しめるようになったのだ。
 特に難しい数式に興味を持つようになっていった。
 
 先輩は何の危なげもなく東大学に合格し、そして約束通り毎日放課後には迎えにきてくれるようになった。
 そしてカフェに入って二人で勉強し、別れを惜しみつつ夜家に帰る、という生活が二年間続いた。
 
 
 ー二年後
 リョウタも晴れて東大学の生徒となった。
 高校二年の最初の時期は危うかったものの、先輩と研鑽を積んだことにより、いつしかリョウタ自身が『難攻不落』となったため、学校内でも一目置かれ、手を出そうなどという不届き者もごっそり減った。
 リョウタを利用していた上級生たちも次々卒業していき、いつしかリョウタのかつての姿を知るのは同級生のみとなり、リョウタが再び『受け専』などになることはなかった。
 
「合格おめでとう、リョウタ。」
 真っ先に祝福してくれたのはやはり先輩だった。
 両親にも一応報告したが、怪訝な顔をされて終わった。
 どうやら、自慢の息子である兄よりも良い大学に進学したことが気に入らなかったようだ。
 これからもきっと、家にいる時間は苦痛にしかならないんだろうな、とリョウタはぼんやり考えていた。
 でも問題なかった。先輩が大学にいる間は側にいてくれるはずだから。
「はず」というのは、リョウタがまだ誰かを信じることが怖くて、確信が持てなかったからだ。
 でも先輩は違った。その上を行く発言をサラリとできてしまうのだ。
「リョウタ、大学に入ったら、家を出て俺の部屋に来ないか?」
 リョウタは目を見張った。
 先輩から受ける大きすぎる愛情の嬉しさに、リョウタは涙した。
「泣かなくて良いんだ、今まで頑張ったな、リョウタ。」
 先輩はリョウタの頭を優しく撫でながら、嗚咽の止まらないリョウタを優しく抱きとめた。
 それからの四年間はあっという間だった。
 四六時中二人は一緒にいて、お互いが愛情を以て接し、仲を深め合っていった。
 先輩は大学院に進学し、リョウタといる時間を守ることを選んだ。
 
 しかし、程なくして二人に最大の難題が訪れた。
 
 『流石に同じ会社に就職するわけにはいかない』というものだった。
 なぜなら、同じ会社に就職してしまえば二人の交際が明るみになるのは時間の問題だからだ。
 そうなれば、要らぬ噂の的になり、居づらくなってどちらか、もしくは両者が退職、という道筋は簡単に見えた。
 二人は聡いからこそ、別々の企業に就職することを選択した。
 それもこれも、これからも一緒に歩み続けるための苦渋の決断だった。
 学歴は関係なくなりつつある昨今でも、流石の東大学出身ともなれば引く手数多だった。
 二人は別々の大手商社の面接を受け、無事に内定をもらった。
 ただ、リョウタに関しては少し気になることがあった。
 それは最終面接でのことだった。ハキハキと受け答えをし、これは手応えアリだと感じた面接だったが、終わって椅子から立ち上がり、振り返るとそこには風格のあるスーツ姿の男性が壁を背にして立っていたのだ。
 男性は眉目秀麗としか言いようのない端正な顔立ちで、言い知れぬオーラを放っていた。
(あれ、確かこの人…?)
 いつからいたのだろうか、と疑問に思いつつも、この人物には心当たりがあった。
 会社のホームページに載っていたためである。
(社長さん、だよな…流石に何もなしはまずいだろ)
 リョウタは失礼にあたらないよう社長に向かって一礼をする。
 社長はにこりと微笑み、リョウタを見送った。
(後ろから見られてたなんて思ってもみなかった、あぶね、なんか変なことしてないよね?)
 リョウタは帰り際、そんなことを考えていた。
 
 
「え?」
 リョウタは素っ頓狂な声をあげてしまった。
 今日はリョウタの初出勤である。
 内定をもらって、いよいよ自分の頭脳を生かした仕事をしようと意気揚々と出社した。
 ところが、指示された部署に向かうと、上司からの第一声はこうだった。
「今すぐ社長室に行って。」
 入社早々何かしただろうか。身だしなみも整えてきたし、不備はないはずだ。
 仕方なく指示通りに社長室へ向かう。
「…失礼します。」
 ノックをして入室を許されたリョウタは恐る恐る社長室へと足を踏み入れた。
「やあ。久しぶり、かな?」
 そこには紛れもなくあの時面接会場にいた人物が立っていた。
(面接で何か失礼があったのか?)
 リョウタは何もしてないはず、と思いつつ怒られるのではないかという猜疑心を拭いきれずにいた。しかし社長の口から出たのはとんでもない発言だった。
「君を私の秘書に任命したい。受けてくれるかな?」
(は?)
 リョウタは思わず素でそう聞き返しそうになった。が、堪えた。
「いやいやいやあの、自分は秘書検とか持ってないですし、誰かとお間違えでは?」
 精一杯今ある現状を伝えて誰かと勘違いしてる旨を伝えたつもりだった。だが社長も流石は大企業を一代でここまで築き上げた身。わざとらしく首を横に振ると続けた。
「おや?君は面接でスケジュール管理には自信があるとアピールしていなかったかな?それとも私の聞き間違いだったかな?」
「え…」
 リョウタは驚いた。確かに言った。だが一新卒の、最終面接とはいえそこまで一言一句覚えられているとは。
 リョウタが唖然としていると、社長は更に追い込みをかける。
「で、どうなのかな?私は秘書検云々の資格よりも、君のスケジュール管理能力を買いたいと思っているのだが?受けてもらえないのかな?」
 リョウタに拒否権はもはやなかった。社長は厳しいことで有名だが、一方で能力を買って年齢を問わず抜擢されて成果をあげている者も多いと聞く。
 その能力を買ってもらえるという噂を聞いてこの会社を選んだというのはあったが、それは培ってきた数式などの知識を活かせる職で力を発揮したいと思ってのことだった。それがまさか社長秘書にと乞われるとは夢にも思っていなかった。
 だが、やるしかないのだ。ここで失敗すれば窓際決定、そのうち机も無くなって辞表を書くだけの未来が待っている。
「お受けします。秘書の仕事については至らぬところがあるかとは存じますが…。」
 そう続けようとしているリョウタを遮って社長は不敵に笑って見せた。
「心配しないでいい。君に最初からそんな負担をかけるようなことはしない。ただ私はスケジュール管理というものがどうもダメでね。今まで秘書に任せたが、どうもうまく調整してくれる存在と出会えなかったんだ。その分君には期待しているよ。」
 とりあえず、最初はスケジュール管理さえなんとかしてくれれば後はフォローする、という話でまとまり、リョウタは荷物を取りに社長室を出た。
(社長秘書?俺が???)
 リョウタは混乱していた。ペーペーの新卒がいきなり社長の目に留まり、秘書になるなんてどこかの物語の中にいるようだった。
「あ~、これ絶対知らない人から嫌がらせとか受けるやつじゃん…。」
 そう、あの優秀な社長の目に留まるなんて大ラッキーであるとともに、最高の不運でもある。なぜなら要らぬ僻みやっかみを受けることになるに違いないからだ。
 リョウタは廊下で頭を抱えた。
 荷物を取りに帰ったら、まず上司に報告しなければいけないし、そこから瞬く間に噂は広がるだろう。そう思うと、荷物を取りに帰るのすら億劫だ。
(あ、でもスマホ…。)
 大事な個人情報から何からが入ったスマホを置いて帰るわけにもいかない。先輩との思い出の写真が詰まったスマホを。
 そう思うとまだ昼前なのにもう家が恋しくなってきた。早く先輩に会いたい。会って話を聞いてもらうだけでも今のこの憂鬱からは抜け出せるのに。でも先輩も今日から仕事だ。
 リョウタは一息つくと、決心して荷物を取りに戻った。全ては夜に先輩と美味しいご飯を食べるため。会社では我慢しなければいけないことの一つや二つ、当然あると分かりきっていたことだ。今考えても仕方のない事は考えないことにした。
 戻ってみると、なぜか社長が上司と話し込んでいる。どうやって先回りしたのだろうか。
 いや、先回りされているということはリョウタの仕事が遅いと怒られるのではないか。また色々な不安に駆られながらリョウタは恐る恐る二人に近づいていく。
「あの~…」
 先に気づいた上司がリョウタに手招きをする。
(いやな予感がする…。)
 リョウタは胃が痛くなってきた気がして、回れ右をして帰りたくなった。
 しかしながら、上司からは特に嫌味を言われるでもなく、一言おめでとう、と言われた。
 社長が部署にいることで、主に女子たちが色めき立っているが、社長はそんな様子には目もくれず、上司に伝えることだけを簡潔に伝え、リョウタに荷物を取って来るよう指示した。
 社長からも仕事が遅いなどといったお咎めは特になく、少しだけ安心した。
 ガチガチに緊張しているリョウタを見て、社長は声をかける。
「初日からそんな様子ではもたないぞ?もう少し肩の力を抜いていい。しばらくは私の行き先などを覚えてもらうためについてきてもらう。車は平気か?」
 社長は的確に指示出しをしてくれる。最初なんだから考えても仕方ないとリョウタは様子を見ながらついていくことにする。
「車は特に問題ありません。よろしくお願いします。」
 とだけ答えておいた。社長はそれに満足げに頷き、リョウタを社長専用車両へと誘導する。
 それからリョウタは社長のいく先々について回り、何軒か社長に紹介され、挨拶を済ませたりした。
 ーその日の定時後
「疲れただろう。今日は早めに帰って休むといい。」
 社長からそう声をかけられたリョウタは、ではお言葉に甘えて、と社長より早く家路についた。いくらスケジュール管理ができる人材が欲しかったからとはいえ、新卒にここまで気を遣ってくれるとは。鬼社長、なんて罵る人もいるけれど、本当は優しい人なのかもしれない。
(とりあえず今日は色々ありすぎて色んな意味で疲れた…。早く帰ってご飯の支度して、先輩に話を聞いてもらおっと。)
 リョウタは最寄りのスーパーで今日の夕飯の材料を買い込むと、真っ直ぐ家へと急ぐ。リョウタは電車通勤で、スーパーへと少し回り道をしたけれど、幸い駅から家は近い。すぐに住み慣れたセキュリティ付きマンションへとたどり着いた。
(今日は糸こんにゃくの煮物作ろ…。先輩これ好きだし、初出勤のお祝いとしちゃ弱いけど、喜んでくれるかな?)
 リョウタはすっかり今日の出来事は過去のものにして、先輩へ想いを馳せる。
 一人浮かれていたリョウタは気がつくことができなかった。
 リョウタがマンションへ入っていくのを見計らったように通りすがった一台の黒い車の存在にー。
 リョウタが夕飯の支度を終える頃、先輩も帰宅した。
「お帰りなさい、今日は初出勤お疲れ様。」
 リョウタは少し遅めの帰宅を果たした先輩に労いの言葉をかける。
 先輩は少し呆れたように、リョウタに返した。
「ただいま。でもそれはリョウタもだろ。飯も作ってくれて、ありがとな。」
 先輩はリョウタの頭を優しく撫でた。撫でられるリョウタもまんざらでもない様子だ。
「お。この匂いは俺の好きな煮物だな?」
 早速の反応にリョウタも嬉しくなる。
 そんなこんなで談笑しながら夕飯を囲み、いつもの幸せな時間が流れる。
 しかし、リョウタの仕事の話を聞いた先輩は、少し訝しげな顔を見せた。
「社長秘書?大丈夫なのかその仕事…。キツかったりしたらすぐに言えよ?せっかく知識を活かした仕事をするって言うから俺も賛成したけど。ブラックだったらすぐ他探せるようにしといた方がいいぞ。」
 先輩はいきなり社長秘書なんてものになってしまったと言ったリョウタの事を親身に心配してくれた。いつだってそう。味方は先輩だけ。兄の存在を忘れた訳ではないけれど、リョウタの人生の中で一番リョウタに寄り添ってくれたのはいつだって先輩だった。
「だーいじょうぶ。向こうも今の所ただ単にスケジュール管理の人材が欲しいだけみたいだし。いずれ秘書検とか取れって言われたらその時考えればいいかなって。」
 リョウタは今日あった様々な出来事を反芻するように先輩に話した。社長のこと。出先でのこと。初めての名刺交換などなど…。
 先輩も最初のうちだから慣れないこともあったのだろうと静かにリョウタの話に耳を傾けた。確かにリョウタのスケジュール管理技術は見事なもので、旅行やちょっとしたお出かけのプランを立てるのもリョウタはいつも上手い。技術的な心配は全くないのだが、どうも話がうますぎる。リョウタは今日はいっぱいいっぱいでテンパっていたようだから、仕方がないのかもしれないが、冷静に考えれば少し何かがおかしい。
(大丈夫なのか…?社長とやら、少し調べてみるか。)
 先輩は心の中にそっと留め置いた。
 
 それからしばらくはそんな日々が続いた。
 リョウタは徐々に社長のスケジュール管理を確立させつつあり、先輩は己の仕事を全うしていた。先輩はたまに残業、でも帰れば二人の時間が流れ、以前と変わらぬ幸せな日々を過ごした。
 こんな日々がこれからは続くのだー
 二人ともそう思っていた。
 そう思っていない人物が一人だけいたことに、まだ二人は気がついていなかった。
 
 
 それはある日のこと。
 リョウタはいつも通り電車を降り、家を目指していた。
 駅前の踏切が開くのを待っていた時、不意に後ろから聞き慣れた声がした。
「リョウタ。」
 その名を呼ぶのはもちろん先輩だ。先輩は自転車通勤のため、リョウタと帰りが一緒になることはかなり珍しいことではあったのだが、こんな日もあるだろうと二人は何事もなく一緒に家路についた。
 先輩は自転車を降り、リョウタとマンションまで一緒に歩く。二人並んで歩いてマンションに着き、一緒に入って行く。別段変わった風景ではないが、見ていた人物がまずかった。
「あの隣の男について早急に調べろ。」
 そう言うと社長は車を出させ、狙いのリョウタには既に悪い虫がついている事を知ってしまった。
 この日から歯車は狂い始める。
 社長があの日面接会場にいたのはただの偶然ではなかった。
 最終面接ということもあり、社長自ら履歴書に目を通し、見つけてしまったのだ。
 己の欲望を満たしてくれそうな相手をー
 社長には対外的には言えない秘密があった。それは女性に興味を持てないと言うこと。
 稀代のイケメン社長として知られ、数々の経済雑誌に特集を組まれるほどの容姿に恵まれながら、未だ結婚どころか浮いた噂ひとつないのはそのせいとも言えた。
 まあ、ある意味クリーンなイメージを打ち出すことに成功していたので、社長は自らカミングアウトすることもなく、仕事一筋という言い訳をしてのらりくらりと躱していたのが本当のところだ。
 正直、リョウタに関しては最初は学歴を見て、優秀そうなら使ってみるか、程度の興味で最終面接を見に行ったに過ぎなかった。
 だが、実物を見て、(真正面から見たのは最後だけだがー)抑えが効かなくなってしまったのだ。いわゆる一目惚れというものだった。
 この感情には社長自身も戸惑った。四十になろうかという自分が、あんな若造に対してこんな感情を抱くとは。
 しかし、履歴書に貼られた写真を見るなり触れてみたいという欲望が溢れて止まらなかった。
 今までも何人か付き合ったことはあった。でもここまでの激しい感情に駆られた試しは一度もなかった。
「何を差し置いても絶対に手に入れてみせるー。」
 そこから社長の行動はエスカレートしていった。
 リョウタの住むマンションを突き止め、暇さえあれば様子を観察していた。
 リョウタが他の男と一緒に入って行った時は気が狂いそうに嫉妬した。何だあの男は。何者なんだ。リョウタの一体何なんだ。なぜリョウタはあんな表情をしている?私には見せたことのない笑顔のリョウタが愛おしく、憎らしく、狂おしかった。
 あの笑顔が私に向けられたならー
 とりあえず、あの男を引き摺り下ろさねば。
 社長は完全に理性を失っていた。
 
 
 社長はそれから日々、リョウタをあの悪い虫から引き剥がすにはどうすればいいかを思案していた。かといって仕事を疎かにする性分ではなかったので、周りにはいつも通りに映っていた。もちろんリョウタにも気づかれていない。
 社長は何とか自分の所有するマンションにリョウタを移り住ませたいと思っていた。
 いつでも自分の手の届くところに置いておきたかった。それが例えつまらない独占欲だと笑われても今の社長にはどうでもいいことだった。
 だが肝心のリョウタにいきなりそんなことを言っても首を縦に振るとは思えなかった。自分に何が足りないのだろうか。あのへちゃむくれに私が劣るとでもいうのだろうか。
 兄弟説ももちろん考えた。だが上がってきた報告書はそれを全否定した。
 報告書によると、リョウタは高校、大学時代の先輩にあたる人物と同居しているとのことだった。
 だが、今それをリョウタに問い詰めるわけにはいかない。
 なぜ私がそんな事を、という事になるのは火を見るより明らかだ。なるべく穏便に事を運ぶに越したことはない。
(どうしたらあんな男よりも私を認めてくれるようになるー?)
 それは、リョウタにとって先輩よりも魅力的な存在になるということだ。
 先輩とやらはもちろんリョウタと同じく最難関の大学出身。そこいくと私は帝央大止まり。
 学歴では歯が立たない。悔しいが。だが体力やスタイル、顔立ちの良さなら幾分か自信はある。リョウタを満足させてやれるものだってー
「…長。社長?」
 声に引き戻されてみると、リョウタがこちらを心配そうに見つめながら私を呼んでいた。
 あまりに考え込みすぎていたようだ。このままでは仕事に支障をきたす日も遠くない。
(気を引き締めなければ。)
 リョウタに没頭するあまり、会社が傾いたのではただの間抜けだ。
「大丈夫ですか?普段あまりぼーっとされない社長が…。熱はありませんよね?」
 そう声をかけるリョウタの手が額に触れようとする。
 社長室で二人きりの状態でそんなことをされたら歯止めが効かなくなりそうだ。
「心配ない。体調は良好だ。ただ私も人だから、ぼーっとする瞬間くらいあるというだけの話だ。すまないな。用事は何だった?」
 リョウタの手が触れるより早く、そう遮って私は自制する。下から覗き込まれて上目遣いのリョウタはやっぱりこのまま襲ってしまおうかという程可愛らしいが、それはバッドエンド確定だ。
「あ、はい。来週のスケジュールができたのでご確認頂こうかと。」
 そう言ってリョウタは社長にスケジュールを提出する。相変わらず朝から夜まで予定がびっしりな事に、リョウタはよく身体もつなこの人…という感想しかなかった。
「わかった。特に問題はないな。いつも助かるよ。」
 社長は割と素直に礼を言う人で、この辺りが流石と周りからも一目置かれる理由かもしれない。大企業といえど、若い企業なのも社長をそうさせるのかもしれない。
「ご確認ありがとうございます。問題ないようでしたらこのまま進めます。」
 リョウタは入社してから社長のスケジュール管理をそつなくこなしたが、今回はちょっとだけ引っかかる点があった。
(この水曜日の訪問先、先輩の会社なんだよな…。)
 もちろん社長が訪問するのは先方の社長であって、先輩ではないし、先輩は新入社員で今年入ったわけだから、出会う事もないと思うのだが、リョウタは妙にそわそわしてしまう。
(先輩の働いてるとこ、ちょっと見てみたい気もするよな…。)
 完全に私情であるとはわかっていながら、リョウタは先輩の活躍する姿を少し見てみたくなってしまう。それは想い合う二人にとって仕方のない事かもしれない。
 この日もリョウタは何事もなく仕事を終え、帰宅した。
 
 ー水曜日
「では、その件はそのようによろしくお願いいたします。続いてですが…。」
 社長はいつものにこやかな態度で先方と話を進めていく。
 少し長丁場になったので、休憩を挟もうということになり、社長とリョウタは応接室で静かに休憩を取る。
 先方から、窮屈でしょうから外に出ていただいても、という話ももらっていたため、社長は外で少し風に当たってくると席を外した。その際リョウタにも自由にしていいと指示をして、お互いの休憩を満喫する。
 社長はロビーから外に出て、外の空気に当たるとやはり広いとはいえビルの中では感じられない空気に触れて一息ついていた。タバコは吸わないので、ただ風に吹かれているだけだが、社長の鈍った思考回路を復活させるには十分だったようだ。
(そういえば、彼はどうしたかな…。)
 自由にしていいと言っただけで、特に指示をしなかった。今頃やっぱり応接室から出られず窮屈な思いをしているかもしれない。
 そう思い返し、社長は再びロビーから応接室へ戻る道を辿る。その道すがら、休憩室という文言が目に留まり、もしかしたらと社長は足を向けてしまったのだ。
 そう、いつぞや嫉妬に狂った先輩とやらと楽しそうに談笑するリョウタがいる場所へ。
 社長は通りかかり、二人の姿が目に入った時点で近づくのをやめた。
 未だリョウタから見せられたことのない笑顔が目に入ってしまったから。
 社長はこの後の商談がなんだったかさえどうでもよくなる程の怒りと嫉妬に駆られた。
 なぜだなぜだなぜだ。どうすればいい?どうすれば手に入るのだあの笑顔は?
 社長は全てを壊してでも手に入れたいという衝動を抑えられなくなっていた。
 
 
 商談はつつがなく終わり、リョウタは社長と共に取引先である先輩が務める会社を後にする。
(働いてる先輩もちょっと見れたし今日は良い日だったな。)
 リョウタはそんな思いを抱きつつ会社までの帰路を過ごした。社長も終始にこやかで、特に商談に問題もなさそうだったし、また働いている先輩を見れる日はそう遠くないかもしれない。
 会社に着くと、リョウタは早速名刺の整理などを始める。そんなことをしているうちに今日も一日があっという間に過ぎ、定時になった。
 いつも通り社長からあがっていいと指示があり、リョウタは帰宅の途についた。不思議なことに、社長はリョウタより先に帰るということがない。社長がいつ帰宅して、いつ出社しているのか、かなり謎だ。とりあえず朝出勤すると、社長は既にそこにいて、自分が帰宅する姿も決して見せない。
(実は寝てないんじゃ…。)
 少し心配になるが、社長は健康そのものらしい。ジムにも通っているとかいないとか。どこにそんな時間があるのかとリョウタは首を捻っていた。
 とそんな事を考えている間にもマンションのエレベーターはいつも通りの階に止まり、鍵を開けて玄関をくぐる。
「おかえり、リョウタ。」
 今日は珍しく先輩が先に帰宅しており、リョウタも少し驚く。
「社長さん、いらっしゃってるぞ。」
 その一言にリョウタは目を見張る。
(え、社長?さっきまで会社に…。)
 リビングへ向かうと本当に社長がそこに座っていた。電車通勤の自分より早いとかどういう事なのだろうか。リョウタは理解が追いつかない。
「ほら、会社のスマホ忘れて帰ってたからって、わざわざ届けて下さったんだぞ。ご挨拶しないと。」
 先輩に促されるままリビングで寛ぐ社長の元へとやってきた。
「あ、お疲れ様です。すみません。大事なスマホを忘れて帰るなんて…。」
 リョウタはおずおずと社長に声をかける。
「そうだな、そのスマホがなかったらどうやって明日の予定を確認するつもりだったんだ?」
 痛いところを突かれてリョウタは反省する。それだけではない。気のせいだろうか、社長の様子がいつもと違う気がする。もしかしてかなり怒っているのだろうか。
「今日も昼休憩に君が戻ってくるのが遅れて予定が五分押した。昨今少し気が緩んでいるのではないか?」
 え、とリョウタは思わず声を上げた。昼休憩の件は初耳である。確かに戻ってみると社長は既に席についていたが、与えられた昼休憩の時間は守って戻ったはずだからだ。
 反論する隙も与えず、社長は続ける。
「こんな調子では困るな。昼休憩の時、そこの君と喋っていたようだが、社の機密に関わるとは考えなかったのか?」
 これには傍で聞いていた先輩も驚いた様子だった。
「そんな、他愛もない話をしていただけで…。」
 とんでもない、という様子の先輩だったが、社長はすぐさま反撃を開始する。
「話の内容が問題なんじゃない、社長秘書という立場の者が他社を訪れて、気安くその社の者と談笑しているということが問題なんだ。わからないというのなら、君には失望する。」
 リョウタも先輩も当然そんなつもりではなかった。だが、今社長から提起されている問題がわからない程の愚か者でもなかった。二人は青ざめた。
「これからリョウタは私が管理する。ここを引き上げて、私の所有するマンションで生活してもらおう。」
 社長は冷徹な表情で淡々と告げる。
 リョウタにとって先輩と離れることは死を意味した。
 家族なんかよりよっぽど大事な先輩と引き離されるなんて考えられない。しかしそれは先輩も思うところがあったようだった。
「ちょっと、そこまでするのは流石にパワハラなんじゃ…。」
 先輩は思わず口を挟む。
 しかし社長の口から出た言葉はパワハラでは済まなかった。
「君はあの社の者のようだが、あちらの社長とは懇意にさせて頂いていてね。」
 先輩は驚きを隠せなかった。
(この男、俺くらいクビにできるとわかって…!)
 先輩は目の前にいる社長の狙いを悟ってしまった。
 こいつ、リョウタを初めからこうするつもりでー。今まで機会を狙っていたのか。くそっ、最初にリョウタが社長秘書になったと言った時もっと警戒すべきだったのか。今更遅すぎる…どうする?考えろ!
 先輩もリョウタもお互い想い合って一緒にいるのだ。リョウタだけが辛いわけないのだ。
「俺はっ…!」
 クビくらい怖くない。そう言おうと先輩が社長に喰ってかかった時だった。
「先輩っ!」
 それを止めたのはリョウタだった。
「先輩、俺は大丈夫だから。だから、無茶しないで…。」
 リョウタの手は震えているように見えた。
「社長、申し訳ありませんでした。今回の事はひとえに僕の不得の致すところです。社長に従います。」
 社長はリョウタの一言で、良いだろう、と返事をすると、今すぐ荷物をまとめてくるようにと指示をして、車で待っていると告げると一刻の猶予を与えた。
 
 残された部屋で、リョウタは崩れ落ちた。
 それを抱き止めるしかない先輩は無力感に駆られていた。
(くそ、もっと俺が警戒していれば…。社長の狙いが初めからリョウタそのものだと見抜けていれば……!)
 そっと抱き起こすと、リョウタは泣いていた。
「ごめん、先輩。こんなことになるなんて…。」
 先輩の働いている姿を見られると深く考えもせずに会いに行ったとリョウタは自分を責めていた。
「謝るんじゃない。俺も。俺も気づいてやれなかった。ごめんな、リョウタ…。守れなくて…本当にごめん。」
 二人はしばらく一緒に涙を流した。
 お互いが自分が悪かったのだと責めては、そうじゃないと慰め合った。しかし、リョウタは社長に従うと言ってしまった手前、これ以上ゴネては二人とも危ないと悟った。
「荷物、まとめるね。これだけは、先輩持ってて。」
 そう言うとリョウタは自らが使っていたプライベート用の携帯を先輩に預け、最低限の荷物をまとめて社長に与えられた猶予の十分前にマンションを後にした。
 
 一方社長は、待たせてある車にもたれかかり、昼間したように風に当たりながら考え事をしていた。もちろん、それはリョウタについてだ。
(一瞬『俺』と言わなかったか?まだまだ私の知らない顔があるということか。)
 社長はこれから始まるリョウタとの蜜月に思いを馳せながら、どう楽しませてもらおうかと想像を膨らませていく。
 これからは会社でも一緒。そして私生活も管理できる。リョウタを手に入れたも同然だ。
 何より一番忌々しい先輩とやらの存在が消えたのだ。今は恨まれても構わない。だが、いずれはリョウタも自分の魅力に気づいてくれるだろう。そう考えるだけで鳥肌が立った。社長は完全に勝利を確信した。これでこそ、こっそりリョウタのカバンからリョウタの携帯電話を抜き取っておいた甲斐があるというものだ。そう、リョウタは携帯を会社に忘れたのではない。それもこれも、社長に仕組まれていたのだ。予定が五分押したと言うのも言いがかりである。
 そうこうしているうちにそろそろ十分前、というころリョウタはあっさりと現れた。
「お待たせしました、社長。ご指示の通り、荷物をまとめて時間内に戻りました。」
 リョウタの目は腫れている。でも今は気づかないふりをしよう。だってリョウタは自分の手の内なのだから。
「君のような有能な部下を持てて嬉しいよ。行こうか。」
 社長とリョウタは先輩が一人残されたマンションに別れを告げた。
 ーさて、ここからリョウタをどう調理すれば、あの笑顔が見られるのかな?
 社長は明日からがたまらなく楽しみだった。
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