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第二十六話

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 しかし、やはりそのまま順調にはいかなかった。
 透は伸也の家に引越しして落ち着いた頃、何をするにも億劫になるほどの気だるさにみまわれる。吐き気や発熱もあり、これはもしかしてと受診すると、案の定、B型肝炎ウイルスによる急性肝炎を発症していた。

 成人してからの感染で発症する確率は、二割から三割ほど。発症せずに、ウイルスが体内からなくならないかな、と淡い期待を抱いていた透は、涙目になりながら入院し、治療を余儀なくされた。

「つらいね……」

 伸也は甲斐甲斐しく見舞いにしてくれたが、何せ一人の時間が長いし体調もつらい。気持ち悪くて食べられず、夜も眠れず落ち着かないソワソワした日々が続くと、自己破壊衝動に襲われるのだ。

 落ち着きたい、とにかくこのソワソワを治めたい。

 点滴をしているけど、こんな痛みじゃダメだ。もっと強く、目の覚めるような──。

猪井いのいさん」

 ハッとして透は顔を上げた。そこには困った顔の看護師がいる。

「点滴抜いちゃったの? 血が出てる」
「……あ……」

 腕に付いた赤を見て、透はやっと、自分がしたことを理解した。慌ててごめんなさい、と謝ると「抜いただけだから大丈夫」と看護師は微笑む。透の左腕の傷のことを聞いているのかもしれない、と思うと、責められなかったのはホッとした。

 その後、再び点滴をされた透は、看護師に意外な言葉を掛けられた。

「傷付けるの止めれたね。すごいね」

 透にとっては初めての、伸也以外からの褒め言葉だった。あまりに意外すぎて、しばらくボーッとしてしまった。そして次には身体が熱くなり、胸が温かくなって、それを早く伸也に伝えたいと思い始める。

(オレ、初めてだ……傷付けるの止めれたの)

 嬉しい。今までは記憶が曖昧で、痛みか、赤を見るまで意識が遠くにあったのに。

(そうか。オレにもできるんだ)

 自分にその力があるのだと、立ち直れるんだと思ったら、体調も少し良くなった気分になる。気持ちひとつでこうも変わるなんて、我ながら単純だと思うけれど、伸也がいないのに珍しく機嫌よく過ごせる時間を満喫する。

 しかし。

「透……っ!」

 伸也に呼ばれて透は目を覚ました。視線が合うと彼は、ホッとした表情になる。
 頭が上手く働かない。どうしてこんなことになってるんだ?

「良かった……」
「しんちゃん? いつの間に来てたの?」

 自分の声が掠れていた。どうして? さっきまで気分が良かったのに。

「さっき来たよ。……連絡もらったから」
「……連絡?」
「……」

 伸也はグッと息を詰めた。どうしてそんな表情をするのだろう、と不思議に思って、透は伸也が左手を握っていることに気付く。

「……あ」

 透はある事に気付いて、左腕の袖をめくった。緩い袖は簡単に腕の状態を確認でき、透は目眩がする。
 そこには新たな傷ができていたのだ。

「嘘だ……」
「……透、回復を待ってからにしようかと思ったけど、それじゃダメだと思った。僕も四六時中透に付いている訳にもいかないし、一緒に精神科を受診しよう?」

 お願いだ、と伸也は床に膝をつき、透の手を両手で握って、彼の額に押し付ける。祈るような姿勢の伸也に、透も頷くしかなかった。

「しんちゃん、オレ、看護師さんに傷付けるの止めれてすごいねって、褒められたんだよ?」
「うん……」
「なのになんでこんなことになってんの……?」

 じわりと視界が滲む。自分が情けなくて、怖くて、それがまたあの衝動に繋がるかもしれないと思うと、伸也に抱きつかずにはいられなかった。

「しんちゃん、オレ、自分が怖い……嫌だ……っ」
「大丈夫……僕がついてる……大丈夫……」

 伸也は寝ている透に覆い被さるようにして、頭を抱きしめてくれた。点滴と傷で痛む両腕が、彼に届かなくてもどかしい。

 透はまた、気が済むまで泣いた。


 ◇◇


 それから一ヶ月、透は体調が落ち着いたので退院することになった。けれど、まだ完全にウイルスが体内から無くなった訳ではないので、定期的に検査をする必要がある。

 そして、伸也と共に精神科にも通院し、それから半年後には、通院が週一から月二回になった。それほど伸也のそばにいる安心感は絶大で、精神科医も驚いていた。

 また、その間にウイルスも完全に体内からなくなり、身体的には元通りになった。ただ、伸也との仲を微笑ましく見ていた医師は、伸也の前で「セックスも含め、もう元通りの生活に戻っても大丈夫ですよ」とそんなことを言い、少し気まずくなったけれど。

(しんちゃんは、……オレとそういうこと、したいと思ってるのかな?)

 帰り道の車の中。夕日を眺めながら助手席でふとそんなことを考えて、頬が熱くなった。

 昔から、幼なじみ──いや、同性同士という域を超えてスキンシップが多かったせいか、改めて考えるとなぜか恥ずかしくなる。

 透はどちらかと言うと、セックスは自分を痛めつける為の行為だったので、改めて好きかと聞かれると疑問符が浮かんだ。

(けど、しんちゃんとは……したい、かな)

 抱きついたり、おでこにキスをしたりする行為の延長線上だ。そう考えれば、幼なじみだろうが、同性同士であろうが、なんらおかしいことはない。

 透は運転席の伸也を見つめる。真面目な表情をしていても、優しくて穏やかな雰囲気を醸し出す彼は、それだけで透の心も癒される。

 その横顔が、笑った。

「なぁに? 人の顔じっと見て」
「えっ? あ、いや……」

 もしかして、今は伸也の本音を聞くチャンスなのではないだろうか。そう思って口を開きかけるけれど、照れが勝って言葉を発することができなかった。

 散々伸也の前で男を引っ掛け、身体の関係を匂わせることばかりしていたのに、こんなことで照れるなんてとまた顔が熱くなる。今更純情ぶってと呆れられてしまうかもしれない。

 家に帰ると、しんとした部屋が透たちを出迎えた。何だか寂しく感じて伸也にハグをねだると、片付けて落ち着いてからね、とソファーに座らされる。

 しばらくして、伸也がホットミルクを持ってやってきた。これじゃハグできない、と口を尖らせるとしょうがないなぁ、とマグをテーブルに置いて、両腕を広げる。透は素直にそこに飛び込むと、やっぱり眠ってしまいそうな程安心し、大きく深呼吸をした。

「……しんちゃん、ちゅーして」
「……どうしたの? 透」

 クスクス笑う伸也は、嫌がっている様子はない。透は顔を上げて目を閉じると、そっと唇が押し当てられた──額に。

「しんちゃん……そこじゃない……」

 照れてボソボソと呟くと、じゃあどこ? と問われたので、口、とまた目を閉じると、柔らかい、温かな感触が唇に触れる。触れただけで離れたので、甘えた声でもっと、と囁くと、伸也はもう一度、もう一度とキスをくれる。

 触れるだけのキス。こんな小鳥がついばむようなキスなんて初めてだ、と透は思いながら、伸也の唇を軽く吸った。ちゅっとリップ音が小さく鳴り、それだけで身体の中に火がつくのが分かる。

(しんちゃんの唇、柔らかい……気持ちいい……)

 どれくらいそうしていただろうか、透はとろんとした意識で伸也を見ると、彼は目を細めて頭を撫でてくれた。

「しんちゃん……」

 掠れた声で彼を呼ぶ。伸也はもう一度ちゅっとキスをくれると、微笑んだ。

「さあ、夕飯の支度するから。待っててね」
「……え?」

 そう言って、立ち上がってキッチンへ向かった伸也を、透は唖然と見送る。

(……って、はあああああああ!?)

 この流れはこのままエッチにいく流れだろ!? と透は熱くなった頬を、ぬるくなったミルクで冷ますのだった。
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