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第二十一話

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「誰かと思えば、この間フラれてた奴じゃん」
「その子から退いてください」

 あ? と透の上の男は伸也を睨みつける。しかし伸也は怯むことなく、男を静かに、真っ直ぐに見つめた。

「タダで退くかよ」

 男はニヤリと笑った。そして透の上から降りて立ち上がると、手のひらを差し出す。
 それを見た伸也は、ショルダーバッグから長財布を取り出すと、数枚お札を出し、男に渡した。

「しんちゃん、何やってんだよっ?」

 透は慌てて起き上がり、男の手から万札を取り上げようとした。しかし男はひょい、と腕を上げ、お金を取り上げることができない。
 どうして? 透が知っている伸也は、こんなことをする人ではないはず。けれど、伸也は優しいけれど有無を言わさない声で、「いいから」と言うのだ。

「分かってんじゃん。ここは、金さえあれば許させる場所だからな」

 またなクソビッチ、とお金を握りしめて男はあっさりと去っていく。所詮、お金さえあればどうにでもできる、という考えの男だったようだ。だったら伸也の対応は正解のような気もするけれど、納得いかない。

「しんちゃん何してんの? あんな男に金なんて渡す必要ないでしょ?」
「……透が困ってたから」

 静かに言われ、透は言葉に詰まった。しかしすぐに思い直し、誰も助けてなんて言ってないだろ、とすぐにその場を去ろうとする。

「待って」

 思いのほか、強い力で腕を掴まれた。しかも左腕。透はゾワッと悪寒が走るのを感じ、その手を振りほどく──けれど。

 伸也の手はまだ左腕にあった。どうして振りほどけなかったのだろう? 傷口の上ではないけれど、どうしようもなく落ち着かなくなった。

「何かあった?」
「……っ」

 いつも聞いていた、いつもの声と言葉。いつものように、何でもないとか、何かって何? と誤魔化すことができればよかったのに、できない。

 そんな透から、言葉の代わりに出てきたのは涙だった。

 声もなく、はらはらと涙を落とす透の腕を、伸也は今度は優しく引く。そして彼の腕の中に収まると、凝り固まっていた心が、すうっと溶けていくような感覚がするのだ。

 ああ、やっぱり伸也には敵わない。

 伸也はやっぱり温かくて、いい匂いがして、このまま眠ってしまいそうな程安心する。けれど、汚れてしまった自分が後ろめたくて、自分の腕を彼に回すことはできなかった。

「しんちゃん……っ、どーしよ、オレ……っ」

 泣きながら訴えようとすると、額に温かなものが押し付けられる。

 え? と思って伸也を見ると、やはりいつもの優しい、目を細めた顔があった。

「涙が止まるおまじない。……止まったね」

 落ち着いて話をしよう、と言われ、伸也のおまじないが効いていることに気付く。こんななんの根拠もないおまじないが、これほど効果抜群だとは思いもしなかった。多分それは、相手が伸也だからだろう、と透は思う。

 二人は店を出て、伸也の家に向かった。その間、伸也はずっと透の手を握り、無言でいる。
 透はそんな彼の顔をそっと盗み見た。短めの黒髪に優しげな目。口角は今は上がっていないけれど、ああ、やっぱり伸也の元へ帰って来てしまったな、と彼の顔を見てそう思う。嬉しいような、情けないような、でもやっぱり安心する気持ちを、素直に受け入れるのは躊躇うほどには擦れてしまった。

(オレの人生に、しんちゃんを巻き込みたくない)

 今なら、伸也が自分を突き放した気持ちが分かる。伸也の人生を、自分一色にして欲しくない。
 ましてや伴侶にもなれない男で、性病持ちかもしれない奴なんか、そばにいても迷惑なだけだろう。

 家に着いてリビングに入ると、伸也は再び透を抱きしめた。しかしそれは先程の慰めるようなニュアンスではなく、感情をぶつけるような、力強いものだ。

「おかえり、透……」

 そう言われるけれど、透は何も言い返せない。伸也の言動が、今までと同じようで微妙に違う。その差は何なのだろう、と思うけれど、安心する腕に包まれて透ははあ、と息を吐いた。

「……しんちゃん、痛いよ……」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる伸也に、透はもがくと少しだけ身体を離してくれる。けれど彼の腕の中からは出られず、透はまた「しんちゃん?」と問う。

「透……話、できそう?」
「……」

 透はこくりと無言で頷くと、伸也は微笑んで飲み物を用意してくれた。
 けれど透はソファーに座った伸也に凭れて座り、俯いて伸也から顔を見られないようにする。

 少しの間、黙ってそうしていたけれど、ふわふわとした伸也の体温と匂いに、透は一気に睡魔に襲われた。

(ああ、やっぱりしんちゃんのそばは落ち着くんだ……)

 今まで色んな人と肌を合わせてきたけれど、他の誰にも、これ程安心感を与えてくれる人は見つけられなかった。

(話、しなきゃいけないのに……)

 勝手に微睡まどろみ始める透の身体は、一言も発することなく意識を手放してしまった。
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