上 下
13 / 63

12

しおりを挟む
 それから黒兎は、いずみが営業に来る度話しかけられ、世間話をするという仲になった。

「毎回油売ってて良いんですか?」

 余計なお世話だと思いつつも、そんな軽口も言える仲になった。何故かいずみは、黒兎には保険の話を一切せず、楽しい話題を提供してくれる。

「良いんですよ。今日おたくの社長さんと、これからアポなんで」

 一体いつの間にそこまで話を進めたのだろうか、いずみはしれっと言う。遊んでいるように見えて、実はやり手なのかもしれない、と黒兎は思った。

「あ、やば……そろそろ行かないと。では」

 いずみは立ち上がって食堂を出ていった。黒兎は何となくその行方を眺めていると、横から視線が注がれていることに気付く。見ると、内田がこちらを睨んでいた。

「……っ」

 黒兎の緩みかけていた顔が引き締まる。睨まれる筋合いはないのに、と思っていると、つかつかと内田がやってきた。

「……ずいぶん仲良さそうに話してたな」

「……普通に世間話してただけです」

 咎めるような口調の内田に、いい加減絡むのは止めてくれと黒兎は思いながら、素っ気なく言うと、彼は突然、大きな声でこう言ったのだ。

「あれー? お前女もイケたんだな? ホモだって言ってたのに」

 黒兎はカッと全身が熱くなるのと同時に、周りの視線が自分に集まるのを感じた。それでも、内田は言葉を吐き続ける。

「俺、言い寄られてて困ってたんだよね。でも、お前がそんなにビッチだとは知らなかったわー」

 黒兎は慌てて立ち上がって食堂を出た。周りの視線が刺さって、肌がゾワゾワして気持ち悪い。額から汗が吹き出ているのに、歯がガチガチと鳴って、今すぐ座ってうずくまりたいほどだった。

 何とか人通りのない階段の踊り場まで逃げると、両腕を抱えて座る。

 どうしてだ、なんのつもりだ? と黒兎は震えながら息を吐き出す。告白を断った腹いせか、と目眩がして目をつむる。

 すると、昼休み終了のチャイムが鳴った。行かなければ、と立ち上がりフラフラと事務所へ戻る。
 中に入った途端、みんなの視線が刺さった。それは顔色が悪い黒兎を、心配する目ではなく、好奇心と、嫌悪の目だ。それで、黒兎の味方はここにはいないことに気付く。

「良かった……俺、ずっと誰かに相談したくて……」

 そんな内田の声がする。嫌な予感がしていると、内田とその周りにいた人たちが、黒兎に気付いた。

「ほんと、言い寄られて困ってたんです。何度断っても、しつこく付き合ってくれって……」

 当てつけるように言う内田。一体誰の話だと黒兎は思う。実際は逆なのに、真偽を確かめるような人はいない。

 それから不思議なことに、内田の成績は前よりも良くなっていった。黒兎は内田のサポートを外され……というか、まともな業務さえ与えられなくなり、事務所の清掃や、書類整理ばかりで、閑職かんしょくに追いやられたのだと気付く。

 それでも、その中で自分にできることはあると思い、みんなが効率よく動けるように、レイアウトなどを工夫していった。

 内田の成績が一時期落ちたのは、綾原が彼に迫っていたせいだ。黒兎は真面目に働いているのにも関わらず、そのうちそんな噂が流れ出す。

 その頃には、黒兎は社員が集まる食堂にも、寄り付かなくなった。屋外の、別棟との間のちょっしたスペースで、ひっそりとパンをかじる毎日だ。

「あ、いたいた綾原さん」

 最近見ないと思ったら、こんな所で食べてたんですね、とやってきたのは、いずみだった。

「……何か随分やつれてますけど、何かありました?」

 わざわざここまで来たということは、黒兎を探していたのだろう。黒兎はいずみの質問に、曖昧に笑って誤魔化すと、彼女は気にした風もなく笑った。

「お疲れなら、いい先生ご紹介しましょうか?」

「え?」

 思わず黒兎が聞き返すと、いずみは半ば強引に、連絡先を聞いてきた。考えることが面倒になっていた黒兎は、嫌な予感がしつつも流されるまま、番号を教えてしまう。

「整体とかじゃないんですけど、東洋医学とか……そっち方面の流れをくんだ、整膚せいふって施術なんです」

 知り合いがやってて、とてもスッキリするから、と言ったいずみは腕時計を見て、ではまた、と慌てて去っていった。

(なんなんだ……)

 どうしていずみは、わざわざ自分を探しに来たのだろう? まさか、社内の噂を聞いて、それを更に広げるために、黒兎から話を聞こうとしているのでは?

 そう思って、サッと血の気が引く。

 言えない。元々誰にも言うつもりはないけれど。もうこの時の黒兎には、誰かに相談するという選択肢はなかった。

(こんな時、雅樹ならどう対応するのかな……)

 何でもそつなくこなす彼だったから、ニッコリ笑って流すかもしれない。

(だったら俺も……)



 この時のこの判断が、後々裏目に出ることなんて、黒兎は分かるはずもなかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】子供が欲しい俺と、心配するアイツの攻防

BL / 完結 24h.ポイント:4,849pt お気に入り:133

初恋はおしまい

BL / 完結 24h.ポイント:647pt お気に入り:28

【完結】贄の翼

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:37

stairs(完結)

BL / 完結 24h.ポイント:958pt お気に入り:44

しのぶ想いは夏夜にさざめく

BL / 完結 24h.ポイント:880pt お気に入り:7

囚われ王子の幸福な再婚

BL / 完結 24h.ポイント:1,114pt お気に入り:245

底辺αは箱庭で溺愛される

BL / 完結 24h.ポイント:11,054pt お気に入り:1,267

【完結】その声を聴かせて

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:62

処理中です...